▼ (2)馬当番-2
馬小屋は実に静かだった。会話がないのだ。
「さーよくんっ。宗さん。調子どう?」
小夜君に背中から抱きつこうとしたら、逃げられてしまった。ものすごい驚きと殺気の篭った目で睨まれたから、たぶん、背中に立たれるのが嫌いなんだろうな。……嫌われてないよね?
小夜君の眉が下がって、視線が気まずいようにそれたから、きっと嫌われていないはず。
「宗さん? ……宗『ザ』ですが」
いつもより地味な作業着を着ている宗三は、怪訝に眉間へ皺を寄せる。
「かけて縮めた」
「……」
返事がない。呆れられたようだ。少しは反応が欲しい。冗談は滑ってもいいけれど、人間関係が滑るのはしんどい。
「さにわ。僕に馬当番は向いていないよ」
しらけた空気を埋めるように、小夜君は私の服の裾を引っ張りながら見上げてきた。それから、視線をつながれた馬へと向ける。
「ほら。馬が僕に怯えている。動物にはわかるんだ」
加州・安定コンビのときなんかは、馬もゆったり尻尾を振っていた気がする。だけど、今は隅で縮まるような緊張を感じた。動物の表情なんて、と思っていたけれど、案外わかるものなのか。
私はしゃがみこんで、小夜君と視線を合わせた。無表情だけど、どことなくしょんぼりしているように思う。案外わかるものらしい。私は安心させるように微笑んで、丸い頭に手を置いた。
「怖い顔してるからだよ。小夜君が怖がってたら、馬も怖がるんじゃないかな」
「……そうかな。僕は何を怖がっているんだろう」
「人に聞いて出る答えじゃないかもよ」
久々に小夜君とまっすぐ目が合った。刃物みたいに鋭い瞳が、今は少しだけ、弱いような、仄かな頼りない色をしている。彼を救うなんて大それたことは考えたくないけれど、少しでも信頼してもらえたら、私が嬉しい。自己満足に過ぎない考えだ。
小夜君の頭に手を置きながら、宗三を見上げる。でかい。本当はあんまり男性が得意じゃないし、大人の男性とか体の大きい男性はもっと苦手だ。なんか怖いから。
「宗さんはご機嫌いかが」
「見てわかりませんかね」
思い切り不機嫌そうだ。「はは」と私は苦笑する。
「僕に雑用をさせることで、歴代の主の上を行ったつもりですか?」
「うーん……ごめん。よくわかんないや。歴史とかそういうの詳しくないんだ」
「ああ、なるほど。それは失礼いたしました。あなたでは仕方ないかもしれませんね」
どうやら癖らしい。宗三は肩眉をしかめると、手で口元を隠し、皮肉な半笑いで言う。
カッチーン。とは来るけれど、仰る通り私は無知だ。肩を竦めてヘラヘラ笑う。
「ごめんねー。よかったら教えてよ」
「では、しばし説明させていただくとしましょうか」
呆れられてしまったようだ。細めた視線は私を馬鹿にして冷たくぶつかってくる。
「今川義元が討たれた時、僕を戦利品として得た魔王によって磨上られ、刻印を入れられました。そして今の僕があります。……ですから、義元左文字、とも呼ばれています。その後は豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、そして徳川将軍家と僕は主人を変え、天下人の持つ刀として扱われました。……なぜ、みんな僕に、そんなに執着したのでしょうね……」
ふっと、暗くうつむいてしまう。主人が変わったことが辛いのか。執着されることが辛いのか。読みがたく「へえー」と曖昧で適当な返事しかできない。
「それだけ織田信長がすごかったんだよ」
「……あなたは自分の無知が恥ずかしくないんですか?」
意思の強い口調。目の色を変える、とはこういうことか。普段は力の抜けているオッドアイがギッと私を睨みつける。きっと何か嫌なところに触れてしまったのだろう。
もしかすると、今川義元が好きだったのかもしれない。魔王なんて言っているくらいだ、織田信長を恨んでいるのかもしれない。なぜそのことに気がつけなかったのか。なんて迂闊な。
「……ごめん。勉強するよ」
ゆとりなんて言い訳をしても通じない。人間関係にそういう甘えが通じるなら、きっと世界は平和でみんな幸せだろう。もしも心の大切なところに土足で踏み入ってしまったのならば、それはとても申し訳ないことで、かなり、へこむ。
どうやら顔色に出てしまったらしい。宗三はバツが悪そうに顔をしかめて、視線をそらした。
「どれほど勉強したところで、あなたじゃ天下は取れませんよ。無駄なことはおやめなさい」
取るつもりもない。平和は守らなくちゃいけないけれど。なんて、憎まれ口を叩いたらこじらせてしまいそうだ。もう一度「ごめんね」と小さく口にして、膝を伸ばす。
小夜君が気遣うように見上げてきた。人の顔色をとてもよく読める子だ。いつまでも安心できない、可哀相な子だ。私は大丈夫だから、と、最後にもう一度頭を撫でて、笑いかけた。
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