▼ どこかの本丸の、最後の日。
「政府から文が来ているよ」
小夜君が直々に渡してくれた茶封筒は、一見普通の見た目だった。
「こんな時期に来るなんて変だね。いつもは月の頭に来るのに。いや、今月は二通目か。……何かあるの?」
「先月の健康診断の結果でしょう」
「ふーん。身長、伸びた?」
小夜君はしきりに私の手元を覗き込もうとしてくる。私は手紙を懐にしまう。
「この年じゃもう伸びませんよ」
クスクス笑って受け流すけれど、私に向いた視線は内側へ疑いをソッと含み隠していた。
「ほら、持ち場に戻りなさいな。甘えん坊って、また薬研にからかわれますよ」
「あれは焼きもちだよ。相手にすることはないさ」
男の子のプライドが恥ずかしいと思わせるのだろう。小夜君はふっくらした頬っぺたを少し赤くする。
チラと振り返る視線は、野生の勘だろうか。私の気持ちをすっかりわかっているのだ。私だって覚悟をしながら開ける封筒なのだから。
*****
一日しっかり普通の日を過ごした。
その晩、夕食に睡眠薬を盛った。時間差はあれど、みんな翌朝までぐっすりと眠ってしまうはずだ。
ほとんどない荷物をまとめて、夜のうちに出発するつもりだった。
「あらあら……どうして?」
静か過ぎて不気味な廊下の闇へ、通せんぼするようにして小夜君が立ち塞がる。二つのつり上がった目は険しく私を睨みつけてきた。
「僕はあなたのことならなんでもわかるんだ」
「わかるから信じられないなんて、皮肉ね」
「あなたは適当なことを言うからね」
ひた、ひたと、素足が廊下に張り付く足音。私はそのまま部屋へ進んで、何気なく鞄など引っ張り出して荷造りをはじめる。
「夜逃げ?……駆け落ちなら、よろこんで」
「そうねえ。何が一番、幸せになれるかしらね」
「政府の首切り?」
「うん。私ね、もう霊力が審神者としては使い物にならないんですって。最初から大したことはなかったんだけど。城攻めは最後まで隠し通せたみたい。よかった」
「それで?用済みだと?」
「新しい審神者さんはお強い男性だそうよ。今より仲間も増えて賑やかになるでしょうね。私なんかいなくても大丈夫大丈夫」
「大丈夫なわけあるか」
小夜君は、荷造りをする私の手首を掴む。ギリギリと締め上げる力は強く、きっと後で真っ赤になってしまうだろう。
「痛いわ」
「傍にずっといるって、言っただろう。やっぱりあなたは嘘つきだ……!」
冷たくなって、指が痺れる。泣きそうな顔の小夜君は腕の力を緩めない。このままだと、折られてしまうかも、なんて。
「何を笑っているんだ」
どうやら私は笑っていたようだ。困惑したように小夜君は眉を下げる。指先へ緩やかに血が流れる感覚。
離された手を、膝の上に置く。血の気が引いて青白くなった哀れな顔を見つめる。
「嘘ついたら、殺しちゃうかも……って言ったよね。私のこと、殺す?」
「あなたは、本当に死にたいのか?」
「小夜君は、本当に私を殺したい?」
「ああ。殺したいほど憎い……愛しい」
小夜君は刀を抜いた。短刀小夜左文字は厚く真っ直ぐな凛々しく美しい刀身を表す。向けられた切っ先は、よく切れそうだ。冷え冷えとした光が当てられた喉笛を縮こまらせる。息が震えるのは、笑っているからだろうか。自分の感情がよくわからない。
しばらく、見つめあっていた。小夜君は青い瞳をギラギラと尖らせていたが、やがて、だらりと手を下ろした。
「……わかってる。そんなことをしても、誰も幸せになれない」
「小夜君は優しい子。私は八方美人の嘘つき。……私のことなんか、さっさと忘れちゃいなさい」
「忘れろと言うのか!あなたのことを、忘れろと!」
小さな体をぎゅっと抱きしめる。お日様の匂い。この場所の、生活の匂い。震える華奢な肩に顎を乗せる。
「その方が幸せですよ」
「無責任だ」
「そう。無責任で、適当で、嘘つきで、八方美人で……それが私。小夜君も、もっと不真面目になればいいのに。人生、楽ですよ」
「……本当に?今の言葉……あなたが嘘をついていないなら、僕はもう、あなたを諦めるよ」
「……ええ。そのほうが、楽です」
心がチクリとした。自分に嘘をついたかもしれない。
小夜君は、じっと私を見つめる。すべてを見通すような澄んだ瞳だ。
「わかった」
わかりきっているからこそ、何一つ思い通りにならない相槌だった。
*****
政府の施設は本丸と異なり、平成の日本で言うならば六本木に建つ色々な意味で高いビルのような趣がある。刀剣男士達は普通に人間とほぼ変わらない様子で仕事をしている。服装も極めて自由で、髪を切ったり眼鏡をかけたり、個性を楽しんでいる様子が垣間見える。その光景は平成の日本のオフィスと言っても差し支えないだろう。
「ううう……つらい……つらいです……寝坊ができないし……上司は怖いし……怠けられません……」
自動販売機の横のベンチに座って紙パックのいちごミルクを飲みながら愚痴る。隣の小夜君は牛乳を啜りながら、私の趣味で選んだシャツとサスペンダーで吊ったショートパンツでお行儀良く座っていた。シャツはブルー。ハイソックスにはこだわりの紺ライン。そしてローファー。昨日はアーガイル模様のベスト、一昨日はポイント刺繍の入った紺のカーディガン。完全に着せ替え人形と化しているけれど、本人は文句を言わない。
「ツケが回ってきたんだよ。ほら、明日は引き継ぎの審神者さんが薬研と兄さんを連れて遊びに来るんだろう」
「もっと鬱ですよ。宗三君、私のことを目の敵にして……」
小夜君は遠い目をした。
「嫁に出した気分、っておいおい泣いてたからね……逆だよ……婿に行くならともかく……」
「お姑さんが怖いですよう……」
「……へえ。嫁って自覚はあるんだね」
三白眼が不思議そうに私を見上げた。
――左遷が決まってから、政府へ直談判に行った。当初の契約では、用済みの審神者は記憶を消して現世に戻すことになっていたが、政府務めという形で残留することになった。オフィスで見かける人たちは私たちと同類にあたるのだけれど、処理が非常に大変らしく、特例にはなるようだ。
小夜君は相棒として私の横にいる。初期刀のように、近侍のように、この特例でも一人だけ秘書をつけられる。同じ境遇の他の審神者を見ると、それがどういうことなのかは一目瞭然である。一種の型式染みて、契約染みたもの。
「命は大事ですからねっ」
私はいちごミルクをすする。小夜君は顔色を変えず、紙パックの真ん中を押してストローへ牛乳を上げ下げして遊んでいた。相当暇らしい。
「そう。あなたと約束したんだ。嘘ついたら復讐してやる。ここまで来たらもう逃げられないよ」
「復讐の黒き道はいいんですか」
「それはもう、あなたのためのものだ」
どうやら彼も、私に悪い影響を受けたらしい。彼個人として政府に新しい名を与えられたせいかもしれない。
そんな風に言いながら、彼もまた、口先だけのことだってわかってはいるのだけれど。根の深い苦しみから抜け出すことなんてできない。けれど、そんな強がりを口にするようになったのだ。
「……聞いてよ。先週の測定で、少しだけ身長が伸びたんだ」
「ええ? 伸びるんですか?」
「本丸から離れると、そういうこともあるみたいだね。自己像が変わるのか、はたまた、人間に近づいたのか、まだまだわからないところが多いから研究対象ではあるようだけど」
「……聞いてない。なんで今になって言うんですか」
「あなたが気がつくまで待ってもいいかと思って。いつまでも子供じゃない、ということだ」
唇は無表情でも、瞳に賢しさが覗く。
本当は、もうパックの牛乳なんて飲みたくないのかもしれない。こんな子供みたいな服を着たくないのかもしれない。
まだ小さな彼は、私の肩へ頭をもたれさせた。
「僕があなたの身長を抜いたら……あなたはどうしたい?」
それでも言葉の中にはまだ甘えが残っている。私は曖昧な言葉を返して、適当に笑って受け流す。
彼と私は、すべての約束を果たしたのだ。それ以上、一体何があると言うのだろうか。
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