92:あの日の放課後(過去回想編)



あの頃の自分は終礼のチャイムが大嫌いだった。

それが鳴ると、今まで自分たちを机に縛り付けていた学校はおしまい。放課後の時間が始まってしまう。

時間の使い方はそれぞれで、ある者は見たいテレビがあるからとまっすぐに帰宅すると言い、ある者は街にショッピングに向かう。
そしてクラスの大半は、これから部活があるから、と足早に教室を去って行くのだった。

少し前までは自分も確かにあの中にいたはずだ。むしろ誰よりも早く教室を飛び出して、大好きな自転車に跨りに行っていた。
……なのに。

今では何の予定も無いこの時間に何をしていいのか全くわからない。

毎日毎日、チャイムと同時に色めき立つクラスメイトたちの楽しそうな『放課後の予定』を聞いているのが辛かった。
あたり前だった日常が奪い去られた現状に、戸惑い、悲しみ、憤ることしか出来ない自分が酷く惨めで、大嫌いだった。


――あの事故から数ヶ月。
しおりは病院を退院し、日常生活へと戻っていた。まだ少し足を引きずっている感はあるが、リハビリに努めたおかげか足のギブスは何とか外れていた。
流石に痕は残ったが、一見すれば何の変哲もない女子中学生に見えるくらいには回復出来たと思っている。

もちろん心の傷は別として、だが。

教室でひとり、ブラブラと足を揺らしながらつまらなそうに息を吐く。
……ここに居たって、家に帰ったって。自分にはするべきことも、やりたいことも見当たらない。まるで世界が褪せてしまったかのようだ。

例えば運動場から聞こえる活気あふれる声も、吹奏楽部の練習音も。夕焼けの色を吸った教室の色づきや、日の傾きとともに長くなっていく影も。この中学校に入学した頃からずっと変わらない、それはしおりが大好きな風景なはずだった。

なのに、今はそうじゃない。何もかもがフィルターを通したようにくぐもっていて、ちっとも素敵だなんて思えなかった。

酷くつまらない世界に迷い込んで来てしまったようなそんな感覚だ。息苦しさに耐えきれず、慌てて教室の窓を開ける。ガランとした教室内は、いつも三十数名が押し込められている時より俄然空気が澄んでいるはずなのに、その時はなぜか胸が苦しくなってたまらなかったのだ。

開け放った扉から空気が流れ込んでくる。窓から上半身を前のめりに突き出しながら何度も深呼吸を繰り返す。
そうやってようやく落ち着いてきた頃、頬を撫でる風がやけにひんやりと冷たいのに気がついて、しおりはふと、夕焼け掛かった空を見上げた。

真っ赤なうろこ雲の続く高い空が目の前に広がっている。
少し視線を下げれば遠くに広葉樹林が見え、少し前までは青々と葉を茂らせていたはずのそこは今や赤や黄色に色づいて、夏の装いなどどこにも感じられなくなっていた。

いつの間にこんなに季節が巡ってしまったのか。
前は季節の移り変わりには敏感だったのにと、しばし呆然として、すぐに原因に行き着いてうつむいた。

そうか。自転車に乗らなくなったからだ。
だから季節を肌で感じない。感じる機会がない。もう感じることもない。

あれからもう数ヶ月も経つのに、自転車のことを思い出しては未練がましく痛む諦めの悪い心に、本日何度目かのため息を付いた。

「あんまりため息つくと幸せ逃げちゃいますよ」

瞬間かけられた声に、しおりはピクリを肩を揺らして声の方に振り返った。そこには良く見知った顔がふたつ。

……それは、部活の後輩だった手嶋純太と葦木場拓斗の姿だった。

「そうかも、ね」

言いよどみながら窓を閉めて施錠する。カバンを持って彼らの横を通りすぎようとすれば、それに合わせるように二人もしおりの隣に並んで歩き出したので、これみよがしにまた、ため息をついてやった。

……ところで、後輩『だった』と過去形なのは、退院後しおりが部活を辞めているからである。
彼らは部に所属している頃から何かと懐いてくれてはいたが、退部した今、学年も性別も違う彼らとしおりの繋がりなど無いに等しいはずだった。

現にこの数ヶ月で兄弟のような存在だと思っていた自転車競技部の面々との接触は極端に減り、今では会っても挨拶すらしない。それなりに寂しさは感じるが、フラッシュバックの酷いしおりに対しての、それが部員たちからの優しさだともわかっているから、ありがたく思っていた。

けれど、彼らはその例外なのだ。後輩のくせに、男の子のくせに、もう何の関係もないくせにこうしてしおりに会いに来る。時には昼休みに。時には部活前後に、そして時には休日にすら呼び出され、彼らの会話のお相手をさせられるのだ。

最初は体育会系よろしく、しおりを励ましたり叱咤して部活に戻ってもらおうとか言う魂胆なのかと思って身構えていたが、この二人に関してはどうやらそういう意図はないらしい。

ただただしおりに会いに来て、やかましく構いに来ては去っていく。

まるで傷ついた友達を励ますかのように。けれど決して確信には触れずにそんな行動を繰り返す。そんな彼らをしおりは態度にこそ出さないものの、孤独を埋めてくれる存在として重宝し、拒絶もせずに好きなようにさせているのだった。

……さて、今日はどこに連れて行ってくれるのだろう。
この前は公園のブランコをどちらが高く漕げるかの勝負をして、二人して一回転しそうになって悲鳴をあげていた。
その前は音楽室に忍び込んで、二人によるいつ練習したのか、非常にクオリティの高いプライベートライブを聞かせてもらった。

歩みを少しだけ緩めて、彼らの足の向かう先へと合わせる。妥協するわけではないが、両脇を彼らに固められてはヘタに逃げることも出来ないのだ。
無言のしおりを挟んだまま他愛もないお喋りを続けるのんきな声に、少しだけ最近触れていなかった心地よさを感じれば、まもなくして彼らの足がある教室の前で止まったのが見えたのでしおりも一緒に足を止めた。

「美術室……?」

見上げた教室前に掲げられたプレートにはそう書かれていた。

こんなところに何の用があるのだろうか。確か美術部は今日部活動で隣町の画廊に出掛けると、クラスの美術部の子が言っていたような気がするが。
もちろん宿主のいない教室にも鍵がかかっているはずだ。そっと扉の引き手に指を差し入れ開けようとしてみるが、予想通りしっかりと施錠されているようで開かなかった。

美術室に来たのに美術室に入れないのであれば意味は無い。どうやら今日はこれで解散のようだ。少し残念に思いながら肩をすくめて隣の手嶋を見れば、彼は落胆などこれっぽちも感じさせずにニヤリと笑い、ポケットに手を突っ込んで中から銀色の何かをつまみ上げて見せた。

……カギだ。
プレートには油性マジックでしっかりと『美術室』の文字が入れてあり、それがこの部屋に入る為に必要不可欠な物だと瞬時に理解できた。

「手嶋くん、それどうやって……」
「やだなあ、もちろん企業秘密ですよ」

なるほど、カギの入手方法については極秘らしい。
一体どんな手を…と息をひそめて緊張するが、直後、葦木場が「美術室に忘れ物したって言ったらすぐに貸してくれました!」と無邪気にネタばらしをしたので、彼の目論見はあっさりと砕かれてしまった。

「へえ、とっても危険なルートを使ってまでお誘い頂いて光栄だわ」

しおりの嫌味に手嶋は苦笑いしながらも教室のカギを回し、扉を開ける。
油絵の具の匂い。石膏の粉っぽい感じ。そこには何の変哲もない、美術室のいつもの姿が広がっていた。週に2回授業で訪れるこの特別教室の内装は言わば見慣れた光景だ。

そうして二人は我が物顔でしおりを中へと招き入れると、彼女を適当に椅子に座らせて、自分たちは教室の中央に空間が出来るように机類を大移動させ始めた。彼らが何をしようとしているのか、しおりは未だに理解できない。みるみるうちに出来上がっていく丸い空間を、じっと眺めていることしか出来なかった。




 
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