93:鏡に映るは(過去回想編)



「ねえしおり先輩。今年から来た美術の山崎先生知ってる?」

聞いてきたのは葦木場だ。通常教室のものとは違う、白くて大ぶりな美術室の机を軽々と運ぶ彼を横目に、しおりはしばし考えた後で小さく頷いて答えた。

「知ってる。うちのクラスの受け持ちじゃないけど。あのちょっとナルシストの先生でしょ?」
「そうそう!でね、クラスの美術部の子に聞いたんだけど、山崎先生あんまりにも自分が好きで、すんごいもの買ったんだって」
「……すんごいもの?」

怪訝そうに単語を繰り返した彼女に葦木場が答えようとしたその時。それまで黙って作業していた手嶋が何やら巨大なものを抱えて、ゴトリとあいた空間の中に置く。すると、それを皮切りにするように葦木場はしおりの手を引き、ついでに彼女の座っていた椅子も抱えて教室の中央へと移動した。

目の前に置かれた、百八十センチはありそうなその物体。大事にされているのかホコリよけの白い布がかけられている。てっきり見せてくれるのかと思って布を引こうと手を伸ばせば、その手を止められ、また椅子に座らされてしまった。

「先輩」

しおりの前に二人の男がひざまずく。また妙な悪ふざけだろうか。一体何をするのか聞き出そうとすれば、瞬間、彼女の右手を葦木場が、左手を手嶋が握り、まっすぐな眼差しでこちらを見上げてきた。

ふざけるどころか何も言い出さない二人の様子は、いつも笑わせてくれる時の雰囲気とは全然違う。
気が付いてしおりが不安そうに身じろぐと、察してくれたのか、手嶋が少しだけ微笑んで、柔らかな口調で話しかけてきた。

「今日は、真面目な話をしてもいいですか」

言い出されたと同時に何だか嫌な予感がしたが、動けない。
彼らの言わんとする『真面目な話』とは十中八九、自転車関係の話だろう。
それを想像するだけで逃げ出したい気持ちになるのは、それだけしおりの中であの事故が根の深いトラウマになっているということの証拠に他ならない。

……今すぐこの場を逃げ出したい。
けれど、現実と向き合わなければいけないのもわかっている。そんなふたつの気持ちのごちゃまぜになり、今しおりの心に不安という形で押し寄せて来ていた。

情けなく指先が震えだしているのが、きっと彼らにも伝わっているだろう。優しいはずの二人は少し心苦しそうに眉をひそめていたが、それでもしおりの手を開放してはくれなかった。

ああ、そうか。と、それを見てしおりは察する。

何もかもを拒絶して、塞ぎこんで、両親すら白旗を上げた自分に、彼らは飽くことなく尽くしてくれた。
そんな彼らがここまでするのだから、きっとそれほど大事な話なのだろう。

だったらそれを受け入れるのはきっと自分の義務だ。
それがどんな話でも、どんな結果をもたらそうとも。

コクリと喉を鳴らして、生唾を飲み込んだ。
――しっかりしろ。自分は彼らの先輩なのだ。
腹をくくって、彼らの眼差しに返し、静かに息を吐いた。

「良いよ、話して」

そう言い切って握り返した両手に、二人は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから困ったように顔を見合わせる。

……どうしてだろうか。あまり嬉しそうではなさそうだ。
しおりが首をかしげていると、彼らはしばしの無言の後、決心したかのように勢い良く立ち上がった。

「しおり先輩のそういうとこ、憧れるし格好良くてオレ大好き」
「……でも、やっぱりちょーっと心配なんですよね」

彼らはそう言って、近くに放ってあった自分たちの荷物をゴソゴソとかき回すと、それほど時間も掛けずに中から何かを取り出して見せる。
その手にあるのは、可愛らしいポーチやら筆状のものやらチューブやら、とにかくしおりが見たこともない道具だ。

何をする気か。問おうと口を開けば、葦木場は自分の唇に人差し指を当てて、しおりに静かにしているように促した。

「今からちょっと触ったりするけど、動かないでね」
「真面目な話は?」
「その後で。じゃあ、始めるね」

有無を言わさずそんな宣言をし、彼らは酷く優しい手つきで顔や髪に触れてくる。時折話しかけてくる口調はいつもの通り、明るく軽いものなのに、その奥底には緊張が隠されている気がしてどう反応すればいいかわからなかった。

「大丈夫。大丈夫だからオレたちに任せてください」

なかなかリラックスしきれないしおりに、彼らは呪文のようにそう唱え、諭し続ける。
かすかに甘い香りがする液体をヒタヒタと肌に塗りこめられる。髪をすかれ、ドライヤーで熱を与えながら整えられていく。

それらの行動で、彼らが自分に何をしているのかは、まあ大体見当がついた。いくら今まで全く関わりがなかったといっても、しおりとて一端の女の子なのだ。

されるがままになりながら、彼らの行動の意味を考えるが、やはり明確な答えは出てこない。それでも言われるがままにしているのは、自分なりに彼らを信用しているという意思表示のつもりだ。

彼らが大丈夫だというなら、大丈夫。

言い聞かせるように、こもっていた肩の力を少しだけ抜いた。





*********







「はい、おしまい」

パチンと何かのケースが閉じる音がして、しおりはまるで催眠術が解けるかのようにハッと我に返った。
何か考え事をしていたような気がするが、何も思い出せない。きっと知らぬ間に真剣な二人の雰囲気に呑まれてしまっていたのだろう。

彼らの顔を見上げれば、二人は何やら満足そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。
……なんだか目に違和感がある気がする。唇もペタペタしていて落ちつかない。

「私どうなったの?」

自分に起こったらしい変化を想像して恐々としながら問えば、手嶋が苦笑しながら「自分で確認してください」と言って、目の前に設置された白い布に覆われているそれ……葦木場の言葉を借りるなら『すんごいもの』に、そっと手を掛け、布を引いた。

しおりの目の前で、真っ白な布が重力に逆らうことなく滑り落ちていく。瞬間、その下から現れたのは、見たこともないような巨大な鏡だった。
縁飾りが美しく施されたそれは、よほど大事にされているのか鏡面上に曇りもホコリもない。

なるほど、美術の山崎先生はしおりが思っていたよりよほどナルシストの気があるらしい。
きっと、授業のない時間はこの美しい鏡で、美しい自分の姿を眺めていたに違いない。

謀らずも、教師の恥ずかしい秘密を知ってしまったこの状況。普段ならきっと、悪戯の過ぎる後輩たちを叱りながらも自分も噴き出してしまったに違いない。

なのに今、しおりは一言も発せないまま、大きな鏡の前で固まっていた。目の前に映っている少女の姿から目が離せなかったのだ。

ストレスでろくに眠れない為に出来ていた、目の下の大きなクマが消えている。血色の悪かった頬に薄紅が差し、健康的な色を取り戻していた。

目が黒く縁取られ、まつげもくるりと上を向いて、太く長くなっている。そのせいか、ずっとうつろ気だった瞳がいつもより三割増しで大きく見えた。

食欲がなくてあまり食事をとらなかったせいでカサカサになっていた唇も、淡いピンクに彩られ、濡れたようにツヤツヤと光っている。
いつも寝癖を直す程度にしか手入れしていなかった髪は、丁寧に整えられて、黒々とした髪に天使の輪ができていた。

その姿は確かに自分のはずなのに、自分ではない。
それはまるで、しおりが今まで自分が絶対歩むことはないと思っていた『女の子』の姿だった。

「可愛いでしょ?」

葦木場が嬉しそうに声をかけてくるが、そんなのわからない。ただわかるのは、この姿が本来の自分とはひどくかけ離れているということと、自分がこんなこと望んではいなかったということだけだった。

許可もなく、自分を見る影もなく変えてしまった二人に非難の目を向ければ、彼らは気付かないふりをして今しがた彼女の改造に使った道具たちを片付けている。

可愛いポーチに詰められた沢山の化粧道具と、ドライヤー、ヘアワックス、ヘアアイロン、その他諸々。……まさか全て彼らのものなのだろうか。
人とは見た目によらないものだ。

すると、そんな彼女の戸惑いに気がついたのか、アイロンの本体にコードを巻きつけていた手嶋が「あ、違いますからね」と首を横に振って否定を示した。

「化粧道具一式、クラスの女子から借りたんです」
「練習も沢山したんですよー!女の子たちからもお墨付きです!」

なるほど。ということは、自分も彼らの練習台だったというわけだ。それならこんな回りくどいことをせずとも普通に頼んでくれれば断ったりしないのに。

そういえば真面目な話があると言っていたのも、この道に進みたいと考えている彼らの将来についての相談だろうか。

そう思ったら、自転車の話をされるかも、と身構えていた自分が馬鹿らしくなってきて、しおりは少し声色を明るくして、彼らに話を振ってみた。

「二人は、こういうことが出来る仕事に就きたいのね!」
「え?」
「違いますけど」

……おかしい。思っていた反応と違う。
予想外の反応に、しおりが二の句をつげずに困っていると、手嶋がやれやれと軽く息を吐き、メイク道具たちからそっと手を離してしおりに近づいて来た。

「そろそろ真面目な話、しましょうか」

その目はいつもの彼の目ではなく、『真面目な話』をするにふさわしい、酷く真剣な眼差しだった。そんな手嶋につられるように、葦木場も彼の隣りに並んでしおりを見下ろしてくる。

ああ、この時期の男の子の成長は本当に目覚ましい。

少し前まで小学生で、自分よりも身長だって低かった。なのに今では彼らの目線が上にある。
中身だってそうだ。以前は喜怒哀楽ばかりが激しくて部活の指導をするのでさえ手を焼いていたのに、ほんの短い間にどんどん社会での生き方を吸収し、大人に近づいていく。

こんな大人びた表情ができる子たちだったかしら。感慨深げに見上げては、瞬きを繰り返し彼らに視線を返す。
じっと交わったまま動かない視線。それを合図にするように、手嶋の口が、ゆっくりと開いた。

「……先輩、逃げてください」





 
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