▼ 彼女の声
「ねぇ、乃子」
「なぁに? 雀」
どこかぼぅっとした雀の眼鏡の奥の瞳は、ほの暗い。心の中のえげつない毒をまざまざと見ている目だ。
「……今の自分を嘘だと思うことって、ない?」
「あるよ。私は、今の自分が――糸川乃子が本当だって自信ない」
昔の私は、今の私と違う人。
名前が違う。親も違う。前の人生で積み上げたものはまるきり否定されて、今の私を新しく作っていく。とてもぎこちなく、違和感のある作業だった。
二人の人生を一本にまとめて一人でしょい込む。その上で、私という役をまっとうすることは難しかった。私は誰なのか、わからないから。
だから、最初から私にならなければいい。私はどちらでもない人間。上っ面の糸川乃子。ある時点から私は嘘つきになった。
「辛くない?」
「辛いよ。でも、大丈夫。若君がいるから。若君が、私を見てくれているから」
若君が好きという気持ちは理屈なんかない。ただの真っ直ぐな感情で、私という人間は役でも設定でも言葉の塊でもなくなる。一つの肉体に収まる概念。名前なんかじゃない。私が誰だろうと、若君が見てくれている私が本物。若君を感じることができる私こそが本物。若君が私を『乃子さん』と呼ぶのなら、私は糸川乃子になる。
「雀は違うの?」
目を伏せて、黙り込んでしまう。唇がぎゅっと噛みしめられて白くなっていた。
「亮君が見てるのは雀だよ? なんで信じることができないの? フられちゃってるけど、跡部君だって……」
「もういい」
「え?」
「もういい。この話は終わり! 終わりなのっ!!」
きぃっとした金切り声。なんか、泣きそうな顔をしている。
びっくりしたぁ。
そんな自分すら嫌なのか、雀は顔をしかめていた。苦しそうだ。
「雀。これ、解離性人格障害のはじまりだから気をつけて。悩みすぎないでね?」
彼女の個人的で精神的な事情なんか私の知ったことじゃない。だから、適当な処方をしてみる。身のこもらないアドバイス。熱さえないそれは、他にもっととんちんかんな回答があったとしても、一番ずれていただろう。
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