忘れる。
人間の美徳。
忘れることができるからこそ、私達は生きていける。忘れることができるからこそ、歴史は繰り返される。
だけど、『忘れる』は『消失』とは異なる。
意識の奥の底。本人も気付かないような深層の部分。家で言うなら床下の下の土台、更に下の地盤というところだろうか。
忘れた記憶はそんなところに眠っている。決して消えてはいない。
私達は記憶を忘れることができても、記憶を消すことはできない。
消せないこと。それは、過去の事実のように。永劫、積み重なっていくもの。



懺悔ではない雲雀の本音に近い言葉。
帰り道、無言の運転主さんの白い帽子を見ながら考えた、雲雀のコンプレックス。
うんともすんとも言えない私。
世界はあまり優しい出来ではないと思う。難しいものは逆立ちしても難しいからだ。バカ一匹が逆立ちしたところで、地球を支えることもできやしない。

「運転手さん。」
「…はい?」

四十代半ば。白髪交じりのおじさま運転主さんは、あまり関わりたくない風な口調で聞き返してきた。

「運転手さんは、雲雀が怖いですか?」

こんな尋ね方もないだろうけど。
いささか不躾とは思ったけど、他にいい言い回しも思いつかなかったので単刀直入になってしまった。まぁ、『基本的に気がいい』はずだから…私はその説を信じる。

「そりゃあ、こんなことやってるくらいだもの。」

嫌そうな、半分悔しそうな運転手さんの声。
言葉は続く。

「本当はね、中学生の使いっぱしりなんてやりたくないよ、おじさんだって。でも、相手が相手だからねぇ…」

そこでため息。

「運転手さんは雲雀の何がそんなに怖いの?」

聞き出せそうだ。いや、聞き出さなくてもわかっていて、これは確認の一種なのだけど。

「そりゃ、彼本人も怖いけど、バックの連中もいるしねぇ。そいつらを力で従えさせたと思うと…ぞっとするよ。」

ミラーに映った運転手さんの眉が寄った。

「お嬢ちゃんも大変な人に捕まったね。」

同情するような運転手さんの物言いに、私は思わず苦笑を漏らす。

「おじさんこそ。」

やっぱり、タクシーの運転手っていい人多いんだ。この事実にも苦笑。
降りるときに「彼には内緒にしといてね、絶対だよ。」と念を押された。言っても言わなくても変わらないと思うけど、ここはまぁ、機密に。



荷物持ちかえる=重い。ロッカーの中身=沢山。
卒業までのカウントダウン。みんなは思い出作りに必死になって、何やらクラスで色々やったりかなり遅くまで教室に残ったり。
私だって友達がいないわけじゃないから、みんなとたわいもないお喋りをして過ごした。
時は夕刻。不意に目をやった窓の外は紅に染まっている。
じゃあそろそろ、と解散を始める友達連中。私も荷物と+αのちょっとしたものを持ち、教室を後にする。

「千世ちゃん、一緒に帰ろー」

つい先日、下駄箱で冷やかしたあの子。仲良しさん。
笑顔の誘いがありがたくて、それでも私はやるべきことをやらなければいけない。それは誰から言われずとも、自発的にやろうと思ったこと。

「ごめーん、ちょっと行くところあるんだ。」

心からすまないと思いつつ、両手を顔の前で合わせて謝る。
その子はちょこんと首を傾げた。

「…やっぱり彼氏か? 彼氏なのかっ!? この間から変だと思ってたけどーっ!!」

「最後の最後で抜け駆けかー!」とその子は私をぽかぽかと叩いてくる。いや、とっても軽い女の子の攻撃でありますが。

「違う違う」

苦笑。彼氏なんてそんな素敵ときめき単語で表せるようなピンクワールドじゃない。色で言うなら寒いブルー、それとも郷愁哀愁の夕日レッドか。そんな風に言ったら逆に素敵メランコリーだけど。ルー語うざい。

私は赤く染まる廊下を歩く。時々すれ違う運動部の生徒は、何気なくちらっと私を見た後、気に留めてない様子で先に行く。
何一つおかしいこともない日常の欠片。
卒業と同時になくなってしまう、ここにある私の居場所。



そして、雲雀はいつまでここ…並盛中に居座る気なのだろうか。
電気を消した真っ赤な室内。明かりの元である夕焼け空を、窓枠に頬杖をつきながら仰ぎ見る雲雀。さながら一枚の絵のようで、何らかの効果を狙っているようにも見えてしまう。披露する人も居ないだろうから素であろう。紅の憂鬱狂気幻想とかそれっぽい名前をつけてみる。なんだか、夢想好きの男子受けがよさそうな名前だ。
物音に気付いて少しだけ振り返った雲雀は、まるで私を空気みたいに気に留めることもなく…「ふぅん」と頷く時と似た感じで…視線を元の位置に戻した。
雲雀には紅と孤独と黄昏が良く似合う…なんて、彼本人に対して不謹慎だろう。しかしながら、そう感じざるをえない。「生きたい・痛い目にあいたくない」と必至になっていたつい最近の自分を忘れ、今の瞬間だけは「雲雀に殺されてもいい」なんて思うのは都合のいい話で、やっぱり不謹慎だ。

「やい雲雀。アンタいつまで卒業しない気よ。こちとら重たい荷物を沢山持って帰るっていうのに。」
「車出せばいいの?」
「運転手さんが可哀想でしょ。」

会話なんてなかったかのように雲雀は黙り込む。私は長いため息をついた。重たい荷物を壁に立てかけて置く。

「…僕さ、嘘が嫌いで嫌いでしょうがないんだ。人から嘘吐かれると、殺したくなるくらいムカつくんだよ。そんなに親しい人じゃなければ咬み殺して済ますけどさ。」

独り言を呟くように雲雀は言った。もちろん、私に向かっている言葉だろう。

「嘘くらいついて当然だろう? でも許せないんだ…きっと僕が嘘つきだからだよ。」
「雲雀は嘘つきなの?」
「そうだよ。沙耶にも草壁にも嘘ばっかり言ってた。もちろん千世にだって嘘をついてる。」

嘘、ねぇ。私は首を傾げた。
バカ故、私は巧妙な嘘をつけないしわりと正直さんだ。雲雀は頭がいいからきっと嘘が上手なのだろうけど、残念ながら実は素直な性格だった。どっちかに突き抜けていたらきっと楽だっただろうに。

「本当は、羨ましいやら悔しいやら。妬ましかったんだ、沙耶が。それに…」

そこで一旦切れる言葉。あーぁ、と脱力に満ちた間延びした声。

「あんな写真、気付かなければまだ夢見てられたのに。偽物も本物になったかもしれないし。…もう無理な話だけど。」

写真とは一体何なのだろうか。私にはさっぱり見当がつかないが、きっと、雲雀はわかってほしくないからぼやかすのだ。巧妙に壁を作っている。
本音を言うと、その壁の先の雲雀本人に触れたい。恋心というにはあまりにも楽しくなく、一種の母性本能にも近いかもしれないけど雲雀は可愛くない。
雲雀は人を惹きつける、カリスマ性にも似た狂気を持っている。それは彼自身にすら全貌が見えないものだ。
私たちは雲雀を恐れ、時に慕っている。力があるものとして、彼は並盛を支配している。しかし、それ以上に彼は私たちの心を揺さぶるときがある。彼の狂気を垣間見たときだ。
彼の狂気は磁石のS極N極に似ている。引き寄せるか遠ざけるか。そして、磁石のS極N極みたいに平和なものではない。引き寄せる…惹き寄せられたら、絶対にただでは済まない。証拠はないけど、言い切れる。
私の想像だと、篠塚さんは雲雀の狂気に当てられたのだ。当てられた…魅入られたとも言える。
私もケースは違えど同じような症状に陥っているわけで。
ともすれば、彼の狂気に触れたいと思うことは破滅願望なのだろうか。

「ねぇ千世。僕はこれからどうしよう。」

雲雀が体ごと振り返る。空はそろそろ紫がかり、夜の気配がちらついていた。

「そんなこと、私に聞かれても。でも、もっと考えればいいと思う。私だって、高校の進路決めるときすごく悩んだし。結局、無難に適当な学力の普通科に行くけど。やりたいことも特にないしね。」
「悩んでそれか…でも、普通が一番いいと思う。大なく小なく並がいい。並だったら波立たない。」

校歌引用の上、洒落を言いやがった。まともなヤツだったら面白いだろうに。

「…あえて聞く。雲雀のお父さんやお母さんってどんな人?」

普段はあんまり聞かない。なぜなら、「いない」って言われたときに困るから。それを踏まえてあえて聞く。
む、と雲雀の口がへの字になった。眉が寄る。
沈黙。私はだんだん不安になってきた。

「…『ごめんなさい』。」

考えるような口調で謝る雲雀。しかし、謝っているわけではなさそうだ。
自身の発言を特にフォローするでもなく、雲雀は黙り込んでいた。つまり、それが雲雀のご両親、もしくはどちらか。
夕闇は深くなる。燃えるような赤は紫のグラデーションがかかり、もう濃紺の闇が迫っている。
もう帰らないと、母さんに怒られる。でも、もうちょっと帰れない。

「えと、雲雀…」

私は適当に保っていた距離を破り、歩み寄った。不安か嫌な予感か、心拍数が少し上がった。
不意に、雲雀が私の手を引く。あれ、このパターンって。
ああ男の子だなーって実感する胸板が頬に当たった。少しだけ低体温な恒温動物。
反射的に相手の顔色を伺おうと顔を上げたら、無表情…きっと、彼なりの悲しい顔なのだろう…で、私を見下ろしていた。
反対の手が私の顎にかかり、固定されて引き寄せられて近づいてキス。多分、こういうのを噛み付くようなキスっていうのだろう。前回キスはなく、これがファーストキス。気持ち悪いというか驚いているというか息ができないというか。ぶっちゃけ、苦しいだけの行為。
そして、もう終われ! とか思っているうちに新たな感覚に目覚めてしまった。もしかすると私、Mっ子なのかもしれない。嫌な新事実の発覚。
息が苦しくて、貧血の時みたいに頭が回らないし、ぼんやりと白くふらふらする。
ようやく開放されると、どちらのものともいえない唾液が延びて切れた。エロさは汚さと紙一重だと思う、要は気分の問題だ。
私が息を吸って吐いてしている間に、雲雀はぺろりと唇を舐める。

「今までなんとかなったんだから、これからだって。僕は逃げる。別に愛してないよ、千世。」

どこか開き直るように雲雀は言った。
瞬間、本気で「雲雀死ね」と思った。
雲雀が私の首筋に唇を当てる。脊髄反射で身を縮めても意味はなし、ちくりとした痛み。同時に外される制服のボタン、解かれるリボン。抵抗の術はなし。
バカらしいことに、私も篠塚さんに嫉妬心を抱いてしまった。どうあっても二番さんということか。
…なんだ、私って雲雀が好きだったのか。それとも、雲雀の狂気に仮装の恋心を抱いたのか。まぁ、いずれにしても。
ここで私が選べる選択肢なんて、雲雀の気が済むまで抱かれるということしかないのですよ。

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