▼ (13)小夜
手入れ部屋では左文字兄弟が青い顔で小夜君の意識が戻るのを待っていた。なるたけ音を立てないように襖を引くと、まるでお葬式のように小さく会釈をされる……縁起の悪い。私は静かに足を踏み入れた。
「おかえりなさい」
「えぇ、戻りましたよ」
ツンとした口調で宗三は言う。こういう言い方は何回聞いても飽きずにカチンと来る。でも、今は後回し。
小夜君は顔をしかめて眠っている。呼吸は浅く、擦り切れた顔にはガーゼが張られていた。小さい体がもう一回り縮んだように見えて哀れだ。ボロボロに刃こぼれした本体は妖精さんによって修理作業が進められている。
起こさないように気をつけて、優しく頭を撫でる。いつもより少しだけ体温が高く感じる。怪我の発熱。さぞ苦しかろう。
「可哀相に……」
なんだか泣きそうになってしまった。泣いてどうにかなる問題じゃないし、最近しょっちゅう泣いている気がするけれど、本来ならばホイホイ泣いていい立場じゃない。大きく息をついて鼻がツンとしたことをごまかす。事務処理は心を押し殺すのに有効だ。
「どんなことがあったか、報告よろしく」
兄弟の眉間に暗く皺が寄った。長男の責任感からか、口を開いたのは江雪さんのほうだ。
「……少し込み入った話をしていました。機嫌を悪くした小夜が、飛び出していって……偶然、歴史改変者のようなものに出くわし……このように……」
「そう……ご苦労様」
上手に言葉が出てこない。まるで話を理解していないかのように、何を言っていいのかわからない。決まりきった言葉は本当に楽でいい。でも、次に何を言えばいい。何も言わなくていいのだろうか。もう少し労わりたい。だけど、私は上手に喋れなかった。ともかく胸が痛い。
「ひとまず全員迎撃しましたよ」
沈黙に責められている気がしたのか。言い方の割りに、空気が抜けるような力ない声で、宗三はぽつり。江雪さんは横目で宗三をちらりと見る。
「実は、宗三も怪我を……」
「余計なことを言わないでください、兄さん。これしき、怪我の内に入りません」
ぴしゃりと早口で台詞を遮る。ゆっくり喋る江雪さんは次の言葉を継げずに困って眉を下げてしまった。
「あなたは小夜に近づかない方がいいですよ。僕達で面倒見ます。顔色も悪いですし、どうぞ、お休みになってください」
眉間に皺を寄せて、宗三は拒絶を織り交ぜて冷たく畳み掛けてきた。そんな距離感が悲しくなってしまう。だけど、いや、だからこそ。
「嫌」
絶対に嫌だ。絶対に。起きるまで離れない。
「……あなたはいつも小夜ばかり……」
ささやきほどの聞き落としそうな小さい声。感情を押し殺すように震えていた。私も、江雪さんも、宗三を見つめる。しびれるくらい、空気が張り詰めていた。
「っ……失礼します」
宗三は足を踏み鳴らすように勢いよく立ち上がる。ピンと張り詰めていた空気が大きくゆれる。
「小夜も、宗三も、逃げるのですね」
江雪さんが悲しそうにつぶやいた。
俯いて拳を硬く握る宗三は、黙って背中を向けた。着物の袖口から宗三の白く骨ばった腕にツッと鮮血が垂れてきた。腕に傷を負ったのだろう、拳に力が入りすぎて傷口が開いたのだ。着物に血がつくことも気にせず、宗三は服の上から傷口を押さえた。ほとんど走るようにして、足音をパタパタさせながら飛び出していってしまう。
追いかけたい。手入れはできなくても、せめて手当てをしてあげたい。でも、今は小夜君から離れたくない。この意志は固い。それでも気持ちは引きちぎられそうだ。唇を噛んで、優先したいほうを選択する。
「弟達が世話をかけます……」
穏やかな会釈だった。弱りきった顔をしているが、仕方ないものを見守るような余裕もある。江雪さんはため息のように言葉をつむぐ。
「争いは悲しみしか生みません。……ですが、時として、必要な悲しみもあるのでしょう。土に還り、肥料となって種を育て、やがて花咲くように……私はただ、綺麗な花が無事に咲くことを祈るばかりです」
「雪さん、優しい」
「あなたもお優しい。残酷なほどに」
哀れを湛えた微笑みを向けられる。自分がどれだけ酷いことをしたかは、存分に思い知ってしまった。後悔もした。だけど、そうしないといられなかった。今もそうだ。この瞬間が誰にとっても幸せな選択になっていないような気がする。それでも、そうしたいから、そうするしかない。胸が苦しい。
「ここまで、小夜を背負ってきました。さにわさにわと、泣きながら、うわ言で繰り返していました。本当に、あなたのことを好いているのですね……。故に……哀れです……」
江雪さんの悲しみは、涙で湿ったような言霊になって現れる。外からそう言ってもらえると、小夜君に好かれているのかいないのか不安な気持ちも少しだけ救われる。
「それでも……色々あったけど嬉しいよ。どれも全部、小夜君だから。……可愛いんだよ」
好き。可愛い。可哀相。似ている。わかる。わからない。どれが小夜君に対する感情の根っこなのか自分でもわからない。でも、同じ苦しみを共有して共感してしまったら、理由なんてどうでもいいことなのかもしれない。可愛いのだ。ともかく。無性に。無償に。私は頭を撫でることくらいしかできないけれど。
小夜君が唸った。瞼が震えた。いけない、起こしてしまったか。
ゆっくり持ち上がる瞼。ぼんやりとした三白眼と視線が合う。ぽーっと頭の中が真っ白な表情で小夜君は私のことを見上げてくる。
「おかえり、小夜君。帰ってきてくれて、ありがとう」
自分がどんな顔をしていたのかわからない。笑っていたかもしれない、泣きそうだったのかもしれない。小夜君と似たような顔をしていたのかもしれない。
「……さにわ」
すうっと小夜君の目が丸く開かれる。鼻から耳まで赤くなって、涙がにじんできた。あっという間に大粒の雫が目の端から流れていってしまう。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ……!」
小夜君は体を縮めて震える。ずっと辛かったのだ。今までこうやって泣くことはできたのだろうか。子供らしく、怖くてわんわん泣くようなことを。それでも、この涙は暖かい涙だと思う。
「いいよ。大丈夫だよ。私も、ごめんね」
私は添い寝するように体を折りたたんで、眠っている小夜君の頭を抱えた。小夜君も細い腕を伸ばして、力いっぱいに私へしがみついてきて息苦しいくらいだ。苦しいのに、小夜君の頭を撫でていたら、私は涙を流さずに済んだ。
「好きなのに……怖いんだ……」
涙で声を詰まらせながら、小夜君は呻くようにかすれた声でつぶやく。小夜君の心の苦しさが鼓膜を伝って私の胸を振るわせる。ぎゅっとすることしかできない。
「さにわ……僕を、前線から外してよ」
どうして、とも。なんで、とも。うん、とも。私は言えなくて。卑怯な沈黙を返す。小夜君は、卑怯な私を、黒い心を、嫌いに思うのだろうか。
「僕は弱いんだ……戦も、心も、弱いんだ……きっとまた、さにわを苦しめるんだ……」
細くなった声が途切れ途切れになる。そんなことを聞きたくないし、そんなことないと言いたい。できない自分がもどかしい。こんな痩せた小さい体に、私は一体何をさせていたのだろう。自問自答してしまう。だけど、彼等も私も、そういう運命の下にある。……江雪さんの言う通り、ここは悲しみの地なのかもしれない。
「でも」と、小夜君は鼻が詰まってガラガラになった小さい声で続ける。
「……僕のこと、見捨てないで……」
「見捨てるなんて、ありえない。そんなこと言わないで」
「わかった……だから、約束、して」
「約束する。嘘、つかない」
「……ありがとう」
胸が一杯になったような、穏やかな声だった。本当? なんて疑いもなく。ただ素直に私の言葉を受け入れる。通じ合った気がした。きっと私達はお互いの心を受け入れあうことができた。
小夜君がしがみついてくる間中、ずっと抱きしめていた。妖精さんのおかげで傷が少しずつ癒え始めているらしく、どっと疲れがやってきたらしい。気がついたらすやすやと眠っていた。泣き腫らした目、だけど、表情は柔らかくて、影が薄らいだ気がした。そうであって欲しい。
「花が……咲きましたね……」
ずっと傍に居た江雪さんが、嬉しそうな声でぽつりと言う。
私は振り返る。今は素直に笑える。
「その花は何色?」
「小さい……白い花、ですね……」
言葉を選んで少し考えて、不思議な感性を素直に伝えてくる。そう言われたら、なんとなく、そんな気がした。
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