▼ (8)長男
獅子王が恐縮して肩幅を縮めながらつれてきた人は、まるで周囲の温度を一度下げるような空気をまとっていた。長い髪も白く、なんだか雪女みたいな印象を与える。その上に体積が大きい。獅子王は気を利かせて三日月さんに出したのと同じ一番大きな座布団を出したのに、出家したような服装のせいか、小さく感じた。
「……江雪左文字と申します」
艶やかな抑揚は雪でも吐き出しているのかというほど陰鬱だ。名前の通り。内心はすっかりビビリきっているが、いきなりキレて斬りかかる人でもなさそうだから、気丈にいこう。
「左文字……ということは、宗さんや小夜君のご兄弟ですか?」
「ええ……そうです。弟達も、こちらに……?」
この三兄弟はどうして似たような顔をしているのだろう、と、思った。神経質で暗い目なんかそっくりだ。
「はい。お世話になっております。二人とも、ずいぶんたくましくなりましたよ」
小夜君も大きくなったらこういう繊細だけど大柄な人になるのかなぁ。二人よりワイルドに育ちそうだから、うーん……ちょっと怖いかも。あの尖って張り詰めた雰囲気も、小さいからまだ接することができる。でも、体が大きかったら、と、考えると。小夜君は小さいままでいい。
「……あぁ。弟達はもう、戦いに出てしまったのですね。なんと哀れな……」
ため息ではない。力のこもった嘆き混じりに、江雪さんは言う。
「……と、言いますと?」
「……刀は、使われぬほうが良いのです。戦えば、必ず片方が悲しみに沈むことになります。戦いは……嫌いです。戦いの悲しみに弟達が触れているのは……兄として、とても悲しいことです……」
ぽつりぽつりと、一つ一つを大切にするように、江雪さんは言葉をつむぐ。
……暗い……。
他の表現が見つからない……。
獅子王が情けない視線で逃げたいことを告げてきた。
『俺もう無理』
泣き言の脳内電報まで来ちゃったよ。
『行ってよし。よかったら宗さんと小夜君連れてきてよ』
すっと獅子王が立った。いつもうるさいのに、珍しく音もない挙動。すばやく逃げていく。戦場じゃないからよし。
「世は、悲しみに満ちています。……救いはないのでしょうか」
出会って数分と経っていないのに江雪ワールドが繰り広げられていた。左文字兄弟は自分の世界観を大切にする血筋らしい。きっと彼も何かあった人なのだろう。
「確かに戦いは悲しいですね。私も思うところがあります」
江雪さんは怨霊みたいな力のない目で私を見つめた。
「それでも……戦いは避けられませんか?」
「残念なことに避けられません」
「和睦に務めることは……」
「それができれば、どんなにいいことか」
「……なんと哀れな」
同情的な目で見られてしまう。
「あなたもまた悲劇を背負っているのですね……せめて、あなたのために祈りましょう」
イケメンに祈られるのは初めてだなぁ……もう二度とないかもしれない。
私はどういう顔をしていいのか悩みながら、とりあえず、かくかくしかじか手短に現状を説明した。江雪さんはお地蔵さんみたいになって耳を傾けていた。
「……ということで、お力を貸していただければと思います」
「なんという地獄……この悲しみの地に果てはあるのでしょうか……」
「悲しみを終わらせるために、一緒にがんばっていただけませんか?」
「……少し考えさせてください……」
なんて難しい人だ。長男故か、兄弟の中で一番頑固のような気がする。
とととっ、という子犬のような軽い足音。小夜君が縁側まで走ってきた。
「小夜君。あがってらっしゃいな」
「……ん」
小夜君は無表情に返事ともいえない返事をして、江雪さんをチラリと見る。
「小夜。随分久し振りに顔を合わせますね」
「ん」
まっすぐに顔を見ず、しぶしぶ頷くよう小夜君。
「刀だけに久し振り……なんちゃって」
あまりにも気まずい空気に冗談を言いたくなってしまった。素振りの動作をとってみる。
二人の視線がめちゃくちゃ冷たく突き刺さってきた。死にたくなった。この世の中の悲しみなんか絶対に消えないと断言できる。何事もなかった顔をして両手を膝の上に置くが、悲しみはしばらく癒えないだろう。
「はぁ……じゃあね」
ため息をついた小夜君は、大した言葉を交しもせず、そのまま横切るように帰ろうとした。私は慌てて膝を立て、呼び止める。
「え。ちょっと待ってよ」
「小夜。逃げるのですか?」
タイミングよく次いでやってきたのは宗三だった。優しさよりも厳しさが先立った、まるで弟を脅すような高圧的な口調。空気がピリつく感じがした。
図星だったらしい。チッと小さな舌打ちが聞こえた。宗三で懲りた、もしくは私の前で喋りたくない……というのは悲しすぎる考え方か。一体何から逃げようとしているのか、何が怖いのか。
小夜君は何も言わない。反抗心のせいか乱暴に靴を脱いで大またで上がってきて、江雪さんの隣とは言えない離れた位置にトンッと腰を落として胡坐をかく。
宗三は「揃えなさい。行儀が悪い」と不機嫌な調子で口うるさいお母さんみたいに言い、小夜君の草履を指先で摘んで正していた。続いて自分の漆塗りの下駄を脱ぎ、その横に揃える。
「このような格好で失礼いたします、兄さん」
「いいえ。労働とは尊いもの……ご苦労様です。どのようなことを?」
「今日は食事の下ごしらえですね。妖精を増やしてやらせればいいものを、こちらの主は好き好んで僕達を働かせようとする」
恨みと皮肉を織り交ぜて宗三が暗い目を向けながら笑いかけてきた。座布団も出さず、小夜君の隣へ空気を揺らさないくらい静かな動作で正座をする。
興味深そうに、江雪さんは瞼を持ち上げた。眉の位置があがるけれど瞳の力はないから、なんだか間抜け……いや、穏やかな印象になった。
「ほう。……それは、どのような理由でしょうか?」
「生活を通じて学ぶこともたくさんあります。仲間意識は当然のこと、人の形であることの自覚や、生きる喜びという面も、必要です。もう少し言えば、肉体が人間の構造をしている以上、人間のメカニズムに則って生きるのが健全だと」
「なるほど。慎ましやかな人間の営みですね……世界がそういう風に回れば、穏やかになることでしょう」
江雪さんは少し表情を和らがせたように見える。だが、不意に表情が曇った。
「……ですが、戦うために、営むのですね」
「ええ。でも、守るためです」
「いずれの理由であっても戦いは戦い……」
弟達二人は、目を伏して静かに話を聞いていた。どちらも横顔は内容の理解を突っぱねるようなツンとした表情だ。
キリがなかった。ならぬものはならぬ。どちらにとっても、ただそれだけの話。彼の気持ちはよくわかるけど、駄々っ子のようなものに思えた。
「戦に出ることの拒否は認めています。どうぞお好きなようにお過ごしください。……小夜君、お菓子食べる?」
「いらない」
以前に増して最近つれない小夜君は、こっちを見もせず早口で切り捨てる。暗い目が江雪さんをじろりと睨んだ。
「江雪兄さん、戦いたくないならその力を僕に頂戴。鉄くずになって、僕の肥やしになってよ」
「止めなさい」
宗三は小さいけれど鋭い声で小夜君を叱った。ぴしゃり、と勢いよく窓を閉めるかのように。
庇われた気がした。でもそれ以上に、いつもは虚しいような悲しいことを言う小夜君が、復讐以外を求めていることが気になった。強くなりたいと思う、その理由はなんだろうか。前線に立ちたい一心か。みんなに遅れをとりたくないのだろうか。力不足を痛感することは本当に辛い、鬱々として心が病んでしまう気持ちもわかる。
江雪さんはびくともせず、冷たいほどにしらっとした顔だ。彼は人の姿になっても刀のままと変わらず温度がないのだろうか。薄い唇を微かに動かして、冬の隙間風みたいに声を発する。
「……弟から深い悲しみと嘆きの気配を感じます。最後に出合ったとき、彼は、もっと瞳が穏やかに輝いておりました……あなたは……弟に何かを、命じましたか……?」
冷たく燃えた叱責の目が私に向けられる。この人はキレる人じゃないだろう。でも、怖い人だ。ビクつきを隠そうとしても、どうにも、今はうまくいかなかった。肩が竦んでしまう。責任のある者として情けないことはわかっているけれど。
「人らしく笑うことを望まれたよ」
小夜君はそっけない言葉を吐き出して、笑うまではいかないけれど優しいため息を零した。そして、江雪さんを睨みつける。
「別々の時間が長いんだ。僕は復讐の黒き道を歩んできた。兄弟なんて柄じゃないんだ。あなた達だってそうだろう」
あなた、なんて、突き放した言葉。どうして私が傷つくんだろう。小夜君が睨みつけたのは宗三なのに。
確かに二人はうまくいっていない。宗三は小夜君に対して冷たいくらいに厳しい。だが、興味がなく馬鹿にしている相手は鼻であしらう宗三が、自分から積極的に接しているということは、すごく気になっているということだ。残念ながら小夜君は冷た言葉の裏の暖かさに気がつける環境にはいなかった。二人の溝は時間と気付きが解決してくれるだろう、なんて静観していたけれど、それでよかったのだろうか。
「確かにそうかもしれません。外に出た小夜と違い、僕は飼い殺しでしたから……」
目を伏した宗三は、少しだけ消沈したように肩を下ろし、眉も下げた。口の端だけを吊り上げて、時々見せる疲れきった薄幸そうな笑みが浮かべる。
「ですが、経験はこれから積めばいいのですよ」
諦観のようなものは落ち着きに、前向きな心のゆとりは暖かさへと変わり、宗三は柔らかい声になる。
あれ。聞き覚えのある言葉。心当たりに目をぱちくり。
宗三はチラリと私へ視線を向けて、一瞬だけふっと茶目っ気のある笑みを口の端に浮かべた。今まで見たことのない表情が可愛く思えて、うっかりドキリとしてしまう。
「これまでと同じく、これからの時間もまた、長いでしょう? 戦わない平和な遠征業務ならいくらでもあります。近いうちに兄弟で出かけてみませんか」
「……そう言うのであれば、共に」
江雪さんは、ようやく納得してくれたらしい。戦いに出てくれるかはわからないけれど、表向き、問題は落ち着いたのではないか。少なくとも出て行かれたり追い出すことにはならなかった。小夜君と宗三に助けられてしまった。
「小夜も行きますね」
さっきまでの優しい響きがまた強張って、上から投げつけるような言葉になった。小夜君は宗三をうざったいように見上げて、そのままの目つきで私を見つめる。
「……さにわが決めて。言う通りにするよ」
「んー。小夜君が行きたいって言ったら、出かけるということで」
小夜君は長いまつげを揺らしながら、ぱちぱちと大きな目をしばたかせる。みんなの顔をどこかびくついたようにかわるがわる見渡すと、だんだんと頬が赤くなっていった。暖かい目で見られることに慣れていなくて照れてしまったのだろう。唇はへの字に結ばれ、とうとう誰からも目をそらす。
「っ……わかったよ……行くって言って欲しいんだよね?」
やっぱり兄弟なのだ。あんなに人を信じない小夜君も、お兄さんには素直な感情を持っている。表現は多少生意気かもしれないけれど、そこが可愛くて構いたくなるところなのだ。
「いい子いい子。小夜君、偉いね」
あんまりにも可愛いので、私は床に膝を擦るように小夜君へ近づき、思い切り抱きしめた。
「っわ、いきなり、や、やめ、はずかしっ」
跳ね返すようにばたばたされるけど、こういうとことも可愛いのでからかってあげたくなる。ぎゅーっとして逃がさない。小夜君も、私を力いっぱい押し返すことなんか優しいのでしない。抵抗はあれども離れない、じゃれ合う状態。
「あまり甘やかさないでください!」
宗三は急に声を張り上げる。教育熱心なお兄さんは小夜君のことになると途端にカリカリし出す。だけど私だって小夜君が好きなのだ。小夜君を隠すように体をひねって、唇を尖らせる。
「えー、ちゃんと褒めてあげなくちゃ。ね? 小夜君」
「別にほ」めてほしくない、だろうか。言いかけた小夜君の言葉をさえぎり、宗三が顔を赤くしてわめく。わめくといっても宗三は普段からため息みたいな喋り方だから、ある意味、標準に近づいていると言えばそうだけど。
「あなたは小夜を甘やかしすぎなんです! あぁもう、目に余ります! 離れなさい! 小夜も甘え過ぎなんです。そんな甘ったれた姿勢では立派な侍にはなれませんよ!」
自分が果たせなかった夢を子供に押し付けるタイプ? やっぱり刀らしく戦場に出たかったんだなぁ、と思う。反面、小夜君は短刀だけど嫌な血を浴びすぎて、こんなになってしまった。その上、江雪さんがこれだ。もしかすると左文字の血筋――と言っていいのかわからないが――は鬱病の気があるのかもしれない。それぞれ発病する環境は十分に用意されている。
ふう、と江雪さんがうるさそうにため息をつく。
「……子供の教育方針で揉める夫婦のようですね。争いはおやめなさい……小夜が困っています」
「ふ、夫婦……」
威嚇されてしまったかのように勢いがそがれ、言葉を繰り返す宗三。そんな風に言われたのが恥ずかしかったらしく、顔を赤らめる。私もびっくりした。この人、何言ってるんだろう。別に照れない。
「……あまり失礼なことを仰るなら、兄と言えども怒りますよ」
宗三は唇を尖らせて、口の中でもごもご言うようなキレの悪い悪態をついた。
江雪さんは「それは失礼しました」と、淡白にまっすぐな声で返事をした。小夜君が呆れたように鼻でせせら笑うと、宗三は耳ざとくこっちを向いた。だけど睨むのは小夜君で、視線と問いを投げるのは私だ。
「あなたはどうとも思わないんですか?」
「あ、そうね。びっくりしたよ。そんなに見えるくらい仲良くなれてたんだーって思って。客観的に言われると、なんか、ちょっと嬉しいね」
本当、気難しいやつだった。今でもそうか。
「……なるほど。さにわらしい」
確かに嬉しいのだ、と、目は語っている。同時に、眉と唇がむずむずするような、納得の行ききらない変な表情だった。抱きしめたままの小夜君が声も出さずに小さく肩を震わせて笑っていた。
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