▼ いつもの場所で
夕方の屋上。若君の冷たい手が頬に触れた。
「少し、顔色が優れませんね」
「そうかな?」
「ええ。無理しないで下さい」
「倒れたら運んでくれる?」
「もちろんですよ。まぁ、倒れないのが一番ですが……」
「じゃあ、安心して大事を取るね」
若君の気を引くためなら倒れることもいとわないけど。今は十分私を見ているからいいや。
「……最近、悪い顔になってませんか?」
「私が?」
「ええ。時々、怖いですよ。ゾッとすることがある……」
「……嫌い?」
「……。清楚な人が好き、だったんですけどねぇ」
不思議、とでも言うようなため息。
「まぁ、例え騙されていたとしても、乃子さんがうまく騙してくれさえすれば問題はありません」
「騙してないよ。例え私の全部が嘘で偽物でも、若君が好きなことだけは唯一の本当」
「結局、恋愛ってそういうものなんですね。最初は理想に覆い隠されていても、徐々に現実が近づいてくる。すぐに別れたりする連中はそこで気持ちが冷めてしまうのでしょう。……つまり、俺はまだ乃子さんのことが好きなんですけど、何がどうしてそんなに好きなのか、わからないということです」
「若君、大人になったねー」
「馬鹿にしてますよね?」
ちょっとムッとした顔で頬っぺた引っ張られた。うにー。
「はふー、うー」
頬っぺた引っ張られたときは無理やりにでも喋っておかないとなんか損した気分だ。
「その内に下剋上しますから、覚悟していて下さいね」
ニヤ、と、若君は至近距離で意地悪く笑った。
そして手が離れた。
両手で違和感のある頬を擦っとく。こうした方が可愛く見えるはず。
「若君のばか。ほっぺ痛い」
「痛いわけないですよ。極端に手加減してます」
そうですね(同意)。
「痛いの痛いのーっ! ばかー!」
「仕方ないですね……これで許して下さい」
若君は今一度、私の頬に手を置いて。右の頬に音を立ててキス。やわらかい。
びっくりした顔で若君を見たら、いたずらが成功した小学生みたいなしてやったりの顔をした。
「左も。――普通、右の頬とセットでしょう?」
そして左の頬も同じように。
……どうしよ、なんか、溶けそう。ふわふわする……。ほっぺちゅーでこんなに幸せにさせるなんて若君の底力が計り知れない。
だって、今まで学校じゃ絶対にこんなことしなかったんだよ? ず太くなっただけかもしれないけど、でも、ちゅーしてくれたんだよ?
「どうですか? もう痛くないですよね」
「うん……」
若君は完全に優位を誇った気分らしい。なんか可愛い。
「……口にちゅーは?」
「いいですけど、今度は乃子さんからして下さいよ」
ちょっといじめっ子の顔。そんな若君も大好き。
立っている時は背伸びをしても若干届かない。だからネクタイ引っ張ってこっちにあわせてもらう。あとは首の後ろに手を回して、がっちりホールド。絶対に逃がさない。
若君の薄い唇に吸い付く。フレンチな気分を堪能したら、舌で唇を突っついておじゃまさせてもらう。最初の頃はぎこちなかったけど、回を重ねる度に馴れてきたのか、若君も積極的に色んなことをしてくれる。私はうにゅうにゅ鳴く。前に若君が可愛いって言ってくれたから。若君からもたまに声が漏れ聞こえて、たまらなく可愛い。若君はかっこよくて可愛い。
不意に、若君が私を押して身を引いた。こうでもしないとまだ続きそうだったけど。
「っ……やば」
口をごしごししながら若君は呟いた。
「ヤバいの?」
「野暮なこと聞かないでくださいよ」
「やめちゃう?」
「止めます」
「やめなくていいのにぃ」
「学校です。もしものとき、言い訳できないでしょう」
「かくれんぼすればいいんだよ」
「……万が一、そういう時の乃子さんを他の男に見られたら、嫌です」
胸キュン。
どうしよう。若君の独占欲に心臓が絞め殺されそう。
だから絞め殺すつもりで抱きつく。若君はそっと頭を撫でてくれた。もっと違うことしたいけどギリギリ食い止めた手だってこと、タイムラグで気がついた。
「私の家、今日もどうせ誰もいないから寄ってってー」
「またですか……いる日の方が少ないですね」
「忙しいし、私のことなんか好きじゃないもん、パパもママも」
「……」
若君は黙ってしまった。かける言葉が難しいのは、確かだ。
「ああ、でも、たいしたことじゃないから」
両親なんて今も昔もそう。昔は友達も彼氏も上っ面だけのペラッペラな関係だった。たくさんの人の中心にいても、ひとりぼっちで寂しかった。
でも今は若君がいる。寂しくない。
「……また怖い顔をした」
「ごめんね。だって本当にどうでもいいことだから」
「やっぱりあなたはまともじゃないですよ、乃子さん。それが前世の記憶を持つことの障害なのでしょうか」
「かな? でもでも、生まれ変わりは、新しい環境での出会いによる救いがある、とか? ……ちょっと重たいかな?」
「重たいですね。でも、多分、俺はすでに潰されてると思います。精神状態があなたに引きずられている感じがするんです。きっとヤバいんでしょうけど、妙に心地がいいんですよ」
若君は真面目な顔で言った。
いいことなのか悪いことなのかと聞かれたら確実に後者だ。
若君を毒しちゃってる。私ったら最低だ。でも、私のために止められない。なんてエゴなの。若君をぎゅっとして自分を責める気持ちから目をそらすことしかできない。
「その……乃子さん」
ためらいがちな、呼び声。最近では珍しくてなんか嬉しい。
「乃子さんが俺の知らないところで知らない乃子さんになるのは仕方のないことです。ですが、俺の前では知らない乃子さんにならないでください。俺はあなたについて知らないことがあるのが悔しい。ですが、隠したいなら、隠してください、最後まで。そうでないなら、あなたの全部を見せてください。今更何が来ても依存の理由にしかならないでしょうけど……あと、浮気は認めません」
「やだぁ、私は若君専用だよ」
「本当ですか? 実はちょっと疑わしいんですよ、真剣に」
だからちょっと焦ってたのかな……。嬉しくて死んじゃう。
「そう言うなら、確認して」
「……そういう誘い上手なところが不安なんですよ。童貞なんで」
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