94:バイバイいつかの未来まで(過去回想編)



「逃げ……え……?」

放たれた言葉が理解できずに戸惑うしおりに、それでも彼らは容赦なく畳みかけてくる。

「逃げてください」

その必死の形相は、決して悪ふざけなどではない。もしこれが演技なのだとしたら、きっと演劇部顔負けの演技力だ。

理由はどうあれ、しおりはひどく苦しそうな表情をしている後輩たちが心配だった。落ち着かせようと彼らの手にそっと触れれば、それまで硬く握りしめられていた拳が簡単に解け、今度はしおりの手を巻き込んで握りこんできた。

痛いくらいに握りしめられたてのひら。彼らの表情は安らぐどころか更に苦しそうに歪んでいる。

「大丈夫?私にできることなら協力する。悩んでるなら言ってよ」

そうやって彼らに言葉を返すと、手嶋が乾いた笑いを携えた。

「言ってる傍からこれだもんなあ」

心底呆れたという風な口調だ。
けれど、しおりにはそれがどうしてなのかは分からない。

……私が悪いのだろうか。私が、二人を悩ませているのかもしれない。一抹の不安が頭によぎり、思わず言葉に詰まれば、今度は葦木場がそれを慰めるように、柔らかく続けた。

「しおり先輩は、優しいからいつだってオレたちの心配をしてくれるでしょう?」

――落ち込んでるときも、傷ついてるときも、それを隠してたって目ざとく見つけて守ってくれる。

そんな言葉の数々に、しおりは困ったように首をかしげて見せた。
確かに自分は誰かが困っているのを見かければ、微々たる慰めだとは思いつつもできる限り尽力していた。
けれどそんなこと、優しいなどではなく普通のことだ。誇れることではない。

そうやって煮え切らない表情をしている彼女に、葦木場は苦笑しながらこう続ける。

「でも、自分の痛みにはすごく無頓着だ」

ドキリとした。
今まで無意識的に隠そうとしていた心の内を暴かれているようで、怖くなった。慌てて二人から離れようとするが、握られた手はそれを許さず、それどころか強い力で引き寄せられてがっちりと抑え込まれてしまった。

「足怪我しちゃって、すっごくツラいハズなのに、しおり先輩はオレたちの心配ばっかだ」
「逃げもせずに、感じた痛みも全部受け止めて、誰かに吐き出すことすらしようとしない」
「先輩が強い人なのは知ってますよ。だってオレたちの憧れだもん」
「でも、我慢しすぎて今にも崩れそうだ。そんな先輩、オレたち見てられないんすよ。だから……――」

――頼むから、逃げてください。壊れる前に、早く。

酷く、真剣な声色に息をするのも忘れてしまいそうだ。しばしの沈黙の後。彼らはまるで言葉と呼応させるかのように、手の力を緩めてしおりの体を解放してくれた。

それでもまだしおりは動けない。
だって仕方がないではないか。今まで必死で誤魔化そうとしてきた心を。押し殺した痛みを。こうも簡単に暴かれて、指摘されてしまったのだから驚かないわけがない。

そこでしおりはふと思う。彼らは、だからずっと一緒にいてくれたのだろうか。

周囲にとがめられても、無駄だと笑われても。逃げる術さえ知らない不器用な自分が、過去の重圧に耐えきれなくなって潰れてしまうのを防ぐために。
そのために一緒に重りを支えてくれていたのだ。

……そしてきっと、これが彼らが示してくれた逃げ道なのだ。

大きな鏡に映し出された、女の子らしくメイクを施された自分を見て思う。
今まで自転車にばかり執着していて女の子らしさになど興味もなかった。おしゃれをして、恋バナなんかをして、甘いものが大好きで、弱くて可愛い、普通の女の子。男勝りな自分には、一生縁のないものだとも思っていた。

けれど彼らは、女の子として生きろと言っている。
自転車乗りという過去に縛られている自分を捨てて、女の子として生きろと言っているのだ。

「本当は自転車の実力で格好良く先輩を改心させられたら良かったんですけど、残念ながらオレら弱いし」
「だからね、その役目は悔しいけど『未来の誰か』に託します。オレたちが出来るのはここまで」

――でも、その『誰か』が未来のオレだったらいいなあ。

そんないじらしいことを言う後輩たちに、しおりは思わず笑みを溢してしまう。ああ、なんて可愛い後輩たちだろう。本当に、自慢の後輩たちだ。


ずっとずっと、先輩として彼らを指導できたらと、そう思う。けれど、それができないということはしおりも察していた。
彼らがもうすぐ自分から離れていくことを。きっとこれが自分たちが一緒に過ごす最後の放課後になるということを知っていたから。


前々から彼らが部の先輩からしおりと関わることを止められては無視して強行突破してきたというのは聞いていたが、この度、顧問やコーチからも接触禁止令が出ることが決まったらしい。

もし彼らが上からの指示に背くような行動を続ければ、協調性なしとみなされてすぐさま退部させられるだろう。
そんなことには、絶対にしてなって欲しくない。させたくない。

そんな部の方針が厳しいとは思わなかった。

一時期と比べて頻度は減ってきたとはいえ、それでも自転車関係のことでフラッシュバックが起きやすいのは自分でも重々自覚している。
皆、しおりを守るためにこの決断を下してくれたのだ。感謝こそすれど、憎むべき要素などどこにも見当たらない。

もちろん手嶋たちもそれを分かっているから、決定にあらがうこともなく、最後に逃げ道だけを示してくれたのだ。

自分たちがいなくなっても、しおりが一人で歩けるように。もう一人で重荷を背負わないように、別の生き方でも、笑って過ごせるように。

「ねえしおり先輩、こんな作戦考えられるなんてさ!オレたちって頭いいでしょ!」

無邪気に笑いかけてくる葦木場に、しおりも「そうね」なんて言いながら声をあげて笑い返す。けれど同時にポロリと涙もこぼれてきて、せっかく綺麗にしてもらったメイクは後から後から流れてくる涙によってあっという間に流れだしてしまった。

「ぶっは!ちょっと、すっげー顔してますよ!」
「言われなくたってわかってる!」

悪態をつきながら、しおりは泣いている顔と化粧の崩れた顔を隠すように両手で覆う。
早く泣き止もうと思うのに嬉しさと、寂しさと。今まで押し殺してきたいろんな感情が入り混じって溢れ出てしまいなかなか止まらない。

そんな彼女のしゃくりあげる肩を、温かい手がふたつ。引き寄せて、強く抱きしめてくる。

「さよなら、先輩」

彼らが作る優しい闇の中。聞こえた声は少し震えていて。それが悲しくてまた泣いた。


 
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