「沙耶、ちょっといいかい?」
コンコン、と沙耶に貸した部屋の扉をノックする。
大声を出す事があまり好きではないので、人を呼ぶ時は少々の労力が必要だ。
「どーぞー」
そんな僕とは反対のあっけらかんとした沙耶の返事。がさつな訳ではないけれど、少しイライラする。
「入るよ?」
「はーい。」
カチャリ、と扉を押し開ける。
…僕が知っている沙耶は、割と変なヤツだ。言葉に対しての返事や行動が斜め45゜くらいの角度でズレている…今こんな事を考えるのは、単に僕が混乱しているからだけど。
緩やかで年相応の幼さが描く成長途中の曲線は、夏場の海みたいな布面積で被われていた。しかし今は冬になりかけの秋。部屋は暖房が効いていると言ってもプールではない。
要するに、目の前では沙耶の着替えが一時中断の形で放置されていた。
頭が真っ白になる。僕にどんな反応をしろと?
対して、無邪気な沙耶の笑顔。
「ご用は何でしょうか?」
ハッとした。慌てて部屋から飛び出して扉を閉める。
「服を着ろ!」
自然と声の音量が上がっていた。僕を動揺させるなんて大したものだ…それより、沙耶の非常識をなんとかしてくれ。僕も世間一般の常識からかけ離れていると思うけど、沙耶みたいに突飛な思考をしている訳ではない。どうしてノックしたのに着替えているんだ。ノックの意味がないじゃないか。
「ご用はそれだけですか?」
ドアの向こうからそんな声が返ってきた。もしかして、沙耶は僕を怒らせようとして空気を読まないのだろうか。もしそうならば、今の格好のまま北風が吹く野外に放り出して警察に連れて行ってもらおうと思う。
「違う。…とりあえず着替えたらリビングに来て。」
「私はこのままでも構いませんよ。」
「沙耶は寒いの嫌いかい?」
「嫌いです。」
「じゃあ僕の言う通りにしてよ。追い出すよ。」
「きゃあー!わかりました!」
間抜けた悲鳴が聞こえたが、使いどころを間違えていると思う。
僕は右手で視界を覆うと、ため息を一つ付いた。
とりあえずヤカンを温めてコーヒーを入れる。間違っても沙耶の分なんか用意してやらない。沙耶はコーヒーが飲めないからいつもココアだし。僕はそんな甘ったるいもの飲まないけど。
小さく軽快でうるさいスリッパの音が、階段を下ってリビングに近付く。
「お待たせしました!」
モノトーンのワンピースに身を包んだ沙耶が、勢いをつけてドアを開けた。
「あ、私ココアが良いです。」
「自分でやって。」
僕はいつもの席に着くと、マグカップにお湯を注ぐ沙耶を横目にコーヒーをすする。
「更にお待たせしました。」
机に置かれた沙耶のマグカップ。ココアの上に白いマシュマロがプカプカと浮いていた。見ただけで口の中が甘くなる錯覚に捕らわれる。
「で、えっと…何でしょうか…?」
伺うように上目遣いで僕を見る沙耶。僕はカップを置いた。
「学校に通う際の約束、覚えているかい?」
「はい。今まで通りにして、火事とその後について聞かれたら気分悪いフリをして逃げる。」
「うん、そんなところ。その後はどうだい?」
沙耶はピタリと硬直する。笑おうとして失敗した顔をしていた。
「頑張ったんですけど…どうやら私は可哀想な女の子になり切れなかったみたいです。」
コーヒーの湯気が揺らめくのを眺める。
「ごめんなさい、私ダメな子ですね…」
「うん。ま、しょうがないんじゃない?人間なんだし。」
沙耶は目を丸くした。人間なんだし、を某詩人みたいな意味で解釈したのだろうか。違うよ、あんな優しい言葉じゃない。
「雲雀さん…」
瞳を潤ませて僕を見つめる沙耶。大きな目が艶っぽく強調された。目をそらすと、ココアの熱でドロリと溶け始めたマシュマロが見える。
「…雲雀さんは、どんな女の子が好きですか?」
「…話題の転換がいささか急だと思うけど。」
「私、雲雀さんの好みがすっごく気になります。」
沙耶は両肘を机に置いて、頬杖をつく。…容姿ついては申し分ない。
「特にない。」
冷め始めたコーヒーを流し込む。なるべく早く部屋に上がろう。
「ええっ!じゃあじゃあ、私の事はどう思いますか?」
沙耶の足が机の下でブラブラ揺れた。
「うるさい。暑苦しい。デリカシーがない。」
「はうー!雲雀さんは静かな子が好きですか?」
「別に。目立った不満点を挙げただけだよ。」
席を立って流しにカップを置く。水に浸けておけば沙耶がやってくれるだろう。
「待って下さいよぉ、雲雀さぁん!」
沙耶は逃げようとドアに手をかけた僕の背中に飛びつく。
「離してよ…」
ため息をまた一つ。背中に柔らかい感触を感じる。
「このワンピースどう思いますかぁ?」
「いいんじゃないの。」
先頭にどうでも、を付け足しておく。
「本当ですか?えへへー雲雀さん黒白好きだしいいかなーって。」
嬉しそうな声が後ろから聞こえた。
「なんで僕の趣味に合わせるの。自分の服なんだから自分の好きな色を着ればいいだろう。」
「雲雀さんの好きが私の好きですよっ!」
「キモ…」
健気と惚れるべきなのだろうか。僕にはこの媚びが殺したいほど気持ち悪かった。
「あのさ、語尾伸ばすの止めて。本当に追い出すよ。」
無理やり沙耶を引き剥がして、扉を閉める。背中が涼しくなった。
なんで沙耶なんか家に置いてるのだろうか。
頭の中にふっと、真っ赤に燃える家と夜空の背景、あの日がフラッシュバックした。遠い目をする沙耶の姿。
…まだ、追い出すのも早いかな。