101:落とし物



「……ない」

しおりはカバンの中をゴソゴソと引っ掻き回していた。
探しているのは、自転車競技部のマネージャーになってから愛用している手帳だ。

箱学カラーを彷彿とさせる青と白のデザイン。それがすごく気に入って、衝動買いに近い形で買ってしまったお気に入りだった。
それでも無くしてしまったものは仕方がない……と、普通の手帳を落としただけだったらそう諦めが付いたかもしれない。
けれどこの場合の手帳はただの手帳なんかではない。だからこんなにも焦っているのだった。

そこには部員の参加大会だとか、新しい練習方法の案だとか、部員の練習風景を撮った動画を見ていて発見したことだとか。とにかく部活についてのメモを書き記していたのだ。

タイムや大会結果などの大きな記録は部活用の記録用紙に書いているので、しおりの手帳に書かれている情報のひとつひとつはほんの些細なものだ。
それでも他校からすれば王者箱学の情報の詰まった手帳に違いはない。

……いつ、どこで落としたのだろう。

めまいを起こしそうなほど混乱した頭で記憶をひとつひとつ辿っていく。

確か最後に手帳を開いたのは、新開の復帰レースの最中だったはずだ。大会の参加人数やコースの特徴、それに中間リザルトなんかをメモに残した記憶がある。
メモしている最中に先頭集団が来て、慌てて手帳をカバンにしまって、そして。

『抜け―ーー!!!』

トラウマと必死に戦っている新開に大声で檄を飛ばした。

今思うと新開には悪いことをした。ロードレースでの選手と観客の距離は他のスポーツに比べて断然近い。だからレース中でも案外観客の声が聞えるのだ。
それなのにあんな風に叫ばれて彼もさぞ驚いたに違いない。けれど優しい彼はレース後もそれについては何も言わなかった。
それどころか、ひと目もはばからずに叫んだ後、全力でゴールまで走ってグシャグシャになったしおりを、やけに晴れ晴れとした表情で出迎えてくれたのだ。

そう、全力でゴールまで走っ……――

「あー……」

しおりには、そこで全てがわかってしまった。
そうだ。落としたとすればきっとあの瞬間だ。手帳を慌ててカバンにつっこみ、その上確認もせずに走ったものだからきちんと仕舞われていなかった手帳が落ちてしまったのだ。

そうとわかれば探さなくては。いや、まず大会本部に電話で落とし物がなかったかの確認か。
大会概要の記された封筒を探し、連絡先に電話をしようと番号を打つ。焦るあまり間違えて打ち直す羽目になったが、何度目かの挑戦でようやくちゃんと打つことが出来た。
後は通話ボタンを押すだけ……――

と、その時、いきなり電話がかかってきて、ちょうど通話ボタンに指をやっていたしおりは相手も見ずに電話に出てしまった。
電話になんて出てる場合じゃないのに!!タイミングの悪さにショックを受けるが、出てしまったものは仕方がない。観念したように息を吐いて携帯を耳に押し当てた。

《佐藤か?オレッショ》

特徴的な語尾には聞き覚えがある。この声の主は、総北高校自転車競技部のクライマー、巻島だ。そういえば夏に番号交換してはいたが、こうやってやり取りするのは初めてのことだった。
意外な人からの電話に、本来なら「いま急いでいるから」と電話を切って一秒でも速く大会本部に連絡をするのが正しいのだろうが、思わず「どうしたの?」と聞き返してしまった。

《お前、昨日レース見に行ってたショ?》
「どうして知ってるの?あっ、もしかして巻島くんも来てた?あ、参加してたとか?」
《ちげぇよ、あんな平坦ばっかのレースに出たって最下位になるのが関の山……――じゃなくて!》

――お前、手帳落としただろ?

言われた瞬間、ドキリと心臓が波打ったのが聞こえた。

「……あ、りがと。拾ってくれたの?」

問う声が震える。電話口から肯定と、ついでに手帳の特徴が返ってきて、しおりにはそれが正にいま自分が探していたものだと確信することができた。
こんなに早く手帳の所在がわかったことにホッとする。けれど手放しに喜ぶことが出来る状態でもなかった。

だって、ライバルである総北高校が持っているということは、持ち主を割り出すために中身を見られているということだ。
ただでさえ実力で今年の箱学を追い詰めた総北へ、自ら弱みをさらけ出してしまったということなのだ。

――自分のミスが、来年の箱学の首を締めていく。

情報の程度や量の問題じゃない。そういう事実があったことが問題なのだ。
ただでさえ福富の件や新開の件で苦しい状況なのに、その上部員たちの情報まで渡してしまうなんて。

自分のせいで箱学が負けたりしたらどうしよう。手も足も出ずに完封されてしまうような事になったら。皆の努力が、全部水の泡になってしまったら……――

様子を察したのか、電話越しから巻島の心配したような声が聞こえはしたが、不安と絶望に打ちひしがれているしおりの耳には届かない。
未来で自分が不幸にしてしまうであろう部員たちの姿が頭をちらついて、どうしても離れてくれなかった。

《ちっ……》

埒が明かないと思ったのか、巻島につながっていた電話が小さな舌打ちとともにブチリと切れる。ツー、ツー、と耳元から途切れなく聞こえてくる無機質なビジートーンがより一層悲壮感を掻き立てて、それが辛くて思わず口から嗚咽が漏れた。

きっと巻島は今から皆に手帳を見せてそれを元に箱学の研究をするのだ。
総北に限らず負け越している他校からすれば目の上のたんこぶな箱学は邪魔な存在だろうから、もしかしたらその研究結果を他の高校にもリークして皆で箱学を潰しにかかってくるかもしれない。

ああ、そんな、巻島くん。なんて狡猾なの。そんな人だとは思わなかった!もっと紳士的で優しくて親切な人だと思っていたのに!

「うあああああん!巻ちゃんの鬼ーーー!!!」

完全に八つ当たりで叫べば、それと同時に突然部室の扉が勢い良く開けられた。

《誰が鬼ッショ!!てか声でけえ!》

聞こえてきたのは先程切れたはずの声。巻島の声だ。
驚いて振り向けば、そこには携帯を片手にした東堂が息を切らせて立っている姿があった。

こちらに向けている携帯画面の通話相手には、巻島裕介の文字がある。ハンズフリーにしてあるのか、電話越しに巻島の文句たらたらな声が聞こえ続けていて、珍しいことに東堂の方が迷惑そうな様子だった。

「巻ちゃんから電話がかかってきたと思ったらいきなり『佐藤を探せ』とはどういうことだ!慌てて来てみたらしおりが泣いてるし、何なのだ!」

意味がわからん!と立腹しながらも、東堂は涙と鼻水でぐずぐずになってヘタりこんでいるしおりの側によると持っていたティッシュで拭いてやる。

「ほら。チーンしろ、チーン」

言われるままに鼻をかむと、それで大分落ち着いてきたらしい。まだ多少しゃくり上げては居るが、先程のようにわんわんと声を上げて泣くような気配はもうない。

「一体何があったのだ」

様子を見計らって問うてくる東堂に、しおりは苦しそうに息をしながらも少しずつ理由を話した。
手帳を落としたこと、そこに書いてあったもの。拾ったライバル校のこと。その結果生み出される最悪な事態のことも。ぜんぶ、全部。

「ごめんなさい、私のせいで負けたら……どうやって償えばいいかわからない」

そうして大きな瞳から再び透明な雫がぽろぽろと落ちて、しおりの頬を濡らす。そんな彼女の様子を見ていた東堂は、何だか気まずそうな顔をした後、はあ、と大きく息を吐いて彼女の髪をグシャグシャと撫でた。

「あのなあ、しおり。心配をしてくれている所悪いんだが、部活のメモくらい見られたところでどうということはないぞ」
「どうして?どんな小さな記録だってそこから得られるものはあるもの!大問題じゃない!」

思わず声を荒げたしおりにも、東堂は動じない。
それどころか顎に手を当て、余裕綽々な表情をこちらに向けていた。

「オレがそう思う理由はふたつだ」

ひとつは、そんなメモ程度のことから色々な情報を読み取れるヤツなど滅多にいないから。
もし万が一そんな稀有な人材がいたとしても、選手の名前やコースすら書かれていない覚え書きのタイムや、思いつきの練習メニューばかりのメモ帳にはダミーが多すぎて使い物にすらならないだろう。

確かにそうかもしれない。東堂の言葉に、しおりは今度ばかりは少し冷静さを取り戻して小さく頷いてみせた。

「もうひとつは……これがオレが『どうということはない』と思った決定的な確信だ。――巻ちゃんがオレのライバルだからだ」

言った瞬間、ハンズフリーの電話越しでそれまで黙っていた巻島が喉でおかしそうに笑ったのが聞こえた。

《……それは牽制かぁ?尽八ィ》

つまり東堂は自分のライバルである巻島が拾った手帳なんかで敵チームを研究するような真似をするはずがない。と言っているのだ。
それはしおりに向けた言葉に見せかけての、ライバルへの牽制。

東堂は巻島からの問いをはぐらかすような笑い声で返すと、満足したようにハンズフリーを通常の通話に切り替え、携帯電話をしおりへと渡した。
慌てて受取り画面に耳元に押し当てると、先程よりクリアで聞き取りやすい巻島の声が聞こえてくる。

《……まあ、そういうワケでオレはこれ以上ナカ見たりはしねえから安心しな。ってか元々1ページしかめくってないけどな》
「え?どういうこと?中見て私の手帳だって判断したから連絡くれたんじゃないの?」
《違ぇよ。お前手帳の最後のページにでっかい字で佐藤しおりって書いてるだろ。保育園児じゃねェんだから……持ち物に名前って……ぶっくく……っ、》
「なっ……!!」

電話越しで吹き出した巻島の声に、しおりの頬がかあっと熱くなる。
というか、ちょっと待って欲しい。手帳裏の名前?そんなもの、書いた覚えがない。

「巻島くん、手帳に書かれた名前のとこ写メ撮って私に送ってもらえる?」

依頼するとすぐにしおりの携帯が振動し、写真添付されたメールが送られて来た。開いて中を確認してみる。
そこに書かれていたのは、キッチリと揃った楷書のキレイな字。確かにしおりの名前は書いてあるが、どう見てもしおりの字ではなかった。

けれどその文字には見覚えがあった。それは授業中、ノートの端を千切って放課後の練習メニューを尋ねてくる字だ。しおりが貸したノートの端に落書きをするその人の字だ。
彼女はじっとりとした目で、ゆっくりと隣の東堂を振り返った。

「……東堂くん?」
「わ、わーっはっはは!!やはり持ち物には名前を書いておかんとなあ!」
「うっさい!東堂くんのばかー!!」



……耳元でギャアギャアとケンカを始める箱学生に、巻島は携帯を少し耳から離して深くため息を付いた。
こいつらはいつだってこれだ。珍しく真面目な話やシリアスな展開かと思った次の瞬間には喚き立てている。泣いて笑って怒ってまた笑って。見ていて飽きないが、非常に疲れる。

現実逃避に顔をあげると、そこには後輩二人を連れて走り回りながら豪快に笑っている田所の姿があった。

「行くぜ!総北名物、肉弾列車!!」
「流石です田所さん!」
「すごい!!田所さん!!」
「ガーッハッハッハ!!ついてこい、手嶋、青八木!」

……こっちもさほど変わらないのだと察して、また深くため息を付いた。

あっちでもこっちでも聞こえるうるさい声に、巻島はうんざりしながら手の中にある手のひらサイズの手帳の表紙を指でなぞる。白地にブルーのラインの入った、驚くほど箱学カラーの手帳だ。この持ち主はそれだけ箱学に想いを寄せていて、そして自分の学校に誇りを持っている。

いつも勝ち気で笑顔を絶やさない彼女の涙声を聞いた。いつも冷静なのに、手帳がライバル校に渡ってしまっただけで取り乱す彼女の脆さが見えた。
それだけ、彼女の中での箱学は大きいものなのだ。母校なのだから愛着を持つのは当たり前といえば当たり前なのだけど。

怪我をしなかった彼女が。現役のままの彼女が、地元である総北高校へ入学して自分たちの同期として自転車競技部に入ったら一体どんな感じだったのだろう、と頭のなかで絵空事を並べては不毛な行為を自嘲して笑った。

「で、この手帳どうする?そっちに送るかあ?」

聞いているのかいないのかわからない電話に話しかければ、電話越しの喧騒がピタリと止んで、彼女の弾むような声がした。

《取りに行く!》
《は!?ならん、ならんぞしおり!今週末はオレのレースがある!総北に行っているヒマなんて……!》
《何言ってるの!いまからだよ!》

迷いすらないその声を聞いた東堂の慌てっぷりが目に浮かぶ。
いつも自分を振り回してくる男のそんな姿に、巻島は堪えきれずにクハッと笑った。


 
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