▼ Third day
「ナマオ様おはようございます!!こんな時間まで眠るなんてお体に悪いですよ!!朝食を御用意したところなのでぜひ食べっ、ちょ、枕投げないでくださいっ!!」
「フィリップうるせぇ黙れ」
目覚まし代わりとなったフィリップの大音量の挨拶は二日酔いの身からすればただのテロだ。考えるよりも先に枕を投げつけたがフィリップは易々とキャッチする。それがまた癪に触ったので思いっきり舌打ちをする。
「そこは当たるところだろ、空気読め」
「そんな理不尽な空気読みたくありません!ほらお水持ってきましたよ!」
二日酔い特有の鈍器で殴られたような頭痛に追い打ちをかけるようにフィリップのでかい声が脳にダイレクトアタックを仕掛けてくる。気休め程度と重々承知で片耳を塞いで差し出されたグラスを受け取る。
ちびちびと水を飲んでいる間にもフィリップはせっせと朝食の準備をしている。その姿を見るとこいつも執事なんだなと再認識する。
頭痛はあるも胸焼けがないのが幸いだ。せっかくだから飯ぐらいはと気だるさが残る体を叱咤してベッドから下りる。
そこでやっと、ある事実に気がつく。
「……フィリップ」
「なんでしょうか」
「お前、もしかしてベッドまで運んでくれたか?」
確か昨晩はやけ酒の末にソファでふて寝をしたはずだ。
なのにだ、なぜ自分はベッドにいるのか。落ちてから寝ぼけてベッドに入ったのかと思うがあの状態でベッドまで歩けた気がしない。
ならば一体誰が自分を運んだろう。考えられるのは二人しかいない。できればもう片方のフィリップであってほしいと願う。
しかし、そんな自分を期待を裏切ってフィリップは不思議そうな表情を浮かべて首を横に振った。
「いえ、俺が来たときにはベッドで眠っていらっしゃいましたよ?」
それがどうかしたのか、と尋ねられるも答える気にはならずなんでもないとだけ返した。
運んだのはフィリップではない。ならば、考えられるのは一人しかいない。一瞬脳裏によぎった人物を振りきるように頭を軽く振る。
(やめよう、考えたら死ぬやつだ)
もしそうだったらもう色々な意味で死ぬしかない。今にも頭を抱えて転がりたくなる衝動を必死に抑え、もう忘れるしかないという結論に達した。その一歩として朝食をと着替えを探して辺りを見渡す。
そして、見つけてしまった。
昨日と同じサイドテーブルに置かれた、一枚の紙。とても見覚えがあるそれにその場で固まる。
そのまま見ない振りをすればいい。頭の中で囁く声を無視して、そろそろと手を伸ばす。
表には読めないドイツ語、裏を返せば案の定教科書で見るような美しい筆記体が並んでいた。
『Mr.ミョウジへ
昨晩は帰宅が遅くなってしまって大変申し訳ない。
ソファでは風邪を引くと思い、失礼を承知でベッドに運ばせて頂いた。
待たせてしまった詫びとしてワインはこちらで支払わせてほしい。
本日は早く帰れるのでどうか待っていてほしい。
クラウス・V・ラインヘルツ』
「〜〜〜っ……人が忘れようとしてるときにほじくり返すようなことすんなあの眼鏡っ!」
「ナマオ様!?どうかしたんですか!?」
耐えきれず大声を上げた自分に朝食を持ったフィリップが勢いよくドアを開ける。そのフィリップに向けて俺は渾身の力を込めて投げつけた。
「フィリップうるせぇっていってんだろ!」
「申し訳ありません!!でも理不尽!!」
知ってる。許せフィリップ。
なんてメモには書いてあったが、昨日のを思い返せばそうすぐには帰ってこないのは予想はついた。
どうせ帰りは夜中に違いない。だが、昨日の失態はもう犯してはならないと心に決めていた。
酒も一滴も飲まず、眠くならないように睡眠も十分に取った。ちなみにフィリップはなにやら電話を受けたと思ったらそのまま部屋に戻ってしまった。なのでいまは自分一人しかいない。尻以外は準備万端、来るなら来いとどんと構えてMr.ラインヘルツの帰りを待つ。もうブリーリングというよりも決闘をする気分だ。
あとは浴室で準備を済ますだけ、連日やってるからさすがに慣れてきたので手っとり早く終わらせようと腰を上げる―――ところでドアが開いた。
「すまない、いま帰った」
「……お、おかえりなさい」
約二日ぶりに顔を合わせたMr.ラインヘルツは少し疲労の色が窺えた。疲れのせいかいつになく気迫があり、強面三割増で思わず一歩引いてしまう。
時刻を見れば夕方の5時。外もまだまだ明るい。昨晩に比べて速すぎる帰宅である。
「……仕事終わるの早すぎやしませんか」
「昨晩の失敗を踏まえて今日は急いで終わらせてきたのだ」
つまり昨晩遅かったかせいで自分がふて寝したから今日は早めに帰ってきたらしい。
嫌味にもとれなくもない返答であったが至極真面目な顔で答えられるとなにも言い返せない。本人は決して全く嫌味でいったわけではなく、ただ前回の反省を生かしただけなのだというのが見ていて伝わってくる。だからこそ、昨晩の自分の所業を思い出すと胃がキリキリしてしまう。
「あーと……昨日はすみません、勝手に酒飲んで寝てしまって」
「いや、昨晩は私が遅くなったのが原因なのだからどうか謝らないでほしい。私の方こそあのようなことをいっておいて待たせてしまって申し訳ない」
顔は変わらず怖いのに心底申し訳なさそうに頭を深々と下げられて恐縮してしまう。顔はこんなに怖いのに腰が低すぎやしないか。厳つい見た目に反して昔テレビで見た青いラッコを連想させる。呆気に取られながらもこのままにさせるわけにもいかず、頭を上げさせようとMr.ラインヘルツに近寄る。
「あ、頭上げてくださいっ」
「しかし」
「なら二人とも悪かったってことでいいじゃないですかっ、ほらこれでおあいこになりますっ」
結局のところ待たせたMr.ラインヘルツにも待たなかった自分にも原因がある。どちらかを責めても終わりがないのだ。
これ以上謝り合うのも気が引けて提案を持ちかける。Mr.ラインヘルツは納得しきれていない様子ではあったが自分の意図を察してくれたようで渋々頷く。提案を受け入れてくたのにほっと胸をなで下ろす。
「ならこの話はこれで終わりです、ところで夕飯って食べましたか?あれだったら何か頼みます?」
「いや、こちらに戻る前に軽く食べてきた……それよりもMr.ミョウジ」
「なんでしょうか」
「昨日の電話の件、覚えているだろうか」
顔色を窺うようにおずおずと尋ねてくるMr.ラインヘルツの姿に質問の内容を理解するのが数秒遅れた。
『昨日の電話』その単語を脳が理解した途端、記憶が一気に蘇る。
『もしMr.ミョウジが嫌でなければ、貴方に触れたいと思っている』
嫌でも思い出させられたせいで体温が勢いよく上昇していく。耳が痛いほど熱くなるのを感じ、心臓の拍数が増えるのが嫌でもわかる。
せっかく忘れていたというのに!何か言い返そうにも声がでなくて口をぱくぱくと開閉しかできない。
そんな間抜け面を晒す自分にMr.ラインヘルツはまたもや勘違いを起こして心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「Mr.ミョウジ?」
「……チャントオボエテマス」
見つめられるのに気まずさを覚えて顔を逸らす。片言ながらなんとか応えたら視界の端でMr.ラインヘルツが目を細めたのが入った。覚えていてくれのに安堵したのか、それでも居たたまれないのには変わりない。
それが目的でこの部屋にいるのだから一々聞く必要はない。
赤くなる顔が見れぬように頑なに横を向いていたら、Mr.ラインヘルツが口を開く。
「ならば今から始めても問題はないということでよろしいだろうか」
「全然よろしくねぇよ」
全く脈絡のないぶっ飛んだ発言に敬語も抜けて突っ込んだ。電話のことを覚えているとはいったが今から始めてOKという意味ではない。さっきまでの紳士的な態度はどこへ行った。
否定されるとは思っていなかったのかきょとんとした顔を浮かべる。
「なぜだろうか」
「まず外まだ明るい」
「あと一時間もすれば陽も落ちるからそう変わらないはず」
「あんた帰ってきたばかりで疲れてないか」
「体調に関しては問題ないから心配いらない」
必死に言い訳してもすぐに受け流してがっくりと肩を落とす。別に今更怖じ気付いたわけではない。本当の理由はそれ以外にあるのだ。ただ目の前の相手にそれをいうのに抵抗を感じてしまっている。しかし、一向に引かない男に早々に折れた。
「……後ろの準備、まだなんだよ」
口にしてから恥ずかしくなってそっぽ向く。本当なら帰ってくる前に済ますはずが予想外の早い帰宅のせいでまだなのだ。
Mr.ラインヘルツにとっては繁殖行為かもしれないが懐蟲を仕込んでいないから今の自分からすればそのまま致すなんてただの自殺行為でしかない。
さすがにセックスするために尻穴を解すなんて下品な言い方できないのでオブラートに包んでみた。Mr.ラインヘルツはそこでやっと察してくれたようで黙り込んでしまう。そりゃあ同性同士始めてっていってたから仕方ない。理解してくれたのならばさっさと浴室に行かせてほしい。そう伝えようとしたらなぜかMr.ラインヘルツによって遮られる。
「それならば問題ない」
「いやいや問題ありますって、いっておくが女みたいに勝手に濡れるなんて便利な機能あると思ったら大間違いですよ」
「重々承知している」
「いやだからぁ……」
きっと真面目な男だから事前に勉強していたのかもしれない。だが本で読むのと実践は違う。そう簡単にいくわけない。段々苛立ちが増していき、もう無視していってしまおうか。なんて考えた直後、突然腕を掴まれ、そのままずるずると引きずられてしまう。
「ちょっ、Mr.ラインヘルツっ?」
「これから私がすべて行う、だからMr.ミョウジはなにもしなくて構わない」
「えっ」
きっぱりと断言した男の背中を呆然と見つめる。聞き間違いでなければいますごい発言をしていなかっただろか。聞き返そうとするまえに寝室のドアが勢いよく開く。
ベッドのシーツも枕もすべてフィリップによってベッドメイキングが済んでいる。先ほどまでなんとも思わなかったのに、今はそれが生々しく映る。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「み、ミスターっ」
「Mr.ミョウジ」
「ぁっ……」
名を口にされた途端、金縛りに合ったかのように体のいうことが聞かなくなる。電話で聞いたときとまったく同じ声色に腰が砕けそうになるも、なんとかその場で耐えた。
ここでまさか重種の力を使われ、内心舌打ちをするもMr.ラインヘルツからの無言の圧力にかかって身動きが取れない。
「こちらへ」
掴んでいた手を離したかと思えば、自分の手を取ってベッドに腰をかけるように促す。まるで女性をエスコートするような振る舞いにむっとする。しかしいまは重種様に逆らえるわけもなく、誘われるがままに腰を掛ける。
すると、Mr.ラインヘルツが唐突に目の前で床に膝をついた。
「ちょっ、Mr.ラインヘルツなにをっ」
「絶対に傷つけないと約束する」
繋いだままの右手を自らの方へ引き寄せる。自分の手がすっぽりと収まる手から熱が伝わった。最初に出会った日の夜を思い起こさせる。
あのときのようにただ一心に自身を見つめるエメラルドグリーンの瞳は逸らすことを許さない。
「だからどうか、貴方に触れるのを許して欲しい」
彼から放つ甘い香りに軽い目眩を覚えた。
逃げられない。すぐに悟る。すべてが無駄な抵抗なのだと、目の前の重種によって突きつけられる。
いっそ強引に関係を結んでくれたらどんなに楽だったろう。セックスをするだけの関係なのだとまだ割り切れる。だが、目の前の男はそれをしない。どこまでも自身の意志を優先しようとする。
重種らしくない男だ。しかし、ある意味重種らしいといえる。
逆にその誠意がこっちを追いつめているのを全く気づいていない。本人はそんなつもりはないだろうが、結局は『雌として抱かれる覚悟を決めろ』といっているようなものだ。
Mr.ラインヘルツはじっと自分の返答を律儀に待っている。時折顔をのぞき込んで様子を窺う。重種フェロモンをこれでもかと出してくるくせに幼気な行動がなんともミスマッチだった。
ふうと一つため息をこぼす。遅かれ早かれこうなるのは予想できていた。
答えなんて、もう決まっている。
「……許すもなにも、『それ』が目的で来たんだから今更じゃないですか」
握られた手を軽く握り返す。素直に口にできない自分の精一杯の返事だった。
弱肉強食、強い者には逆らえない。色々言い訳をしたところで結局自分も斑類なのだ。
「さすがにあとでやっぱ無理だなんていわないでくださいね」
「それは絶対にありえない」
一拍も置かずに否定されて苦笑いをする。これから自分を抱く男はどこまでも真面目だ。きっと先ほどの約束の通り、傷つけようとはしないだろう。そのことに安堵すると同時に不安もあった。
(これはブリーリング、目の前の相手はただの種馬だ)
たとえ懐蟲を埋め込んでいなくとも本来の目的はブリーリングだ。絶対に忘れてはならない。自分の胸に何度も言い聞かせる。
Mr.ラインヘルツの手が離れた。意図を察して後ずさる。ギシリと二人分の体重によってベッドが軋む。距離を積めれば甘い匂いがより一層増していく。火照り始める体がとても恨めしく感じた。
「もう一つよろしいだろうか」
「なん、でしょうか」
再び伸ばされた手から逃げようとは思わなかった。大きな掌はすっぽりと自分の頬を包み込む。頬から感じる体温に心地よくて目を細める。
「できれば、クラウスと呼んで欲しい」
「……Mr.ラインヘルツって長いですもんね」
「うむ、それと敬語もとっていただけるとありがたい」
実はMr.ラインヘルツと呼ぶのはいささか長すぎると思っていたからちょうどよかった。情事で呼ぶとなると舌を噛んでしまいそうだからその願いは有り難い。
「わかり……わかったクラウス、ならあんたも俺のことを名前で呼んでくれよ」
「承知した」
こちらからも提案を申し出るとMr.―――クラウスは深く頷いて了承する。
できればその固い話し方もといおうと考えたが今までを思い返せば元からこのような口調なのかもしれない。
「ではナマオ、口付けてもいいだろうか」
「……そういうの野暮ってもんだぞ」
一々聞かなくていいと言葉にせずに文句を口にするとクラウスは納得した様子で顔を近づけてきた。下唇から覗く牙に当たらぬように恐る恐る距離を縮めようとするのがちょっと可愛いと思ったのは内緒だ。本当に重種なのかと疑てしまうくらい、慣れてないのが伝わる。
(重種様でもこんなのがいるんだな……あの親父、こんな希少動物いったいどこで見つけてきたんだか)
他のことを考える余裕があるほど遅いもんだからいっそ自分からけしかけてやろうかとさえ思ってしまう。しかし、さすがに最初だから相手の出方を見たい。ネクタイを引っ張ってやりたい衝動をぐっと抑える。
これは長い夜になりそうだ。確信ともいえる思いを抱いて、クラウスの唇を受け入れるために瞼を閉じた。
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