とうらぶ 江雪 | ナノ



▼ 4

 通り雨だろうか。パラパラとした雨音が屋根を叩く。
 審神者が部屋に戻ると、見慣れない魚の骨と刀が落ちていた。
 ヒッ、と息を呑む。
 歴史修正主義者の短刀だ。
 歪な魚の骨がくわえていただろう刀は、床にごろんと転がっている。
 短刀の骨は何本か砕け、音に反応してぴくりと動いたきりだった。
 部屋の中は荒らされた様子がない。異物が唐突に存在しているだけだ。
「なに……あなたは……」
 じり。足を擦るように、一歩、後ろへ。駆け出して最初に会ったものへ助けを求めるべきか。死に掛けた相手ならばそう焦ることもなく、生け捕りにするべきか。死に掛けているからこその会心の一撃は気をつけねばならない。この他に敵がいるのでは? 判断し難い状況が審神者の足を止める。
「……」
 短刀が、審神者の足元へと這う。彼らが言葉をしゃべるのか審神者には伺い知れない。魚は口をパクつかせながら、刀を置き去りにしてずりずりと畳を摺る。
 審神者は、短刀の姿に哀れを覚えた。死力を尽くし、何かを伝えようとしている風にも思えたのだ。相手は敵であるというのに。不思議と懐かしい感情がこみ上げてきた。
「どうしたの。なぜここにいるの」
 自らの甘さを恨みながら、手を差し伸べずにはいられなかった。審神者は生来、女性的な丸い性格をしていた。共感力が高く、目の前の痛みに敏感で、時折、理屈よりも感情を優先した。
「痛いの。かわいそうね」
 畳へ膝をついて、手を伸ばす。短刀は、審神者の手に頭を乗せる。ごつごつとした骨には温度がない。端からほろほろと骨が崩れていくのは、おそらく、短刀の命が尽きかけているから。
 なぜこんなところにいるのか。どうして死に掛けているのか。敵意はないのか。わからないけれど、胸が痛む。戦場に出ない審神者には、如実な死はあまりにも切なく辛いものだった。
「ねんねんころり、おころりよ……ぼうやはよいこだ、ねんねしな……」
 はらはらと姿を砂に変える短刀。なぜか他人には思えなかった。
「やめなさい!」
 毛を逆立てる勢いの江雪が立っていた。内番支持と見回りを終えた連絡に来たのだ。
 はっと顔を上げる審神者。
 その瞬間、手を叩かれていた。
 弾かれた短刀が崩れ落ち、消えた。
「貴女は! いったい何をしているのですか!」
 冷徹な能面染みた顔に鬼を宿し、江雪は審神者の肩をつかむ。大きな手のひらで思い切りつかまれ、審神者は骨がミシミシと軋むような痛みを感じた。
「ご、ごめんなさいっ……!」
 今までに見たことのない江雪の剣幕。トリップにも近い不思議な気分から現実に叩き戻されたこともあり、審神者はすっかりおびえきってしまった。子供のように体を縮める。
「なぜここにあんなものがいるのです!」
「わかりません、わかりませんっ、そ、そこにいてっ」
「あぁっ!」
 色々な心配が渦巻いた。言葉として出て来ることはできず、苛立ちに似た唸りとなって消えていった。
「貴女にもしものことがあったら……私はっ……!」
 江雪は、審神者をまっすぐに見つめる。
 震える審神者の瞳には涙がにじんでいた。
 我に返った。頭に上った血がスッと引いて、どんどん失せて、青ざめる。とても酷いことをしてしまった自覚はあった。知らず知らず入っていた手の力が恐ろしくて、恥じるように引っ込める。本当に自分の手なのかわからなくなり、手のひらを眺める。細い肩の感触が残っている。
「……敵にすら慈悲を抱く貴女を、心から立派だと思います。あなたの生ける者への深い愛情は私が理想とする行いです」
 江雪の声が震えていた。一つも嘘ではなかった。江雪は審神者のそういうところに心酔していた。しかし、信じられないことに、それを認めない己がいた。心臓がひっくり返るほどの苦しみがそこにあった。
「ですが、貴女自身を、大切にしてください。貴女は私たちにとってかけがえのない存在です」
 それは建前だ。嘘を嫌う江雪の心が促す。自分の中の矛盾があまりにも情けなくて泣きそうだった。
「……いいえ。本当は、私が貴女を失いたくないだけなのです」
「え……」と、審神者は小さく声を漏らす。想像もしない江雪の言葉に涙も出戻っていく。
 深々と頭を下げる江雪。長い髪が畳について広がる。
「取り乱してしまい……無体を働き、大変失礼いたしました。この処罰は何なりとお受けいたします」
「いえ……やめて、頭を上げて、ください。私も迂闊だったの。自覚が足りなかった、と、思う……」
 途切れ途切れに言葉をつなげる。頭の中が真っ白になっていた。まだ体の震えは収まらない。江雪を怖いと思ったのは初めてだった。
「信じてください。あなたを守りたいという気持ちは本当なのです」
「信じています。ただ……少し、驚いたの……どうして歴史修正主義者がこんなところに」
 一呼吸。落ち着くために長い息を吐くと、かえって冷静になりすぎてしまった。いらないものが頭の中にわき出してくる。
 挙動のおかしな歴史修正主義者。
 間者。
 ざわざわとした不安が審神者の胸中に満ちる。
 すっかりと歴史修正主義者の姿が消えてしまったら、先ほどまでのトランス状態にも近い不思議な感情すら何者かの差し金に思え、恐ろしくなった。
「ねぇ、でも……この本丸の中に……裏切り者が、いるの?」
 唐突な問いに、江雪は首を振るしかない。
「それは……今の私にはお答えできません」
 はい、という一言で心は穏やかになれるだろう。――それは大将として賢い拠り所ではない。しかし、一人の女性としては仕方のないことだった。
「江雪さんは、信じていいの?」
 救いを求めてすがる瞳で江雪を見上げる審神者。審神者の手を取り、江雪は両手で包み込む。柔らかく、ひんやりと汗ばんだ手だった。
「はい」
 はっきり断言した。
「私は絶対に貴女を裏切りません。命をかけて貴女をお守りすると決めています」
 ぎゅう。手のひらに力が篭ってしまう。錯乱している今だからこそ言える気がした。江雪は青ざめた薄い唇を開く。思うよりもしっかりとした足取りの言葉が溢れ出てきた。
「……私は、貴女のことをお慕いしております」
 言った後は後悔が生まれた。使うものと、使われるもの。人間と、人間ではないもの。誰にも等しく優しい審神者は、誰にも特別な想いを抱かないかもしれない。勘違いだったのかもしれない。どうしてそんな過ちをおかしてしまったのだろうか。
 不安と後悔は、審神者の微笑みにかき消される。
「ありがとう。嬉しい……私も」
 手を取り合う二人は不安を背にして今まさに恋人になった。
 城の外では雨が降っている。
 一人が死んだ。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -