あなたのナイト




※会社員設定

最初は、ただなんとなく視線を感じるなくらいに思っていた。でも気のせいかもしれないし、と特に気にすることもなく普段通りの生活を続けていた。
おかしいなと思い始めたのは、特に夜道を歩いているときにつけられている感じがしたとき。そして、視線を感じる機会が朝昼夜時間を問わず増えてきたとき。
これはまずいと思ったのは、無言電話のはずなのに聞こえてくる荒い息遣いとポストの中に入っていた大量の自分の写真、そして印刷された文字で"いつも見守ってるよ"と書かれたメモを見つけたとき。
相手が誰かなんて分からない。警察に相談しようかと思ったけれど、大事にしたくないから相談できないでいた。

そして今。なぜ警察に相談しておかなかったのかと猛烈に後悔している。残業して、夜遅くなってしまった職場からの帰り。怖いとは思いながらも、急いで帰れば大丈夫かと思ったとき。見覚えのある男性が立っていて。こちらを見て私を認識した瞬間、声をかけてくる。

「名字さん、今日は遅かったんだね」
「え……」

窓口の対応で何度か見たことのある男性だった。勤務中は名札をしているから名前を知られていることは仕方ないけれど、なぜここまで親しげなのか。窓口対応をしているときもこんなに気軽に話しかけられたことはないし、こちらだってほぼマニュアル通りの対応をしている。驚きすぎて固まっていると、その男性は手首を掴んできて。

「ほら、帰ろう。こんなに暗い中1人で帰るのは危ないから。今までは陰から見守ってたけど、今日からは一緒に帰ることにしよう」

勝手に話が進んでいく。手を振りほどこうとしてもびくともしなくて、声を出そうとしても恐怖で音になってくれない。だって、疑いようもなくこの人がストーカーではないか。どうしよう、はやく、警察に……。

「どうしたの、震えてるね。はやく帰って休もう。部屋は片付けておいたし、お風呂の準備もしてあるから」
「っ? ……、」
「ああ、そうだ。鍵、今朝から借りっぱなしだったね。返しておくね」

キーホルダーのついた鍵を渡される。今朝はアパートを出ていつも通り鍵を閉め、自分の鞄の中に入れたはず。なぜこの男性が持っているのだろうか。恐怖で頭が働かない。怖い、逃げなきゃ。そう思うものの、足は動かなくて。会社の前とはいえ、夜遅いから人通りはない。助けを求めようにも求められなくて。行こう、と手を引かれてひゅっと喉が鳴る。かろうじて首を横に振ったそのとき。男性と反対方向に身体が引っ張られてバランスを崩す。倒れると思ったけれど、あたたかくて硬い何かに受け止められた。

「何してやがる」

そろりと声の主を見上げれば、職場の先輩が立っていて。普段から目つきが悪いとは思っていたけれど、睨むとここまで迫力があるものなのか。

「お、お前には関係ないだろ。僕は名字さんを送っていこうと、」
「関係あんだよ。大切な女が無理やり連れて行かれそうになってんのに黙ってらんねぇだろ」

ぐ、と引き寄せられて抱き締められる。いつもなら驚いてパニックになるのだろうけれど、今は、とく、とくという彼の鼓動が聞こえて、その一定のリズムに心が少しずつ落ち着いていく。それに安心できる先輩の温もりも相俟って、自然と恐怖が取り払われていく。縋るように先輩のシャツをきゅっと握っていると、男性は先輩に何か言いながら去っていった。男性がいなくなったのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。と同時に安心したからか気が抜けて、へろへろとその場に座り込んでしまう。

「名字!?」
「っ……、だいじょぶ、大丈夫、です。すみません、」

彼が──倉持先輩が来てくれていなかったらどうなっていただろう。考えるだけで恐ろしい。先輩から離れたことでまた恐怖が襲ってきて呼吸が浅くなる。かろうじて大丈夫と返したけれど、本当は全然大丈夫ではなかった。と、先輩がしゃがみ込んで背中をゆっくりと擦ってくれる。大きくて温かい優しい手に、涙が出そうになった。ぐっと奥歯を噛みしめてそれを堪える。
だめだ、泣くな。もう夜も遅いんだから、これ以上先輩に迷惑をかけちゃだめだ。それにここで泣くなんて、面倒くさいことこの上ない。面倒事に巻き込んでおいて、さらに面倒くさい女と思われるのはどうしても嫌だった。
ふー、とゆっくり息を吐く。涙を堪えるのには必死だけれど、呼吸は先輩のおかげでだいぶ落ち着いた。

「倉持先輩、助けていただいてありがとうございました。もう大丈夫なので帰ります。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

ぺこりと頭を下げて早口で言う。そうでもしなければ声が震えてしまいそうで。1人で帰るのは怖いに決まっている。本当はあの男が入った家にだって帰りたくない。それに、背中を擦ってくれる先輩の手はどこまでも優しくて。普段から口は悪いけれど根は優しい人というのは分かっていた。それでもこんなときに優しくされると泣いてしまいそうになる。先輩の前で泣いてしまって面倒くさい女と思われるのだけは避けたかったのだ。
失礼します、と言って立とうとするけれど、力が入らなくて。ぺたんとその場に座り込んでしまう。あれ、と思ってもう一度立とうとしても同じだった。

「大丈夫なわけねぇだろ。送るから乗れ」

おぶってくれるらしく、背中を向けられる。けれど、送るという言葉を聞いて自分でも身体と表情が強張るのが分かった。家に帰るのが、恐ろしくて仕方ない。でもここで大人しく帰らなければ、先輩に迷惑がかかる。迷ったのは一瞬で、先輩の背中に乗ろうとしたのだけれど。

「どうした?」
「え、」

顔を覗き込まれる。なんでもないと言おうとすれば、なんでもなくねぇだろと遮られて。彼は本当に人のことをよく見ている。いつもはこんなに強引に聞き出すことはしないけれど、こういう状況のときは無理やりにでも聞き出すのだ。他人との距離の取り方をよく分かっているから、職場内で私が唯一プライベートのことを話せる先輩でもある。話せると言っても、元々コミュニケーション能力が高い方ではないから、少しだけれど。
結局、いろんな感情が込み上げてきてぽろぽろと涙がこぼれてしまった。面倒くさいだろうなと思って先輩を見るけれど、彼は心配そうにこちらを見ていて。気づけば口を開いていた。

「……家、怖くて。あの人、勝手に鍵使って入ったって言ったんです」

先ほどのことを説明すれば、先輩の表情が苦いものに変わっていって。喋った勢いでぽつりぽつりと今までストーカー被害に遭っていたことも話せば、先輩は驚いたり苦い顔をしたりしながらも真剣に聞いてくれていた。話し終えると、真面目な顔で言われる。

「1人で抱え込みすぎ。そんな怖い思いまでしやがって……。これからは、些細なことでもいいから周りに相談しろ。俺もいつでも聞いてやるから」
「……はい」

頷けば、大きな手が頭にぽんと置かれて撫でられる。撫で方は少し雑で髪が乱れてしまったけれど、嫌ではなかった。

「ほら、乗れ。会社の仮眠室なら家よりはましだろ」
「ありがとうございます」

どうせ立てないから、先輩の言葉に甘えることにする。大きくて広い、鍛えられた背中。体重を預ければ、軽々と持ち上げられてきゅっと胸が甘く締め付けられる。
先輩の背中に揺られながら、ふと倉持先輩に助けてもらったときのことを思い出した。

「先輩、1つお聞きしてもいいですか?」
「ん? おう」
「助けてくれたとき、"大切な女"って言ったじゃないですか。あれってどういう意味でしょうか」
「……言葉のまま、だけど」

思わず「え、」と声が出てしまう。先輩を見れば、電灯に照らされた耳が赤くて。それを見て、自分の顔もぶわっと熱を持つのが分かった。何も言えないまま黙って先輩に体重を預けていると、彼はあの特徴的な笑い声で笑って、楽しそうにこちらを見た。

「ヒャハ、何か言えや」


title by Ruca


あとがき
倉持くんにピンチを助けてもらいたいという願望を詰め込みました。本当はこのあと警察に被害届出して大家さんに鍵変えてもらって引っ越して……っていうのをつけ足そうかとも思ったんですが蛇足かなと思ってやめました。面倒くさかったとも言う。
倉持くんは会社とかでもめちゃくちゃ頼りになる先輩してそうだなと思います。


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