97:抜けない
後ろから車輪の音が追ってくる。
速度もハンドルさばきも安定していて悪くないペースだ。むしろペースメーカーとして前を走る自分のほうが息が上がっている気さえする。
しおりはくるりと首を捻って、後方に叫んだ。
「新開くん、そのままケイデンス上げて!私の合図で抜いてみて!」
「オーケー!」
途端、ぐんと加速する彼の重圧を背後に感じる。余裕すら感じられる安定したペダリング。それを見たしおりは、今が真剣なトレーニング中だとは分かっていたが、つい口元が緩んでしまうのを抑えられなかった。
……だって、ほんの数か月前まで彼は事故でのトラウマで自転車に跨ることさえままならなかったのだ。
精神衰弱し、うまく行かないイライラで時には八つ当たりまでして、それでも少しずつ乗れるようになって、ようやくここまで回復した。
それを近くで見守れるというこの瞬間が嬉しくないはずがない。
車輪の音がどんどん近づいてくる。彼の熱が、気配が。すぐ側に感じられる。
目の前は平坦で広い一本道。……抜くなら、ここがベストポジションだ。
「いま!」
しおりの合図とともに新開がサドルから腰を上げ、立ち漕ぎのスタイルに入ったのが視界に入った。
下ハンドルを握り、空気抵抗を最小限にして、そのまま一気に左側を……――
――キキィッ!!
突然聞こえた耳をつんざく急ブレーキの音に、しおりは慌ててブレーキをかけた。振り返れば数十メートル後ろに今まで自分と並走していたはずの新開が止まっているのが見て取れる。
急いで駆け寄ると、新開は酷く青い顔をして視線を前に向けたまま目を見開いていた。いや、真正面を向いているのではない。自分の少し前……――何もいない道路を凝視したまま固まっている。
握りっぱなしのブレーキに触れている指が、小刻みに震えているのが見て取れた。
「新開くん、大丈夫!?」
「しおり……ヤバい」
「具合悪い?吐きそう?オーバーワークだったかな。すぐ横になって休んだ方が、」
「じゃなくて、オレ……――」
――オレ、前を抜けない。
驚愕と絶望が入り交じったような。そんな表情で見つめてくる新開に、しおりはとっさに返す言葉が見つからなかった。
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新開との練習終わり。しおりはトントンと、せわしなくペンの先を机にぶつけて頭を抱えていた。広げたノートには、解決策を書き留めようとして断念した跡がいくつも見受けられる。
しかし、何個考えても、何度イメージしても。今のしおりには新開に植え付けられたトラウマを拭い去るような妙案は思いつかないのだった。
順位を競い合う自転車競技で、前の選手を抜けないというのははっきり言って致命的だ。ゴール前を攻めるスプリンターという立場ならなおのこと。優勝のためには、必ず『一番最初に』ゴールラインを割らないといけない。……でも。
「あー、もうっ!」
結局何も思いつかずに、髪が乱れるのも気にせずに頭をグシャグシャとかきむしった。強いトラウマを一日二日で克服できないのなんてしおりが一番良くわかっている。それでも、その辛さをわかっているからこそ一日でも早く彼を縛っているトラウマから開放してあげたいと思ってしまう自分がいるのだ。
どうにもこうにも行き詰まって視線を上げると、そこにはもう見慣れた部室の姿がある。しかし部員はもうほとんど帰宅しているらしく、練習中か帰宅しているかを判断するための名簿プレートを見れば残っているのは2年の数名だけだった。
年がら年中オーバーワークしている荒北に、それに付き合っている福富。今日は調子が良いから限界まで山岳トライアルしてくると言って出ていった東堂もまだ帰って来ていない。
それに、新開のプレートも練習中になったままだった。しおりとの特訓のあと「しばらく一人で走ってくる」と言い残して走りに行ってしまったのだ。
夏真っ盛りの頃と違って、今の季節は目に見えて日が落ちるのが早くなっている。窓から見える外の薄暗さから判断して多分もうすぐ皆帰ってくるだろう。そんな予想をしていたら、部室の外でブレーキの音がして、誰かが帰ってきた気配がした。
乱暴とも取れるくらい、ガシャガシャと自転車止めにロードバイクを押し込んでいる。ややあって、やっぱり少し乱暴に部室のドアを開けたのは、目を伏せ、いつもの柔和さをなくした険しい表情の新開の姿だった。
どれだけがむしゃらに走ったのだろう。しおりとの練習でもかなりの距離を走ったというのに、全身が汗でぐっしょりと濡れているのが見て取れた。なのに唇は乾き気味で、歩き方もどこかフラついている。
新開のその姿に、しおりは何か思い当たったように椅子から勢い良く立ち上がった。
「座って!!」
叫ぶように言うと、スポーツドリンクとタオル、それに保冷剤をいくつかを掴んで新開の側に駆け寄った。長身の彼を見上げれば、顔色は青く、酷く具合が悪そうだ。動き出そうとしない彼を引っ張ってベンチに座らせると、ボトルの口を引っ張って、無理やり口に押し入れた。
「ゆっくり飲んで。そう、なるべく沢山」
無自覚のようであるが、渇きはあったのだろう。彼は促されるままドリンクを飲み下すと、半分程飲んだところで口を離し、大きく深呼吸をして見せた。
ぐったりと力なく腰掛ける新開の眉間には、柔和な彼らしからぬしわが寄っている。
「……頭いてェ」
「無理しすぎよ。脱水症状起こしかけてる」
「ん、頭ん中ぶっ飛ぶくらい回したら何か思いつくかと思ったんだ」
「どうだった?」
「お察しの通り、かな」
無理やり作った笑顔が痛々しくて、しおりは彼に笑顔を返すことができなかった。
彼の隣へ腰を下ろし、まだ顔色の悪い新開を見つめる。後頭部に手を回して自分の方へ引けば、逆らうこともしない彼の頭がパスリとしおりの膝の上へ落ちた。
「なっ……ん、」
眼下から驚いたように見上げてきて、何かを言おうとした彼の顔にタオルを乗せる。しっとりと濡れた柔らかな髪がスカートの下から伸びた足を湿らせたが、全く気になどならなかった。
「もうすぐ皆が帰ってくるから、ちょっと休もう」
「休んでるヒマなんて、オレには残ってない。はやく。一秒でも早く、克服、しねえと」
「うん。だから少しだけ。少しでいいから休もうよ。元気になったらまた走ろう」
「っ……」
押し黙った新開の手が、顔の上に乗ったタオルをギュッと押し付けている。表情は見えない。けれど、殺した息と、震える肩がすべてを物語っていて。しおりは慰めるように彼の髪をなでた。
彼の感じている不安は、かつて自分が嫌というほど味わったものと同じだ。
本当に克服できるのか、いつ克服できるのか。それはまるで出口の見えない闇なのだ。
それでも彼は、走り続けるしかない。怖くても、不安でも、がむしゃらに走り続けることでしか、解決策は見いだせないのだから。
(心が折れてしまいませんように)
自転車が大好きな、彼の心がこのまま崩れてしまいませんように。
そんな風に祈って、膝の上の頭をそっと撫でた。