98:単純明快デモクラシー



「……何をしている」

その時、部室のドアが開かれてそう声をかけられた。パッと入り口付近に目をやれば、いま練習を終えて戻ってきたのだろう。そこにはまだプレートが裏返されていなかった件の3人の姿があった。

静かにこちらに視線を向けてくる福富とは裏腹に、東堂と荒北は信じられないものを見るかのように目を見張り、ベンチに座るしおりと、彼女の膝の上に頭をあずけている新開を交互に見ては険しい表情を浮かべていた。

特に東堂は目に見えて取り乱し、入口を塞いでいた福富を押しのけるように部室内へ駆け込むと顔を真っ青にしてしおりに詰め寄ってきた。

「なっなななんっ……!!しおり……お前、もしかして隼人と……っ!?」
「え?うん、そうよ」
「やっぱり!いつからだ!?何故オレたちに言わんのだ!」
「えっごめん、だって急だったから」

そう。本当に急だった。
2人で練習していた新開が、追加練習中に脱水症状を起こして帰ってきたのはついさっきなのだ。

「いま水分補給して、横にした所。少し休めば良くなると思う」
「そんっ……は?なんだって?脱水症状?」

しおりの説明に釣られるように、東堂の視線が新開に落ちる。
そこには確かに彼女の膝の上で、横たわる新開がいた。しかしよく見るとその脇や首元には保冷剤が噛ませてあり、側にはドリンクボトルが置かれている。それは、我が自転車競技部でも夏場によく見た光景だった。

「ッンの!紛らわしいんだよボケナス!」

吠えた荒北の声に、どこからか漏れたくぐもった笑い声がかぶさる。音源がどこかなんて、探すまでもなくわかる。タオルで顔を隠した新開の肩が、小刻みに震えていた。

「「笑うな!」」

東堂と荒北の声がキレイにハモッて、それを合図にこらえきれなくなった新開が盛大に吹き出した。

「ふ、は……!!お前らっ……必死過ぎだろっ」

息も絶え絶えになりながら、新開がのっそりと起き上がる。しおりが顔色を伺えば、どうやらだいぶ良くなっているようだ。なんだか分からないが、先ほどとは打って変わって朗らかに笑う新開にホッと息をついた。

「……本当、お前らといると楽しいよ」

ひとりごちるように言う新開。いつもとは違う、そのどこか物悲しい声色に、それまで騒いでいた周囲も気がついたのだろう。いつの間にか新開に視線を集めたまま部室がシンと静かになった。

そんな中、ふと新開がしおりの方を向く。覗き込んでくる眼光は強く、けれどどこか縋るように弱い。不思議な色合いだと思った。彼はしおりを見つめたまま、ゆっくりと瞬きをして、やがて決意したように、福富たちの方へ向き直った。

「――左側がな、抜けないんだ」

静寂の後、彼が吐き出したのは夏前からずっと抱え込んで来た秘密であった。
ひた隠しにしてきたトラウマを。そのせいで致命的ともいえる弱点を見つけてしまったことを、新開は言葉を選ぶようにトツトツと話し、皆に聞かせた。

自惚れが過ぎた結果に奪ってしまった小さな命の話を。
その代償に自転車に跨ることすら出来なくなった日々の話を。

「練習でなんとか自転車には乗れるようになったんだが……このままじゃ無理だ」

そう。どうあがいたって今の状態では新開は来年レギュラーとして走れない。実力第一の箱学自転車競技部では、選抜選考会に残れるかどうかも微妙なところだった。
他の部員たちは、来年に向けて日々進んでいく。なのに新開だけが、過去に囚われたまま動けずにおいて行かれてしまうのだ。

今までみたいに、当たり前のように一緒に走って、言い合いをして、ふざけあって、笑いあって……そしてチームとして戦うことができない。

気まずい静寂が部室内に広がっていく。しかし、そんな沈黙を破ったのは、福富の一声だった。

「だったら簡単だ。問題ないな」

一瞬で部室内の視線を集めた彼は、いつもの声色で淡々と話していて、そこには言葉通り新開が抱える問題への絶望や悲壮などは微塵も感じられなかった。

「右を抜け。敵の右側を全力で抜けばいい。不得意な左を克服する必要はない」

当たり前のように言い切った福富に、皆は呆けたようにポカンと口を開けている。

酷く単純な解決策だ。けれど、どうしてだろう。福富から発せられたというだけでとてつもなく頼もしい言葉に聞こえてきてしまう。
昔からチームを引っ張る立場に居た人だから、誰よりも頼もしい存在ではあったのだが、ここ最近の彼からはそれ以上のものを感じていた。

主将としての責任やチームのエースとしての貫禄。就任してまだ間もないが、福富にはそれらが備わってきたのだろうと、部員たちがたいそう喜んでいたのは知っている。
けれど、しおりは彼からそれらとは違う凄まじい覇気のようなものをヒシヒシと感じているのだった。

きっかけはきっと、インターハイ後に訪れた総北高校での出来事だ。
あの日、彼と金城が何を話したかは分からないが、あの日から彼の視線は常に来年のインターハイに向けて揺るがず、勝つ為ならすべてを投げやってしまいそうな雰囲気ですらあった。

だから、来季の4番候補であった新開からの『抜けない』という天地を揺るがすような告白も、福富にとってはどうということはない。
更なる強さを求める過程で超えられる、いや、超えるべき障害なのであった。

新開はまだ呆けたように福富を見上げている。そしてしおりも、同じような表情で福富を見ていた。

『左が駄目なら右』

言っていることはわかる。けれど、この作戦は単純だが実践するのは非常に難しい。

要は前を走る選手の右側を空けさせれば良いわけだが、自分を抜こうとする後続選手にはいどうぞと道を開ける選手などいないのだ。だから右を空けさせるために、道幅の広狭や天候、参加人数やレース状況に応じた作戦を立てなければならない。
実践に実践を重ね『こうすれば右が空く』というテンプレートを叩き込む必要がある。

並大抵の努力では無理だ。いや、無謀とも言える。
けれど福富の目はしっかりと新開を見据えていて、彼が本気なのだということはすぐに理解できた。

新開の瞳が惑いで揺れている。それはそうだ。今さっきまで4番の辞退すら考えて告白していたのに、目の前の鉄仮面は打開策を突きつけてきて「もがけ」というのだ。

ここまで這い上がってこいと、言ってくれているのだ。

「ふ、はは!良いじゃないか!オレもトミーと同意見だな。右抜きだったら誰にも負けないスペシャリスト!なんと美しい!」
「ってかよォ、てめえにゃスプリンターの才能あンのに簡単に捨てようとしてんじゃねェよボケナス!」

次々と投げかけられる彼ららしい言葉。そんな言葉たちに、先程まで張り詰めていた新開の表情が、救われたかのように柔らかく変わるのを、しおりは見逃さなかった。

そうだ。彼らは立ち止まった仲間を切り捨てたりしない。勝つために自分たちも立ち止まって、更に速く進化してまた走りだすのだ。今まさにすくい上げられようとする新開の姿に、一年前の自分が重なるような気がした。

無言で差し出された福富の手を、新開がしっかりと握って視線をかえす。

「ありがとな、寿一。皆も……礼を言う」

迷いの消えた彼の目は確かに「もう諦めない」と語りかけてくるように見えた。



 
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