君と私の物語 | ナノ



それはいつもと同じように最後の講義が終わって、帰宅しようとした時のことだった。課題に追われていのもあり普段より学校に長く居た為、空を眺めればとっくに日が沈み、既に真っ暗。黒に限りなく近い灰色の密集した雲が、隙間なく空を埋め尽くしている。そして、その雲から雨が地上へと強く降り続けていた。
最悪なことに今朝は急いで家を飛び出した為、傘の存在をすっかり忘れてしまっていた。昨晩の天気予報で今日は雨が確実に降ると知っていたのに。ハァと雨模様に似た溜め息を溢し、案の定どうしようと立ち往生することしかできないでいた。


「お、久々じゃん」

「…あ、」

隣から急に聞こえた声に反射的に振り向けば、そこには見慣れた顔が。その人物は、私が心中尊敬して憧れていた一つ学年上のあの先輩。憧れているとは、勿論絵画の上手さやセンスに。初めて作品を見た時、呼吸を忘れそうなくらいな魅力がその作品にはぎっしりと詰まっていたのだ。彼自体といえば、実際喋ったのはほんの数回。それでも、私を覚えてくれたんだ。やっぱり作品から滲み出る暖かさと、それを描いたこの人は似ている気がする。


「もしかして、傘忘れた?」
「そうなんですよ」
「じゃあ送ってくよ」
「で、でも…あたし電車なんで」
「俺も電車だよ。しかも、優月ちゃんと降りる駅一緒なんだよね」

だから家まで送ってくよ、と大きなビニール傘を広げた。外を眺めれば、未だに強く降り続ける雨。ずぶ濡れで帰ることもできる。けれど、今までゆっくり話したことがなかったから、色々話をしたい。そんな理由から、私はお言葉に甘えることにしたのだった。
到着駅に降りるまでの間、会話は途切れることはなかった。こんなに長く色んな話をしたのは初めてで、とても楽しかった。そして、あっという間に降りる駅に着き、偶然帰る道まで一緒で歩いてる最中のこと。


「優月ちゃんって彼氏いる?」
「…いないですよ」
「何、その間は?もしかして好きな奴でもいる?」
「ま、まさか!」
「怪しいなー」
「いや、本当ですよ」

あはは、と声に出して笑い、今の状況の空気を変えようとする。するといきなりピタリと動きが止まって、あたしもつられるように歩みをストップする。どうしたんですか、と問い掛けようとしたがその言葉は咽頭まできて止まった。いや、出なかった。じわりと広がる柔らかな衝撃と温かさ。肌を伝っていく冷たい滴。視界に飛び込んできたのは、ふわりと浮かぶビニール傘。まるでスローモーションの様にそれはアスファルトへ落ちていき、水溜まりに落ち飛沫が飛び散った。
あまりにも不明瞭。なんで私こんなに濡れてるの?幾度も瞬きを繰り返す。けれど、そんな疑問はすぐに解決できた。誰かに抱き締められているんだ。誰かじゃなくって、あの人しかいない、と。


「俺さ、好きなんだよね」

「あ、あの私…」

身体を縮めてながらも、抵抗するが拘束は続いて。無情にも雨は徐々に強くなっていった。耳元から嫌でも聞こえる男である印の低いトーンの連続した呼吸が更に気持ち悪さを促してきた。危険。そう警鐘を鳴らし声を挙げようとした直後、口を手で塞がれ、いきなり首筋を舐められ片手は全身を撫でてくる。涙が出そうだった。私には抵抗する術しかない。けれど、男と女の力の強さなんて雲泥の差。結局は男の力には勝てるわけなんかないんだ。
もう駄目。そう絶望の淵に立った気分の時、脳裏にデイダラの姿が過った。今日はシチューを作ろう。きっと今頃、デイダラお腹空かせて待ってるだろうな。そうだ、早く帰らなきゃ。

どうやってかは自分でも解らない。ただ気がついたら無我夢中に疾走していた。知らない間に服は千切られ、痣や鬱血の痕が肌に浮かび上がっていた。でも、あの状況下逃げ切ることができたのは、本当に奇跡。けれど、それでも瞳からは温かいものが溢れてきた。あんなことする人じゃない。ただの事故。そうじゃなきゃ、あまりにも辛すぎるから。
それからデイダラと偶然にも会って、帰宅した直後見られたくない嫌な姿を曝け出してしまった。あの時のデイダラの酷く歪ませていた顔が、今でも頭に焼き付いている。そして、抱き締め返してくれたあの両手が酷く落ち着き、私は意識を手放した。





「…………ん、」

目蓋をゆっくりと開けると、視界に広がる白い天井と窓から差し込む淡い陽射しが映し出された。身体を起こすこともせず、まだ意識が朦朧としていてボーッとする。
そうだ、あのまま寝ちゃったんだ。どうやらデイダラがベッドに運んでくれたようだ。丁寧に服までパジャマに替えてくれたようだ。

「…………パジャマ?」

瞬間、顔が熱くなる。え、これって…私が着替えたんだよね?あ、れ。でも全く記憶にないんだけど。火照る顔をなんとか冷まそうとするが、逆効果なのか更に熱を帯びらせる。その時、鼻に掠めた何かが焦げたような臭いとガラガラッと何かが落ちる金属音が響いた。それに刺激されてか、先程のことを気に留めつつも起き上がり、音がした方へと向かう。
臭いがする場所はやっぱりキッチンから。あたしはキッチンを恐る恐る覗くと、無彩色で彩られているキッチンに一際目立つ黄色が。


「…あ、悪りィ。起こしちまったな」

「ど、どうしたの?」

キッチンから漂う焦げた臭いと食器や食材が台所に散乱していた。そして、その場にはデイダラが。起きてから早速行動に移したのか、トレードマークの髪型はない。それから、両腕を捲っていて片手には焦げたフライパン、もう一方の手にはスポンジが。

「いや、これはその…腹減ったから何か作ろうとしたんだ」

「慣れないことするからだよ。ほら、貸して」

自然に微笑が零れて、フライパンを多少無理に奪い取り、焦げた部分をササッと素早く洗う。何故か怒る気にはならなかった。昨日あれからきっと何も食べれなかったんだろう。それに、これは彼なりの気遣いであり、優しさなのだろう。

「…昨日はごめんね、ありがとう」

「い、いや、オイラは何もしてねぇぞ…それより大丈夫か?」
「うん。大丈夫」

もしも、もし、あの時逃げることができなかったら、そう思うと震えが止まらない。けれど、デイダラがいる。一人じゃない。


「デイダラがいてくれて、本当に良かった」

再度、ありがとうと呟くとデイダラからは返答はなかった。私はフライパンを洗い終わり、そのままコンロの上にフライパンを置いて火を点した。その間すぐ隣にいるはずのデイダラが、自棄に静かで火が点いている音だけが耳に入ってきた。


「なんか久々だな」

「…デイダラ?」

暫くしてから、漸く言葉を紡ぐデイダラに私はそちらへと振り向いた。火の熱で蒸発していく水をジッと眺めているデイダラ。

「オイラ、久々にありがとうなんて言われた」
「…デイダラ」
「あっちに居たときは、里を抜ける前は多分言われたことはあったかもしんねー。だけど、暁に入ってからはそんなこと言われたこともねぇからな。それに優しくしてもらったのもなんかすげー懐かしい、うん」

ヘヘッとやんちゃに笑い、それより腹減ったーと呟くデイダラ。フライパンからは微かに水滴が消える瞬間の音がする。

「昨日作れなかったからシチューでいい?」
「いいぞ、うん」

「そういえば、」
「なんだ?」
「も、もももしかして着替えさせてくれたのはデイダラ?」
「…しょーねぇだろ」

あんま見ねーようにしたから大丈夫だ、と答えるデイダラ(あんまって…)に私は再び顔を真っ赤にしてしまった。そんな私を見てか、デイダラはやっぱ大丈夫じゃないだろ、うん?熱あるんじゃねーか、と心配してきたのだった。




とても不器用で、けど温かく落ち着かせていくように浸透するもの。君の優しさはそんな形で形成されていた。