8:憧れシューズとラピエール



七時限目の授業終了のチャイムが鳴り渡る。しおりがノロノロと帰り支度をしていると、教室の入り口のところから「しおりちゃん」と呼ぶ声がして、そちらを振り返った。

「迎えに来たんだけど、今大丈夫?」

そこに立っていたのは、先ほど約束を交わした新開だった。昼休みにあれだけ大騒ぎしてしまったため、教室内の生徒たちの様子を伺っているようだったが、心配には及ばない。

東堂が、クラスメイトたちが何か言ってくる前に誤解を解いてくれたのだ。もっとも、彼もしおりたちの過去のいざこざについては知らないので、ほとんどがもっともらしく聞こえる嘘八百だったのだが。

流石は自称イケメン、口も切れると詠っているだけのことはある。
ずっと守ってくれたナイトに、しおりは彼と出会って初めて「ありがとう」と口にすると、するりと席を立って新開の元へ向かった。

新開はしおりと目を合わすと、挨拶をするように一瞬口元を上げ、目で付いて来いと訴えて来た。もう行き先は決まっているのだろう。
迷うことなく進む新開の一歩後ろを付いていくこと数分。そこは、人気のない校舎裏の空き地のようなところだった。

内緒話にはおあつらえ向きの、シンとした場所。まだ入学したばかりなのに、どうしてこんなところを知っているのかと目の前の彼を見れば、視線に気づいた新開は「ここ、昼寝に丁度良いんだ」なんて冗談めかして肩をすくめていた。

「ふふ、何それ」

しおりがくすくすと笑えば、新開も嬉しげに眼を細める。促されて、校舎の土台になっているらしいコンクリートの出っ張り部分に腰を下ろすと、彼もすぐ横に陣取って座った。

太陽の向きのせいか、大きな校舎で日陰になっているここは薄暗く、涼しい。春が過ぎれば、すぐに夏だ。確かに昼寝には最適かも知れなかった。

こんなに心地良いのに、見上げた空は眩しいくらい真っ青で、宙には鳥が羽ばたいている。不思議な世界にいるような感覚に、呆けて空を眺めていると、不意に隣の彼が笑ったような気配がしてそちらに視線を移した。

「変わらないな、しおりちゃんは。いつも上を見て、そこを目指してる」
「新開くんだって変わらないじゃない。世話焼きな所とか、おせっかいな所とか」
「それって褒めてる?」
「けなしてる!」

しおりが笑うと、新開は彼女の髪をぐちゃぐちゃと大きな手のひらでかき混ぜて乱すことで仕返しをした。

昔はヘルメットをかぶるのに邪魔になるからと、男の子のように短く切っていた髪。手入れなんてしておらず、伸びるたびに切っていただけだったのでいつもボサボサだった。それが、今やこんなに長く、綺麗になっている。
時の流れのなんと早いことか。

指の間をすり抜けて落ちていく艶やかな黒髪に気を取られていると、そんな新開の気持ちを察したのか、しおりが覗きこむように顔を向けて来た。

「久しぶり、だね」

もう再開してかなり時間が経っているのに投げかけられたその言葉。なんだか妙にくすぐったくて、新開はコクリと頷いてそれに応えると、「丸二年ぶりかな」と呟くように言った。

二年前。それはしおりが滑落事故に遭ったのと同時期だった。
誰にも打ち明けず、自転車を止めたしおり。その事情を唯一知っているのが、この新開という男だった。
何故かといえば、彼もあの事故の日、しおりと同じレースに出ていて、そして、山から滑り落ち、滑落した彼女を最初に発見した張本人でもあったからだ。






*********









あの頃のしおりと言えば、負けなしのオールラウンダーとして、知らぬ者はいないほど有名な存在だった。
見た目は女の子らしく、細くて小さいのに、レースになると目をギラギラと光らせて誰よりも早くゴールをぶっちぎる。他を寄せ付けない圧倒的な強さは、ロード選手を志す少年たちのあこがれの的だった。

そしてもちろん、新開自身も彼女のファンであった。

だから、厳しい山岳地帯の最中、絶壁沿いに彼女の愛車であるラピエールが横たわっているのを見たときにはサッと血の気が引いたのだ。
山での滑落が、どんな最悪を含んでいるかなど、自転車乗りなら誰でも知っている。ましてやここは人通りのないコース。いつ落ちた?いつからこのラピエールは主人を失っている?
落車事故は自己責任がロードレースのルールだ。他の選手たちの目にも、彼女の愛車の無残な様子が映っているだろうが、誰ひとりとして止まるものはいなかった。

本来なら、新開も無視して行かなければならなかった。けれど、横倒しのラピエールを、その傍らに落ちている片方だけのシューズを、そして、その山肌の深さを目の当たりにしたら、もう一歩だってペダルを漕ぎだせなかった。

「くそっ!」

しおりや福富ほどの人気ではないが、自分だってこのレースの優勝候補だったのだ。今日の体調は好調。山で体力を温存し、得意のスプリントで一気に攻めるはずだった。なのに。

「おーい!!いるか!!返事しろ!!!!」

彼女が落ちて行ったであろう、薄暗い森の中に声をかける。
その間にも何人かが抜いて行ったが、最大の優勝候補二人のリタイヤを目にして、目の色を変えてさらにスピードを上げたようだった。

負けが悔しくない訳じゃない。中学の自転車部でだって、副部長として部員を引っ張っているのだ。プライドだって、それなりに高い。

だけど放っておけないのだ。
自分の負けより、自分があこがれる彼女の走りが見れなくなる方が、ずっと堪えるから。

生い茂る山林の中に、必死で呼び掛ける。けれど、何度呼んでも、叫んでも、彼女からの返答は返ってこなかった。

意を決して舗装された道から、けもの道すらない険しい山中へ降りる。

そうして二十メートル程降りたところでやっと見つけた彼女は、真っ白な顔で気を失い、そして、自転車乗りの命とも呼べる足に致命傷を負っていた。





そこからはご存じの通り、最高の選手だったしおりは自転車を降り、誰にも告げずにレースの世界を去った。彼女の入院中、新開は何度も彼女の元を訪れ、励まし続けたが、結局しおりは自転車を諦めてしまったのだ。

それどころか、前の自分を偽るように、女の子のように振る舞い、頑なに自転車と関わるのを避けている。誰よりも自転車が好きだった少女に、こんな仕打ちは酷すぎるではないか。それでも気丈にふるまっている彼女の健気さに、胸が痛んでしょうがなかった。

「……足」
「うん?」
「足の調子は、どう?」
「手術して、リハビリも頑張ったからね、人並み以上に飛んだり跳ねたりしてるよ!」

確かに、新開自身も何度も彼女が東堂に追いかけまわされて走り回っているのを見ている。日常生活に支障をきたすようなことにはなっていないのだ。そのことに少しホッとして口元に笑みを浮かべると、しおりは細い指をするりと自分の膝へと滑らせ、愛おしむように撫でた。

「でもね、もう自転車には乗れない。思いっきり踏めないの。あまりにも負荷がかかりすぎるって、お医者様にも止められてるから」
「そう……か」

わかっていたこととはいえ、本人の口から聞くと絶望はひとしおだ。
ゴール前で両手を広げ、嬉しそうに空を仰ぐあの姿は、もう永遠に見ることができない。今でも鮮明に思い出せるその光景に、少しだけ泣きそうになって、やめた。
一番つらいのはしおり自身だ。気を持ち直すように、大きく息を吸って、一気に吐き出し、弱気になっていた気持ちを前に向けた。

「それで、どうするんだ。東堂もやっかいだが、一番面倒なのは寿一だぞ。アイツ、男女混合レースとかも出まくって、ずっとしおりちゃんを探してたから、下手な言い訳じゃ絶対引かない」
「わかってる」
「言いにくいなら、俺がアイツらに事情話そうか」
「……それじゃ、駄目なの」
「え?」
「福ちゃんたちには、自分で言う。それで謝るの。『今までごめんね』って」

視線を上げたしおりの瞳は、決意を宿したように強く光っている。そんなしおりに、新開は彼女特有の負けん気の強さを見たような気がして、少しだけ口端を上げた。
人間見た目は変わっても、本質までは変わらないのだ。

しおりがレースに出る所をもう見ることは叶わない。残念だが、彼女がそう決めたのだからしょうがない。ポケットから、パワーバーを取り出して、慣れた手つきで封を破った。一気に口の中に含み、咀嚼して、ごくりと飲み込む。その動作にびっくりしたような顔をしたしおりにニヤリと笑いかけ、新開は声高く叫んだ。

「寿一、尽八!ご指名だ!」

呼ばれた瞬間校舎の影から音もなく現れた二つの影に、しおりは幽霊でも見たかのように、きゃあ!と声を上げた。



 
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