9:神に愛されるということ



「……いつからそこにいたの」
「ずっといた。新開に呼ばれたから出て来ただけで、立ち聞きするような真似はしていないから安心してくれ」

疑うように視線を投げてくるしおりに、それでも福富は眉ひとつ動かさない。それを見て、しおりはハア、とため息をついてうなだれた。

福富が嘘をつかない人だというのはわかっている。気真面目で、まっすぐで、そして酷く不器用だ。その彼が何も聞いていないというのだから、確かにそうなんだろう。東堂の方は、どうかしらないけど。
珍しく静かに立っている彼に目をやると、彼は黙ってしおりに目を合わせて来た。

「オレだって盗み聞きなどしていないぞ。けど、大体のことはフクから聞いた。選手だったのだな、しおり」
「うん、でももう乗らない」
「何故だ。すごい選手だったのだろう?女性が出られるレースだって、数はあまりないが確かにある。続ける道などいくらでも……」
「言い方が悪かったね。乗らないんじゃないの『乗れない』の」
「……どういうことだ」

食ってかかってきたのは福富だった。当たり前だ。ずっと探してきた選手が目の前にいるのに、口にした答えが『もう乗れない』なのだ。腑に落ちないにも程があるのだろう。
一見無表情に見える彼の胸には、きっと不安と焦燥が入り混じっている。ごめんね、と今日何度目かの謝罪を彼の心の投げかけてから、しおりはスッと自分の右足を指でさし示した。
促されるように視線を落とした福富と東堂は、そこでハッと息をつめた。

だいぶ薄くなっているが、大きな傷跡がある。そして、結合の跡も。選手が自転車に『乗れなく』なった理由を知るのには、十分すぎる証拠だった。

あの日、優勝候補のしおりがゴールにこなかったのは。途中、救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら道を逆走していったのは。しおりがレースから姿を消したのは、このせいだったのだ。

「すまない、しおり。オレは何も知らずに……酷いことを……」

消え入りそうな声で、福富が謝罪を口にする。表情を険しくし、唇が切れるのではないかと思うくらいに噛みしめている彼に、しおりは困ったように笑って、震えるその手に触れた。

昔も大きかったが、この二年でめっきり男くさくなった手だ。男性主流のロードレースで女が優勝するなんて、きっと皆に疎まれていただろうに、この手はいつもそばにいて、背中を押してくれた。それがどれだけ支えになったか、彼はまだ知らない。
関節ひとつ分以上違う手のひらを、ぎゅう、と握ると、後悔の念に苛まれていた彼の瞳が、やっとこちらに向いた。

「いきなりいなくなって、ごめんね。次のレースも戦おうっていう約束、守れなくてごめんなさい。あの日のレース、優勝したんだってね。遅くなったけど、おめでとう、福ちゃん!」

笑ったしおりに、福富の方は耐えきれなくなって彼女を抱きしめた。
小さな体。いや、女性にしては標準位なのかも知れない。自分が大きくなったのだ。しおりがいなくなってぽっかり空いた穴を埋めようと、ただがむしゃらに鍛えてきたから。
折れそうなくらい細い腕が、それでも力強く福富を抱き返す。

「ありがとう、しおり」

言った福富に、しおりが返した笑顔は、今日一番の笑い泣きだった。








**********







「それで、しおりは我が部のマネージャーをやってくれるのか」

その日の夕方。今日もほぼ雑用だけで過ごした部活終わりに、東堂が福富に声をかけた。あの後、再開に感涙の涙を流し合う二人に気を遣い、新開と東堂だけ先にその場を去ったのだ。その時は良い話だな、なんて心に温かいものを感じながら部活へ向かったわけだが、ふたを開けてみればそこには雑用の山、山、山。
肝心の、マネージャーをやってくれるのかどうかという問いを投げかけるのを忘れていたのだった。

元自転車乗りなら、トレーニングや、レースのいろはも分かっているから一から覚えてもらうよりも非常に楽だ。それに、彼女は福富も認めるほどの実力者。練習へのアドバイスだって見込めるだろう。彼女が入ってくれれば、一年は一気にのし上がれる。そんな気がする。期待を込めて福富を見れば、彼は静かに首を横に振って、否定で答えた。

「マネージャーは、やらないそうだ」
「何故だ!自転車には乗れないが、マネージングくらいは」
「大好きだったものがいきなり出来なくなる恐怖くらい、お前にも経験しなくともわかるだろう」
「ぐっ……」

確かにそうだ。自分だって、今こそ毎日自転車を乗り回しているが、それが突然できなくなったら、酷く絶望するだろう。自転車中心の生活。どうしたら早くなれるのか、強くなれるのかを始終考えている。それが、なくなるのだ。
きっと克服するまでに、気の遠くなるような時間がかかるに決まっている。考えるのも辛い。彼女はそんな時間を過ごし、だからここまで自転車を避け続けて来たのだ。
その辛さを考えただけでブルリと寒気がし、嫌というくらい納得して黙り込んだ。

「ただ、あいつは根っからの自転車好きだからな。マネージャーの件話している間も、遠くで先輩方が走っている姿を無意識に目で追っていた。まるで自転車に魅入られたみたいに。だから、グイグイ背中を押してやれば、きっとすぐ戻ってくる」
「……それって」
「ああ、東堂。お前としおりは同じクラスの隣席のよしみだ。今まで以上に、ガンガン行ってくれないか」
「っ……了解した!!なあに、この東堂尽八の美貌と話術にかかれば、落ちない奴などいないのだよ!!期待して待っていてくれ!!」

高笑いした東堂に、3年の先輩が「東堂うるせえ!!」なんて怒鳴っている。瞬間、ドッと笑いが起き、調子に乗った罰として、上級生たちにもみくちゃにされていた。
その様子を見て、新開はやれやれといった風に息を吐くと、また一本、パワーバーを取り出してムシャムシャと食べ始めた。……もし、この空間に彼女がいたら、それはそれは楽しいだろう。

「苦労するなァ、しおりちゃん」

再起不能の怪我をしても、どんなに避けようとしても。
自転車の神様と、自転車を愛する男たちに愛されてやまないのだ。






 
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