99:右にキミ



新開の復帰レースは、空が高く澄み渡る穏やかな色をしていた。天候に比例するように、レース開始前の新開の様子も非常に落ち着いている。

「大丈夫そう?」

声をかければ、ニコリと笑った新開が「お陰様でな」と返してくる。そうは言っても念のため、と彼の右手をとって脈を計ってみるが、少し早いくらいで何ら問題はないようだ。
むしろ力強く脈打つ鼓動が、久々のレースを待ちきれんと高ぶっているように聞こえた。

頑張って。応援してる。そんな言葉で励ます必要もないくらい、今の新開からは強さを感じるのだ。


スタート10分前。精神統一のために新開が目を瞑る。その様子を見て、しおりは邪魔をしてはいけないと彼の脈をとっていた手を離した。集中している彼の気が散らないように、静かに。その場を離れようと足を一歩後ろへ引くと、急にその手をガシリと掴まれて驚きで声が出てしまった。

「ちょ……っ」

部員たちは時たま、こうやってレース直前にしおりにちょっかいを掛けてくる。その度に注意はするのだが、彼らのイタズラに笑う姿はいい具合に力が抜けていて、王者の余裕を感じられるようないい笑みなのだ。そしてレース前にそんな笑みを浮かべた部員たちの結果はなぜか普段よりずっと良い。だからちょっかいをかけられるしおりも、あまり強くは怒れないのだった。

けれどそうはいってもレースに出るのは箱学の部員だけではない。たかが応援者がレース直前まで選手の側にいたら他の選手にも邪魔になってしまう。
離れようと手を振ってみても、回してみても、大きな手のひらはしおりの細い手首を掴んだままビクともしないのだ。これは流石に文句の一つでも言ってやろうとしおりが顔をあげると、新開は精神統一で目をつむったまま、酷く穏やかな笑みを浮かべていた。

……ホリの深い横顔は、まるでギリシャ彫刻のように美しい。

新開の容姿をそんな風に褒めていたのは、確か後輩の泉田だったか。
なるほどその横顔は確かに整っていて、そりゃあ周りの女子に黄色い声を浴びるわけだ、と妙に納得してしまった。

「今日だけだ」

ポソリと、突然新開が呟いたのでしおりは「え?」と首を傾げて聞き返してしまう。……今日だけ?何が?
わけが分からず次の言葉を待っていると、彼はスッと目を開き、視線をまっすぐ前に向けたまま続けた。

「今日だけはオレのことだけ見ててくれ。他の部員でも、寿一でも、尽八でも靖友でもなく。……頼む」

その声はどこか緊張した面持ちで、少し震えているようにも聞こえる。こちらとしては言われるまでもなく、目の前の彼しか見る気はない。
だって今日は新開が復帰できるかをかけたレースだ。他の部員も参加していないし、他に一体誰を見ればいいのか。
きょとんとしながら、「もちろんそのつもり」と肯定を返せば、新開は「意味合いがなあ、違うんだけどなあ」などと苦笑しながらも、いつものタレ目をしおりの方に目をやった。

握られている手のひらの力が、一瞬だけグッと強くなる。まるでしおりの存在がここにあって、自分を見ていることを確かめているかのような行動。どうしたのだろう。見つめ返せば、彼は酷く優しい声で言うのだ。

「やくそく、な」

柔らかな笑顔に思わず見とれてしまう。しかし、それはしおりだけに限らなかったようで、彼の笑顔を目撃した周辺の女性たちも感嘆の息を吐いていた。黄色い声は聞こえているだろうに、新開は未だにしおりしか視界に入れていない。
穴が空いてしまうのではないかというくらい見つめられて、いい加減照れてきてしまう。パッと視線をそらしてうつむけば、丁度その時スタート5分前のアナウンスが流れ、しおりはこれ幸いと慌ててその場を離れた。

つながっていた新開の手が今度は抵抗なくスルリと抜ける。そのことに心底ホッとして、握られていた部分を指で撫でた。
これ以上見つめられたら。手を握られていたら、レース中どんな顔をして彼を応援したら良いかわからなくなる。

《3・2・1……スタートです!》

軽快なピストルの音に、選手たちは一斉に飛び出していく。その背中を見送りながら、しおりはいまだ熱を持った顔をなだめるように、自分の頬に手のひらを置いたのだった。






**********








――気持ちを発散させるように、ただペダルを回していた。頭にあるのは出発前に彼女が見せた、呆然としたような赤い顔。……うん、すごく可愛かった。

でもあれは、自分を意識してくれたのではなく、単なる『照れ』から来るものだろう。自転車ばかりに夢中になって、恋愛方面には鈍すぎる彼女があんなことくらいで気づいてくれるなんて思ってはいなかった。

……しかし予想外だったのは、スタート前に彼女とイチャついていると思われて、他の選手数人が自分を妬むようにマークしてきたということか。
まあ、あまりにうっとおしいから大分前に千切ってしまったのだけれど。

彼らがスピードについてこれずに千切れていく瞬間、後ろから「ふざけんなリア充!」という文句が聞こえてきた気がするが、もしかして彼らの言っていた『リア充』とは自分のことだろうか?
自分を指すにしては全くもって見当違いな単語に、思わず鼻で笑ってしまった。

こんなに一緒にいて、ずっと前から自分の気持ちも自覚しているのに、彼女に好意のひとつも伝えられない男が。それどころか良いところを見せたいという気持ちばかり先走って結局いつも弱みばかり見せてしまうような男が。
彼らのいう『リア充』に当てはまるとは思えない。むしろ。

「情けねえ男」

ポソリと呟いた独り言。隣を走っていた選手が一瞬不思議そうな顔をしたが、風切り音でうまく聞き取れなかったのか、やがて何事もなかったかのように前を向いた。
それに釣られるように新開も前を見る。そうだ。今は余計な事を考えている場合ではない。自分は、この勝負に勝たなければいけないのだ。

先頭集団は自分を合わせて5人。今は無理に前に出ずにわざと一番後ろについている形だった。
何故って、そりゃあ。このレースが、新開が今までしてきた『前を抜く』練習の成果を見るものだからだ。練習ではうまく出来ても、レース本番。最終スプリントで使い物にならなければ意味がない。脳裏にチラつく彼女の姿を必死で振り払いながら、新開はそのタイミングを伺っていた。

まずは慎重にケイデンスを上げ、隣にいた選手の右側を抜いてみる。これは問題ない。多少手が汗ばんだものの、この練習は荒北たちが何百、何千回と付き合ってくれていたから、自分でも驚くくらいすんなりと出来た。安堵の息を吐いて、一旦列に戻った。
……さて、問題はスプリント中の追い越しだ。

練習中もこれに手を焼いたのだ。なにせ、例の事件がスプリント中に起きたものだから初めは左側はおろか、右側を抜くことすら怖くて出来なかったほどだった。

抜くときに自分の左にいる選手の脇から『何か』が飛び出してきたら……――そう考えるとペダルを回す足が止まってしまう。それでも練習に練習を重ねて、状況はマシにはなったハズなのだ。少なくとも、練習に付き合ってくれた4人の右は抜けるようになったのだから。

しかしそれは彼らの隣だから抜けたのだ。信頼している仲間が大丈夫だと。抜けと言ってくれるから、抜けるようになった。

でも、今は違う。
ここにいる全員が『新開を前に出すために道を空けてくれる味方』などではなく『王者箱根学園に勝とうと死に物狂いで邪魔してくる敵』なのだ。しかもおそらく、どのレースに行ったって、この肌にビリビリくるような敵意はまっすぐに自分に飛んでくるだろう。

時には際どい手を使って。時には他校のライバルとまでも協力して『箱根学園』を落とそうとしてくる。
追われる立場というのはそういうことだ。何度も羽織った王者のサイクルジャージが、初めて重いと感じていた。

「出たぞ!潰せ!」

誰かの声に、ハッと我に返る。見れば前方の選手がアタックを仕掛けているところだった。
集団のスピードが一気に上がる。ゴールまで2キロだ。アタックを仕掛けるには早いが、誰かが阻止しなければこのままゴールまで逃げられる可能性だってあるから気は抜けない。

長いレース経験の中で何度も見た光景だ。頭より先に体がアタックを阻止しようと迷わずスピードを上げていく。
……そんなに速くはない。これならすぐに潰せる。

そう思ったのに。

前方の選手を抜きにかかったその時、何かが飛び出してきたのが見えた気がして、ゾワリと鳥肌が立った。

「っ……おい!危ねーだろ!スプリント中にブレーキ掛けてんじゃねーよ!」

怒鳴られて気がついたが、無意識に動いた指先が勝手にブレーキを掛けていたらしい。減速した新開を後続選手が迷惑そうに避けて走り去って行った。
ドクドクと、不愉快なくらいうるさく心臓が鳴っている。先程まで熱かった体が、一気に指先まで冷たくなるのを感じてめまいを起こしそうだった。

何も飛び出してなんて来ていない。先程のはトラウマが生み出す幻覚だとわかっているのに、震えだした体は恐怖を思い出して止まってくれなかった。

「……っくそ!!」

なんでだよ。あんなに練習したのに、なんで抜けない。
引き離された先頭集団に追いつくために我武者羅にペダルを回して、なんとか追いつく。先程アタックを仕掛けた選手はどうやら潰されたらしい。ゴールまで1200メートル。

――また、誰かがアタックを仕掛けた。

「っ……!!!」

追いすがるように新開も立ち漕ぎスタイルに移行する。何でもいい。前を。前を抜かなければ。
それだけに集中していて、普段はここぞというときにしか出ない『鬼の顔』が半分出てきてしまっているのを感じていた。

それでも抜けない。前に出ようとした瞬間に『何か』が見えるのだ。
何度も、何度も挑戦する。ゴールは着実に近づいているのに、未だ成功の兆しすら見出だせていない状況に、焦りでパニックを起こしかけていた。

スタミナの配分なんてもうわからない。嗚咽なのか、悲鳴なのか。わけの分からない音が漏れ出して、開いた口からはダラリと舌が垂れた。

皆が背中を押してくれたんだ。皆と一緒に走りたいんだ。来年の夏、皆でてっぺんを取りたいんだ。見せたいんだ。もう一度栄光の色を……――彼女に。

残り300メートル。
このスプリント勝負で勝敗は決まるだろう。頭は完全に酸欠で、余計なことなど一切考えられない。新開の頭の中を占めるのは、ただ自分の前を走る選手を抜くことだった。

……前に、前に出ろ!!

震える足を叱咤してペダルを踏む。怖くて仕方がない。情けないが、涙がこぼれそうだった。
歪む視界の中、また左から飛び込んでくる幻覚が見えた。息が詰まる。指がブレーキに掛かる。それを引こうとした、その時。

「抜け―ーー!!!」

力の限りに叫んだであろうその声の主を……――右側から聞こえた彼女の声を。新開が間違うはずがなかった。反射的にペダルを踏む。そのまま思い切り回せば、今まで一度も抜けなかった選手たちが、あっさりと自分の視界の後方に沈んでいったのが見えた。

開けた視界のその先に、ゴールラインが見える。
そのまま一着でラインを切れば、観客席から割れんばかりの拍手が舞い起こった。
優勝なんて、何度も経験している。なのにこのゴールの景色は今まで見たどんな景色よりもキレイで、なんだか夢見心地だった。

思わず両手を天高く伸ばしてキラキラと降ってくる太陽の光を手の中に握り込む。ただ空気を握り込んだだけだとわかっているのに、手の中に太陽がいるのかと思うくらい暖かかった。

無意識にボロボロと涙がこぼれて来た。
あんなに試して駄目だったのに。もう諦めかけていたのに。彼女の……しおりの声が聞こえただけで恐怖なんてどこかに吹き飛んでしまった。
魔法みたいだ。いや、単に自分が単純なだけかもしれないけど。

「新開くん!」

その時、弾んだ声がかかり、新開は観客席の方を振り向いた。
そこには300メートルを全力疾走してきたのか、髪をグシャグシャに乱し、自分と同じく目からボロボロと涙を流しながら泣き笑いしているしおりの姿があった。
彼女の喉が苦しそうに音を立てている。泣きながら走ったせいで息が上がって、もう言葉も発せないようだ。目が合った瞬間、喜びでいっぱいだった彼女の顔が耐えきれなくなったようにクシャリと歪み、目も当てられないような顔になる。周囲も彼女の勢いに少し引き気味だ。

でも、彼女は気にしていない。だって今、彼女の目には新開しか映っていない。
一方的に無理やり交わさせた『約束』なんて、きっと彼女は忘れてしまっているだろう。でもこうして夢中で見つめてくれる彼女のキラキラした視線が、何よりも嬉しかった。

吸い寄せられるように、観客席の彼女の方へ足が向かった。最初はゆっくり。徐々に、早足で。一緒に戦った愛車を引っ張って彼女の元へ駆け寄っていく。

その時、新開はある確信を持っていた。
たぶん自分は、もう右を抜くときに『何か』が飛び出す錯覚を見ないであろうということを。何故かって……だって右を抜くたびに自分が思い出すのはきっと、彼女の声だからだ。

あの極限状態の中で聞こえた「抜け」が今でも耳に張り付いて消えないのだ。雑踏の中、彼女の声だけが何よりもクリアに聞こえて、力をくれたのだ。

――勝利の女神が右にいてくれるなら。だったら何も怖いことなんてない。

近づいてくる新開を、受け止めるように大きく広げた彼女の腕の中に、何の躊躇もなく飛び込んでやった。




 
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