柔らかなウール生地のマフラーに埋まった口元から白い吐息が細切れに漏れる。
真っ白な空気の塊であるそれを目先でぼんやりと追いながら、ああ冬なんだなと他人事のように思った。

思えばこの男と出会ったのはうららかな柔らかい風の吹き寄せる春の日だったというのにどんどん季節が巡って、いつしか気付けばこの男との妙な関係性もすっかり日常のひとコマとして溶け込んでいた。

この男との関係を敢えて言葉にするなら友人というには何だか物足りなくて、恋人というにはむず痒い。
わざわざ愛を囁き合ったりするわけでもなく、気が向いた時になんとなくキスをして手を繋いでみたりして。
きっと明確な形が無いだけで、互いにこの距離感で満足しているからどちらとも追求しない。そんなもどかしい関係でさえ満更でもないと感じてしまう自分はきっと相当末期だろう。

「ねえ花京院、こんな夜遅くに何処に行くの?」

「ふふっ、今言ったら楽しみがなくなっちゃうじゃないか。着いてからのお楽しみだよ」

「えー何ソレ。そんなにもったいぶっちゃって」

およそ頭三個分ほど高い位置にある締まりのない顔がふにゃりと微笑む。筋の通った高い鼻先を真っ赤にさせる姿は子供のようで、一体何がそんなに楽しいのか皆目検討もつかなかったがまぁ良しとする。

煩わしいほどに長い坂道をずんずん進んでいく花京院と自分の影が剥き出しのアスファルトに伸びる。こうしてみると本当の恋人のようだ。それが本当になったらどれだけいいか、なんて絶対言葉にするつもりはないが。

それにしても花京院は一体何処へ足を運ぶつもりだろう。こんな辺鄙な坂の上にある物好きな建物といえば、この三年間延々と通いつめた母校の他にない。

きっと何かしらの考えがあってのことなんだろう。急いで花京院の後を追った。

*

「ほら着いたよ。見てごらん、とっても綺麗だろ?」

花京院の骨ばった大きな手を引かれて、言うがままに連れてこられたのは慣れ親しんだ母校の屋上だった。

濃紺の空にはちらほらと無数の星が覗いており、その中心に鎮座しているまんまるの月を背景に花京院は柔らかな笑みを浮かべた。
ひんやりとした夜間特有の冷気に震えることさえ憶測に、ただただ満点の星に魅入ってしまう。

「なまえにどうしても見てもらいたかったんだ」

「そっか、ありがとね。こんなに綺麗な星空見たのって初めてかも」

「ふふっ、きっとなまえなら喜んでくれると思ってたよ」

未だやんわりと繋がれた暖かい花京院の掌を少し強く握り締めれば、呼応するように同じくらいの力で握り返された。
なんだかこうしていると真っ暗な世界に私と花京院だけが閉じ込められているような感覚になる。

「でも花京院が星に興味があるなんて知らなかったわ」

「うん、結構好きなんだ。まぁそんな詳しいわけじゃないんだけどね」

「でも花京院と天体観測の組み合わせってキザっぽくてやだ」

「ははっ、何だよそれ。なまえってば心外だな」

いつものように何気ない会話をしているだけなのに、何だか花京院の声は少し震えているように思えた。心なしか声だけでなく、私の手を包み込む大きな掌から伝わる力も少しだけ強まった気がする。
あまり長い年月とは言えないが、ずっと隣で花京院を見てきた自分には分かる。花京院はきっとこの星空よりも遠い何かに思いを馳せているのだ。

少しだけそんな違和感を噛み締めながら、空を見つめるその横顔を盗み見れば長い睫毛に縁取られた深い紅色の瞳が目に映した星空を飲み込むように伏せられた。

「ねぇなまえ、好きって言ってくれないか」

「何よ、いきなり。いきなりどうしたの花京院」

「良いじゃないか、一回くらい。頼むよ、言ってくれ」

「・・・すきだよ、花京院」

「・・・ありがとう。ただの気分だよ、気にしないでくれ」

妙に緊張感のある空気が、花京院のひとことであっけなく幕を閉じる。少しだけ、その言葉に安堵感を覚えた。

そこから返す言葉も見つからず、互いにただただ星空を見上げることに専念した。
そんな薄暗い屋上内を包み込んでいた暫しの沈黙を破ったのは、花京院の鼻をすする音だった。どうやら長時間外気に晒されていた為、体が冷え切ってしまったようでよく見れば鼻先がほんのりと赤い。

そろそろ帰ろうよ、声を掛けるとそうだねと少しくぐもった声が隣から返ってくる。私が足を進めると同時に、ずっと握り締められていた掌がやんわりと解けて途端に冷たい冷気の元に投げ出されて。ほんの少し名残惜しさを残しつつ、でも自分から握り返すことはしなかった。

「僕はね、好きなんてもんじゃないよ。なまえを愛してたんだから。」

錆の積もった屋上のドアノブに手をかけると同時に、発された言葉に息が詰まった。
呟いた花京院の声が消え入りそうなほど小さくて、それは今にも消えてしまいそうで、咄嗟に声のした方向へ手を伸ばした。

「えっ・・・か、花京院?」

そこにあるのは優しい受け止めてくれる腕ではなく、ひんやりとした冷気のみだった。
振り上げた掌はむなしく空を切って落下する。呆然とただ立ち尽くすことしか出来ない私に、冷たい夜風が肌を刺す。恐ろしく、急速に頭がキンキンに冷えていく。ああ、そんな嘘だ、私はまだ貴方に。

やけに遠い小さな星が、まるで泣いているかのようにきらきらと輝いていたのを覚えている。
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