■ 飢えた獣には無闇に餌を与えないでください

 その日も人類滅亡を目論む勢力を一掃し、見事世界を救うことができた。今回は苦戦を強いられ、激しい戦闘によってクラウスだけではなく他の構成員たちもボロボロ。さすがに全員疲労困憊といった状況でオフィスに戻るのも憚られ、結局その場で解散となった。クラウスはギルベルトに迎えに来てもらい、そのまま自宅へと向かう。
 車内でクラウスは珍しくため息をこぼす。何せ36時間ぶっ続けで戦闘していたのだ。さすがのクラウスも疲労が溜まる。牙狩りに入隊した当初、まだ十代であった頃ならば3日も寝ずに戦闘してもピンピンしていた気がする。(当時そんなクラウスをスティーブンは体力ゴリラと呼んでいた)自分も年を取ったということか、疲れからぼやける視界を戻すべく、眼鏡を外して目頭を軽く揉む。
(そういえば、なまおの声を聞いていない)
 脳裏に浮かぶのはもう長い間交際を続けている恋人の顔であった。クラウスの恋人であるなまおは普段HLにはおらず、つねに世界中を飛び回っている。そのため、逢瀬を楽しめるのは一ヶ月、もしかしたら数ヶ月に一度の頻度だ。今回もまた長期での仕事でもうずっと顔は疎か、声さえ聞いていない。正確に言えば顔を合わせたのは3ヶ月と23日前、最後に声を交わしたのは25日、いや日付が変わったので26日前だ。
 互いの使命や仕事を思えば、こうして生きているだけで幸せのはず。それでも、顔が見たいと思ってしまうのはクラウス・V・ラインヘルツ個人の我が儘だ。
(家に戻ったら、電話をかけてみようか)
 報告ではいまなまおはクロアチアにいるはず、クラウスのいるHLが0時過ぎたところならばあちらでは朝方だ。就寝中のなまおを自身のわがままで起こすなどできない。早々に無理だと判断して肩を落とす。
(一度仮眠を取ってから、電話をしてみよう)
 もしかしたらもう起きて仕事をしているかもしれない。しかし、数分でもいいから声が聞きたかった。それだけで十分だ、そう自分に言い聞かせる自身の卑しさに嫌気が差し、キリキリと痛む胃を胸の上から押さえる。
 早くを朝が来ればいい。そうすれば少しはこの胃痛も収まるに違いない。そんな思いを抱えながら帰路についた。 

 だから、玄関を開けた先で恋人が立っていたときは真っ先に幻だと疑った。

「おかえりクラウス、今日もご苦労さまだったな」
 労いの言葉と共にもう久しく見ていなかった笑顔がクラウスを出迎える。突然の出来事に状況が把握出来ず、呆然とその場で立ち尽くした。瞬きを数度行うが、目の前のなまおが消える気配がない。突っ立ったまま微動だにしないクラウスになまおの幻は不満げに口を尖らせる。
「なんだよ、久しぶりに恋人が会いに来たっていうのに反応なしか」
「……すまない、一瞬幻かと」
「なんだそりゃ、だったら確かめてみりゃあいい」
 ほら、と両手を広げてみせた。未だ信じられぬ思いのまま、引き寄せられるようにゆっくりとなまおに歩み寄る。一歩、また一歩と遅い足取りでもなまおはそこから動こうとしなかった。そうしてなまおの前に立つと恐る恐る手を伸ばし、自身へと抱き寄せる。なまおは抵抗も見せず、むしろ自分からクラウスの腕の中に飛び込んでみせた。それに甘えて顔を近づけて髪に顔を埋め、息を吸い込むとクラウスが愛用するシャンプーの香りが鼻腔を擽る。クラウス以外でそれを使えるのは一人しかいない。そこでやっと腕の中の存在が本物だと認めることができた。嗚呼、感嘆の声を漏らすクラウスになまおが楽しげに喉を鳴らす。
「な? 本物だろ?」
「……ああ、本物のなまおだ」
 口に出した途端、先ほどまで苦しめられていた胃痛が引いていく。なんと現金な体だろうと呆れながらも、胸に広がる喜びの方が勝った。
 3ヶ月と23日ぶりのなまお、その事実がクラウスの心臓が高鳴らせる。
 喜びのあまり無意識に力が入ってしまったようで、なまおから抗議の声が挙がったことで慌てて力を緩めた。
「ああもう、嬉しいのは分かるけどさすがに加減してくれ。俺はお前やスティーブンと違って非戦闘員なんだからもっと大事に扱ってくれよ」
「す、すまないっ……それより、なまおいつこちらに戻ってきたのだね?」
「ついさっき……と、いいたいところだが実は昨日帰ってきたんだ」
「昨日?」
 昨日といえばクラウスが戦闘中ではないか。まさか敵を葬っている間になまおとの逢瀬を一日無駄にしてしまった事実に愕然とする。ショックを隠しきれないクラウスになまおは背中をさすって慰める。
「俺がギルベルトさんに頼んでおいたんだ、ちょっとしたサプライズのつもりだったんだが……タイミングが悪かったみたいだったな」
「すまない、実は」
「いいって、無事帰ってきてくれたんだから」
 それだけで十分だと、胸に顔を埋めるなまおの行動がクラウスのショックを和らげる。そこでやっと自身の状態に気づけるぐらいにはクラウスにも余裕が生まれた。
 クラウスは急いでなまおから距離を置くが、クラウスの不自然な行動になまおは怪訝な顔を浮かべた。
「いきなりどうしたんだ? 尻揉もうとしたの気づいたか?」
「もっ……そういうわけではない、ただその」
「ああ、その姿のことか?」
 戦闘によってクラウスの服は酷い有様だ。衣類はところどころ綻びが出来ており、シャツも血で染まってしまっている。もちろんクラウスの血ではない、全て返り血だ。なまおはいないと思っていたから、帰ってからシャワーを浴びようと思っていたというのにまさか久方ぶりの恋人の前でこのような格好を晒すなんて!
 しどろもどろになるクラウスとは裏腹になまおは上から下まで値踏みするかのようにじろじろと眺める。
「確かにすごいことになってるな、おまけに臭いもひどい」
「っ……すぐに浴室へっ」
 これ以上なまおに醜態を晒す訳にはいかないとすぐさま浴室へ向かおうとする。しかし、なまおの手がクラウスを引き留めた。
「おいおいせっかくの再会なのに俺を置いていくのか?」
「しかしこのような格好をこれ以上君の前で晒すわけには」
 血臭が酷いのであればなまおの傍にいるべきではない、なのになまおはクラウスの腕を掴んだまま離そうとしない。振り払うなどできるはずもなく、どうしたらいいか反応に困っているクラウスになまおが笑いかける。
「バカだな、そんな格好最初に出会ったときの方が酷かったろ」
「む、そうだったろうか」
「そうだよ、血の眷属に囲われてた俺の前に現れたお前どうだった? 頭から全身返り血を浴びてるくせに真っ先に汚れた眼鏡を拭いてお前のせいで血を浴びた俺に『失礼、怪我はないかね?』なんて暢気に聞いてきたあのときのお前に比べたら全然マシなほうだろ」
「うぐっ」
 確かにあのときに比べればマシなのかもしれないが、あのときはまさかこのような関係になるとは思ってもみなかったからああした行動を取れた。それにあれはあれ、それはそれ。やはり恋人の前では格好をつけたいのが男の性といえる。
 そんな思いを汲み取ってもらいたくて言葉にしようとしたらなまおの手がクラウスの頬を包み込んだ。なまおの両手によって固定され、視界がなまおで埋まる。
「そんなに浴びたいなら、俺も一緒に連れてってくれよ」
「? もしやまだ入っていないのかね?」
「バカ、もう先に入ってるよ」
「ならば入る必要は」
「後ろの準備も全部済んであるが、クラウスと一緒に入りたい」
 ここまでいえば分かるだろう?
 なまおの口元が美しい弧を描く。先ほどまでのあっけらかんとしたものではない、クラウスの情欲を引きだそうと。その微笑から目が離せず、ごくりと喉仏が上下に動く。
「……その、久しぶりだから」
「明日はオフなんだろ、お前のことだから疲れすぎると寝れない質なんだから一発出してスッキリさせてから寝りゃあいい」
「しかし」
「クーラーウースー」
 躊躇うクラウスを咎めると首を傾けた。湯上がりで赤みが差した肌。そこから滴から首筋をなぞって流れていき、鎖骨の窪みへと入り込む。目の前でごちそうを見せつけられ、クラウスは耐えきれず空腹の獣となって呻き声を上げる。必死に我慢するクラウスに対し、なまおは自ら止めを差した。
「出血大サービスだ、今夜はたくさん噛んでいいぞ」
 カチリ。脳の奥で錠が開く音が聞こえた。もはや躊躇う理由などない。
 差し出された喉に牙を突き立てたい衝動をなんとか抑え込み、なまおの両手を頬から外すと軽々となまおを横抱きした。
「うおっ」
「ギルベルト」
「着替え及びローションなど全て浴室にご用意しております」
「承知した」
 ならば向かうのみとずかずかと長い廊下を大股で歩く。移動中、大人しく抱かれたままのなまおにクラウスは問いかけた。
「ここにはいつまでいるのだね」
「うーん、来週までかな」
「ならば来週まで君をこの家から出さないでおこう」
「えっ」
 鼻歌を歌うほどご機嫌だったなまおの顔が一気に青褪める。カクカクとまるで油が切れかかった機会のようにクラウスを見上げる。
「え、ええとクラウスさん……?」
「私は3ヶ月と23日もの間、君に待てを強いられていた」
 ここまでいえば分かるだろう?
 先ほどなまおが口にした台詞をそっくりそのまま返す。それはクラウスなりの宣告だ。なまおはそのまま石の如く固まったが数秒置いてからすっと目を閉じると胸の前で十字を切る。それ以上なにも言い返さなくなったなまおにクラウスはほくそ笑む。今夜は戦闘により未だ高ぶりが収まっていない。
 なまおには悪いが、今晩はーーいや、来週まではベッドの住人となってもらう。
「や、優しくしてね……?」
「善処はするが、いまの私は疲れているので加減できるか怪しい。なので先に謝っておこう、愛しているなまお」
「謝ってねぇだろそれ! 俺も愛してるよバーカ!」
 この廊下の先にある浴室まで、あと数メートル。
 クラウスの足取りも心は先ほどに比べて嘘のように軽やかであった。


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