獣の恋 | ナノ
 4th days

 二度目の起床ではもうクラウスの姿はなかった。
 時計を見ればとっくにお昼過ぎている。昨日のようにフィリップが呼びに来た様子もない。
 四日もいれば慣れたもので、ベッドサイドに置かれているメモを手に取る。表にはいつもの美しい筆記体で伝言が書かれていた。要約すると「仕事に行ってくる。フィリップには午後2時頃に来るように伝えてある」という内容だった。下に何か書かれているがいまはあえて読まない。そのまま裏返しにするとまたドイツ語が一文綴られている。律儀に間違えるなと変に感心を覚える。たぶん内容は一緒だろうから調べる気はない。

(まずはシャワーだな、うん)

 ベッドのシーツがきちんと整えられていることも、風呂に入る必要もないくらいには体が綺麗になっているのも、腰と尻が痛みを訴えているもの全部見ない振りだ。さっきから腹の虫が鳴いているからとにかく満たしたくて仕方ない。
 頭から冷水をぶっかけてから気を紛らわせて、それから飯を食べよう。頭の中で計画、腰と尻の鈍痛に耐えながらベッドから降りる。
 その判断が間違えた。
 足をつけて立ち上がろうとした途端、膝から崩れ落ちる。そのまま両足が開いて尻をつける格好、よくにいうアヒル座りでその場に座り込んでしまう。
 自分でも何が起こったのか分からない。突然の出来事に尻と腰の痛み以上に驚きが勝った。固くもなければ柔らかくもない体の異常さに頭上に!?が連発している程度には混乱している。成人男性であひる座りなんて痛いにもほどがある。しかし、立ち上がりたくても力が入らない。その混乱のあまり下を向いてしまったのがさらに悪かった。

「……うっわぁ」

 あまりに強烈な光景に思わず声が漏れる。
 視界に入ったのは床と自分の体、バスローブから覗く肌は真っ赤な斑模様を作っていた。胸元から太股にかけて、もしかしたら体中にあるのではと疑心が湧くほど赤い鬱血が転々としている。
 それがなんなのかこの年になれば嫌でも分かる。視界に捉えてしまったら、昨晩の出来事が一気に津波のごとくフラッシュバックする。


『ナマオ、どうか私を受け入れてほしい』


 熱に浮かされ、朦朧とする意識の中で、一体どれだけあの声に囁かれただろう。
 一体あの大きな手に触れられ、あの牙に噛まれ、そしてあの獣の子種を受け入れたことだろう。
 ぞくりと腰から這い上がってくる感覚に身震いする。まだ男のが中にいるような感覚に無意識に体が力んでしまうのに軽く絶望を覚えた。何度か深呼吸をし、力が抜けるのを待ってからそっと腹に手を伸ばす。

(まだあいつのが中に入っているみたいだ)

 散々腹の中に注がれたものは空っぽになっている。しかし、未だあの杭が中にいるような感覚に身震いした。
 結局、どんなに紳士的に振る舞ったところで同じ斑類なのだと再確認させられる。なにより、どんなに懇願したところで一切聞き入れず、自身が満足のいくまで貪る姿は重種そのものであった。
 もし、これで懐蟲なんて仕込んでいたら。腹を撫でていた手に力が籠もる。

「……よくぞ耐えたな俺っ、生きててよかったっ」

 情事の最中幾度となくよぎった腹上死という言葉が現実にならなくてよかったと心底ほっとしてる。だが、あの行為をまた今夜しなければならないと思うと、憂鬱以外の何物でもない。家に帰りたい、切実に思った。
 そうして生き残った安堵からか、腹の虫が一斉に鳴き出す。そういえば昨日は変に意気込んで何も食べていなかった。自覚をしてしまうと急激に空腹が襲ってきて眉を顰める。

「なんか食べるか」



「ドギモピザです、注文のピザお届けにきましたー」

 注文したピザを持ってきたのは、意外にも人間だった。糸目ともじゃもじゃ頭が印象的な、極々普通の『猿人』だ。姿を確認した際に真っ先に抱いた印象であった。こんな街だからてっきり異界人と思っていたのでちょっと驚く。かといって、こんな場所で働いてるのはきっと何か理由があるのだろう。

「悪いな、ここまで持ってきてもらっちゃって」
「い、いいえこちらこそご注文ありがとうございます!」

 返事は元気があっていいものの、あたりをキョロキョロ見渡して挙動不審気味だ。それもそうだろう、まさか高級ホテルの最上階までピザを届けにいくなんて思いもしなかったはずだ。自分の諸事情によりわざわざ部屋まで来てもらったのだ。ここまで来るのにさぞや肩身の狭い思いをしたに違いない。
 さすがにホテルの食事飽きてしまった。やはり高級料理は庶民の舌にはどうも合わない。庶民らしくジャンクフードが恋しくてたまらなかったのだ。コレステロール諸々はいまは置いておく。

「そだ、こちらがご注文の『HL限定ドギモスペシャルピザ』になります!あとポテトとチキンとビールです」
「……結構でかいな」

 バイト君が出してきたのはどう見ても一人で食べるには大きすぎるサイズの箱だった。電話での注文のとき一応普通のサイズといったはず。なるほど、これがHLサイズってやつか。食べる前から胸焼けが起きて口元が引くついてしまう。
 自分の顔色で察したのかバイト君も苦笑している。この野郎人事だと思ってと悪態つくも実際人事なのだから仕方ないか。
 どうしたものか、と受け取ったピザの箱を見つめる。さすがにあのお坊っちゃんクラウスに食べかけのピザ食べるのも忍びない。かといって全部食べ切れる自信もない。
 ピザを見つめたまま黙り込んだ自分にバイト君がおろおろし出す。返品なんていわれないか心配しているのかもしれない。
ピザを凝視して数秒、思いついたままにバイト君に声をかける。

「なあ、あんたこのあと回ったりするか?」
「え、いやこのまま休憩に入りますけど」
「そっか、ならちょうどいい」

 よかったら一緒にこれ食べるの手伝ってくれないか?
 ぱかりと蓋を開ければチーズの香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。ホテルの食事よりもこっちの方がずっとおいしそうだ。
 ちなみにバイト君の返答はというと、口よりも先に腹の虫が返事してくれた。あんまりいい返事だったもんだから吹き出してしまった。


 バイト君の名前はレオナルドというらしい。なんでも記者見習いで、HL歩きの記事を書くためにやってきたという。見た目によらず中々の行動力っぷりに少し感心した。

「へえ妹さんいんのか」
「はい、でもこれがまたお転婆で……ミシェーラ、妹は兄貴の僕をこれでもかとこき使うんですよ。あ、これめっちゃうめぇ!」
「女兄弟ってそんなもんだよな、俺も上にいっけどなんかあるとすぐに甥っ子姪っ子の面倒見せようとするぜ。ま、かわいいんだけど……お、本当だ美味いなこれ」
「やっぱどこも同じなんですねぇ」

 しみじみといいながらポテトを放り込む。最初は緊張でカッチンコッチンだったレオも慣れた様子だ。盛り上がる話題は専ら女兄弟持ちあるある。互いに女兄弟を持った苦労を理解できる同志となれば会話も弾む。
 それに比例してピザもなくなるから一石二鳥、こういうとき若者がいると助かる。

「そういえばナマオさんってなにしにHLに来たんですか?」
「……と、友達に会いに?」
「なんでそこ疑問形なんスか」

 まさか父親に無理矢理ブリーリングさせられに来ました、なんていえない。ましてやそのブリーリング相手に空が明るくなりかけるまで掘られてました、なんていえるわけがない。いったらここから飛び降りるしか選択肢がない。

「そいつ仕事忙しくてあんまり会えなくてだな」
「へぇ、その人どんな仕事してるんスか?」
「……」
「え、ちょ、そこでだんまり!?」

 友達ですよね!?と鋭い指摘を受けてピザを頬張ったまま視線を泳がせる。
 いわれてみれば、クラウスのことを全く知らない。会話をするときは必ず目を合わせようとするとか、ベッドの中では無自覚で言葉責めたりだとか、結構ひっつきたがりだとか、どういう人物かを説明はできるけれど、彼自身の情報は 一切聞いていない。年齢も、仕事も、恋人がいるのかも。この部屋にいるクラウスしか、自分は知らないのだ。
 知らなくて当然だ、俺とあいつはブリーリングという間柄でしかない。
 それ以上でも、それ以下でもない。

「ナマオさん?」
「あ……ああ、悪い。ちょっとぼーっとしてた」
「もしかして気分悪いですか?あれだったら僕そろそろ」
「大丈夫だって、ところでレオがよかったらHLの話を聞かせてくれよ。もうここに来て数日経つけど、一度も部屋から出てないんだ」
「えっ、そうなんですか!?なんでまた」
「なんでだろうな、出る理由がないから?」

 目的が目的なのもあるし、クラウスやフィリップがなぜか外出を控えるのを口酸っぱくいわれていたのもある。自分も自分で出かける理由もなかったから特に気にしなかった。さすがに四日も経つとやることもなくて飽きてきていたところだ。だからこそ、レオという存在はとても貴重なのかもしれない。

「うーん、聞いてもおもしろくないですよ」
「そのときはオチを催促すっから」
「なにそのプレッシャー怖い」

 なにから話すべきかと腕組んで悩むレオを楽しげに眺める。レオは散々悩んで、ぽつりぽつりと話し出した。
 HLに来てからの出来事、よくカツアゲに合うからそのための防止策、忘れっぽい友達のこと、音速猿というペット?みたいなのがいること、金をせびってくるけど実は世話焼きな先輩のこと、このまえラジオで生電話に出たこと、尊敬する上司のこと、さっきまでの躊躇いが嘘のように話題がぽんぽん出てきた。
 嬉しそうに話したかと思えばいきなり怒りだし、かと思えばしょぼくれていじけ出す。なんだかくるくる変わる表情は見ていて飽きない。ただ、話がいきなり変わるからおじさんちょっとついていけない。これが若さってやつなのか、と思ったらなんともいえない気持ちになる。あと先輩は訴えていいレベルだと思う。
 そうして相づちを打ち、時には茶々を入れたりしてれば時間はあっという間にすぎていった。

「げ!やばっ、休憩終わる!」
「え、もうそんな時間か」

 何気なく時計を見たらピザを食べ始めてから一時間近く経っていた。本当に時間が経つのは早いと感じる中でレオは顔面蒼白になりながら猛スピードで身支度を始める。

「あの、ピザごちそうさまでした!あのお金っ」
「いいって、こちらこそ話し相手になってくれたありがとな。あと口についてるソースこれで拭いといたほうがいいぞ」
「ええっ」
 
 財布を出そうとする前に先手必勝とばかりにタオル渡す。いやでもと渋るレオに時間を指摘すれば申し訳なさそうに礼をいった。本当に、HLなんかでよく生きていけるとなと不思議に思うほど『いい子』だ。レオはタオルを受け取ると口の回りを拭くと颯爽とドアに向かう。その後ろを追いかけて玄関まで見送った。

「それじゃあ今日はありがとうございました!」
「おお、また注文すっから」
「よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を下げてドアノブを握る。しかし、なぜかそのまま出ようとせず、その場で立ち止まる。いったいどうしのか、と不思議に思うとレオが振り返った。

「あの、余計なお世話かもしれないんですけどっ」
「おう、なんだ」
「さっき話したご友人の話、もし知らないんだったら聞いてみてもいいんじゃないですかね!」
「……いきなり話が戻ったな」
「すみませんっ、でも知らないでいるよりもたとえ玉砕覚悟でも聞いて相手のこと知れたら、もっと仲良くなれるんじゃないかなって……と、思っただけです、余計なこといってすみませんっ」

 勢いよくまくし立てるておいてどんどん弱気になっていくレオに苦笑いになってしまう。自分の態度が悪かったのも分かるが、そうしてアドバイスをくれる辺り、レオの人の良さを感じる。
 なんだかこういう真っ直ぐなところ、誰かに似てる。誰とはいわないけど。

「うーん、答えてくれるかわからないが……考えてはみるよ、ありがとな」
「いえ、僕なんか余計なことばっかいっちゃって……ってああああやばいいいいい遅刻うううう!!」
「おうおう急げ急げ、でも急ぐあまり事故は起こすなよー」

 この状態だと事故を起こしかねないので無意味だと分かりつつも一応釘は差しておく。それでもちゃんと聞いてはいるようで「気をつけます!」と元気よく返事をしてドアを開けた。最後に自分に向けて軽く一礼をするとレオはそのままダッシュする。閉まるドアの隙間から躓きかけるレオが見えた。あれは絶対事故起こすとバイトに向かうレオの身を案じる。
 レオがいなくなったことで、部屋にまた静寂が訪れた。自分しかいない部屋はレオがいたときよりも広く感じてしまう。

「……知らないなら聞け、ねぇ」

 誰もいない部屋でぽつりと呟く。その声がやけに部屋に響き、口元に嘲笑が浮かぶ。

「聞いてどうすんだよ、どうせあと四日もいないんだから」

 四日、それが俺がこの部屋にいる残りの日数。四日も経てばクラウスとはお別れだ。そのあと会うことなどないだろう。
 実際、聞きたいことは山ほどある。ありすぎて困るくらいにだ。
 だが、知ってなにになる?
 ガキだって出来もしないのに知ったところで必要のないものだ。
 ―――と、割り切れたらどんなに楽だろうか。
 いまいち開き直れない自分に苛立って乱暴に髪をかき上げる。

「くそっ、あの戦艦坊ちゃんめっ」

 元はといえばクラウスの割り切れない態度が悪い。もっと一線を置くべきところをそうしない、だから距離感が狂う。一体どこまでも本気なのか、それとも金で買ってもらったサービスなのか。未だに判断に困っている。

「……好きな食べ物くらいは聞いてもいいよな、うんただの世間話なんだからそれぐらいはいいはず」

 決してレオのアドバイスを真に受けたわけではない。そう自分に散々言い聞かせて今夜の闘いに備えるために浴室に足を向けた。


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