103:与えられた選択肢



「うーん、イイ観察眼!やっぱりスバラシイね!」

やけに興奮したような声が上がりしおりが思わず目をやると、ソファのすぐ横にピエール監督が立っていた。先程まで東堂と話し込んでいたはずなのに。とっさのことに声が出なかったしおりを気にすることもなく、監督はニッコリと満面の笑みを浮かべながらこちらを見下ろした。

「確かにその手帳を拾ったのは私デース。巻島くんと違って名前を見ただけではどこの佐藤しおりさんかわからなかったので、中身も見てしまいました。ゴメンナサイ」

笑顔を崩さない彼からは邪気のひとつだって感じられない。だから彼が何を考えているのかもわからない。困惑するしおりに、けれどもピエール監督は話を続ける。

「中身を見て、私は直接手帳をお返しして貴女アナタとお話したいと思っていたのですが巻島くんがドウシテモ許してくれませんでした」

――さっきも私に会わせないようにこっそり迎えに行ってこっそり返そうとするし。ヒドイ人ね。

「それは監督が変なこと佐藤に吹き込もうとするからッショ!」

肩をすくめてため息をつきながら首を振る監督に巻島がツッコみをいれている。
自分の手帳のことなのに、その件について総北の身内同士が争っている意味がわからなくて、しおりは混乱しながらも二人に恐る恐る質問を投げかけた。

「あのー……変なことって?」

するとピエール監督はよくぞ聞いてくれましたとばかりに目を輝かせ、しおりの手をガシリと握る。

「佐藤サン、アナタ短期で海外留学する気ナイですか?」
「はああああ!?」

『留学』なんて突拍子もない単語にはしおりもびっくりしたが、それを実際声に出して表現したのは、同じ空間でその会話を聞いていた東堂だった。

見れば彼は口をパクパクさせて、顔面蒼白になっている。しおり自身はまだ何のコメントもしていないのに、彼の頭の中のしおりは既にフランスに旅立ってしまったらしい。目にいっぱい涙をためて、壊れたように小さく何度も首を横に振っていた。

「と、東堂くん……?」

呼びかければ、ハッと現実に戻ってきた彼が慌ててしおりと監督の間に割って入る。さっきまで二人で楽しくおしゃべりしていたのに、今の発言のせいでピエール監督はもう敵認定されてしまったらしい。

監督をギッと睨みつけ、しおりを守るように抱きしめる。あまりに強く抱きしめるものだから腕の中でしおりが潰れたカエルのような声を出していたが、パニック真っ只中の東堂にはそんなことを気にしている余裕すらないようだった。

「一体何を企んでいるのです」
「ンー?私は彼女の可能性を広げてあげたいだけです。自転車競技のトレーナーとしての可能性をネ」

【トレーナー】その言葉にしおりが微かに反応した。

自転車競技チームには、選手たちがレースで最高のパフォーマンスが出来るようバックアップするチームスタッフが複数在籍している。
選手の衣・食・住を管理し、トレーニングやコンディションの指導、メンタルサポートや怪我の予防、治療など、文字通り選手の心と体を支える仕事をするのがトレーナーだ。

日本では認定資格を持つマッサージ師や理学療法士がそういった場で活躍しているが、海外でのトレーナーは国家資格持ちの人材だ。公認の大学を出るかトレーナープログラムを卒業し、インターシップを経て認定試験に合格しなければならない。
そこまでは、しおりも知っていた。

……いや、『知っていた』のではない。
『調べた』のだ。これからも自転車の世界で生きていきたいから。チームを支える存在になるにはどうしたら良いのかが知りたかったから。

けれど実際、海外というワードが出てきた時点で足がすくんでいたのだ。元より英語は得意じゃない。その中でたった一人で、心が折れずに学べるかが不安だった。

自転車競技の最先端で勉強してみたい。でも踏ん切りがつかない。
そうやって迷っていたところにピエール監督からのこの提案だ。正直、揺れないわけがない。

東堂の腕の隙間からピエール監督を見上げると、彼は相変わらず何を考えているのかわからない笑顔でこちらを見つめていた。

「ちなみに留学の期間は来年の七月末から九月頭まで。日本は丁度夏休みデスネ」
「その期間は……っ!」

ピエール監督の言葉に東堂が絶句したのと同時に、しおりもうまく言葉を発することが出来なかった。

その期間には、インターハイ期間ががかぶっている。

もししおりが留学という選択をしようものなら、自動的に彼女がマネージャーとしてインターハイへ参加出来なくなるということなのだ。高校最後のインターハイ。同期の仲間たちが活躍するインターハイで、側に居られないことになる。

(ダメだ、それだけは)

自分をこの世界に引き戻してくれた彼らの最後の戦いで、自分が不在になるなんて、絶対やってはいけない。
考えただけで恐ろしくて。けれど心の奥で将来の夢の勉強をしたいと思ってしまっている自分もいて。間違ってもとんでもない答えをこの口が紡いでしまわないようにと、必死で口元を手で覆った。

「……しおり、こんな戯言など聞くな。もう帰ろう。絶対留学なんてさせんからな」

明らかに怒っている声色で東堂が言い放ち、しおりの手を引いて立ち上がる。そうしてまっすぐに出口に向かった東堂たちに、後ろから監督の声がかかった。

「東堂クン、アナタに彼女の才能を潰す権利があるのデスカ?」
「……失礼ですが、そんな綺麗事を言っても、本当はしおりをインターハイから引き離して箱学を出し抜きたいだけでしょう?」
「ホー!箱学は彼女が居ないと勝てないチームなんですネー、昔はモット強かったデスケド」
「違う!オレたちは……っ!!」
「東堂くん!」

声を荒げそうになった東堂を、しおりが制してなだめる。彼の肩がワナワナと震えているのは怒りのせいもあるが、きっと怖いのだ。もちろん箱学はしおりなしでも最強のチームであることには変わりがないが、それでも、インターハイにしおりが居ないという選択肢があるという想像をするだけで、どうしようもなく怖いのだ。

しおりは同じように震えている自分の手を東堂の背中に回し、支えるようにしながら出入り口の扉を開き、ピエール監督に頭を下げる。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。留学の件も、わざわざお誘いいただきありがとうございます。ですが正直かなりは混乱しているのでとてもお応えできません。今日はこれで失礼します」
「ウン。決まったらなるべく早く連絡クダサイね。巻島くん経由でもいいから」
「はい」

なるべく完結に、気が立っている東堂を刺激しないように気をつけながら返事をする。
巻島を見ると、緊迫した空気にすっかり参ってしまっているようで頭を抱えていた。……あとで謝罪のメールのひとつでも送らなければ。
彼に向けて小さく手を振ると、目ざとく気づいた巻島は少し引きつった笑顔で手を振り返してくれた。

そして監督は……――

「私は総北高校自転車競技部の監督である前に一人の教師デス。ライバル校の生徒であっても、子どもたちの将来を貶めるようなことダケは絶対にしません。ドウカそれだけは信じてください」

穏やかな、それでいてしっかりと芯の通った視線をこちらに投げかけてくる。
わかっている。自転車の話をする時にあんなキラキラした顔をする人が悪い人じゃないってことくらい、しおりにも、東堂にだってわかっている。
ただ混乱しているだけだ。この平穏をかき乱す選択肢を与えられて。それが少なからず現実味を帯びていることに怯えているだけなのだ。

二人は答えぬまま、もう一度お辞儀をして部屋を出た。
帰り道、並んで歩く二人の空気は重苦しい。始終こわばった顔をしている東堂の横顔に酷く心が痛んだ。

手帳なんて落とさなければこんなことにはならなかったのだろうか。
留学の話が出た時に笑い飛ばして突っぱねれば、東堂がこんな顔をすることもなかったのだろうか。

……いや、タラレバ論など意味がない。
すべてもう起こってしまったことなのだから。自分で選択して、解決しなければいけない。

ずっと抱きしめていた、すべての元凶を作った箱学カラーの手帳の存在がやけに重く感じる。大事なはずのそれを、カバンの奥底にしまいこんで眠らせた。



 
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