企画小説 | ナノ


ひとりでも大丈夫だと思ったの。掃除や洗濯も、料理だってきちんと出来るし、家賃だって自分で払える。猫だって養っていけるし、電球を取り替えることだってひとりでも大丈夫。だから、あなたがいなくても、わたしは大丈夫だって思ってた。
事の発端は少し前に遡る。大抵の問題がそうであるように、最初は本当に些細なことだった。


「残業? 帰ってこれない…そっか」
食卓に並べたばかりの、彼とわたしの二人分の夕食。彼の大好きなワインも添えて、色鮮やかな盛り付けになるように気をつけた。そんなちっぽけな努力が、本人からの電話一本だけで霞んで見える気がした。
「ごめんね、上司が急に…」と言葉を濁らせる彼、シャルナークに「いいよ、大変なのわかってるし。仕事、応援してる」と声音が沈まないように、腹部に力をいれる。じゃあ、またね。
彼の分の夕食はタッパーに移し、しっかりと蓋をしてから冷蔵庫へしまった。なんとなく味気のない食卓にぽつりと座って夕食を食べた。
飼い猫が、にゃー、とちいさく鳴いた。

翌日もシャルナークは帰って来なかった。電話でまた、ごめんねと声を聞く度に仕事だからしょうがないよと言って通話を切る。その翌日も、そのまた翌日も。彼は帰って来なかった。
彼が何の仕事をしているのか、正確なことは知らない。情報関連の仕事だよと彼が前に言っていたことだけ覚えている。彼の部屋には彼がいる時以外に立ち入らない、それが暗黙の了解になっていた。
「しょうがないよね、仕事だもんねー」
白い飼い猫の頭を撫でてやる。するすると擦り寄ってきて、もっと撫でろとせがまれているようだ。にゃあ。にゃあ。手触りのいい白い毛を撫でて、やわらかい四肢を抱き上げた。猫はおとなしくわたしの腕に収まる。
「拗ねない、拗ねない」
仕事相手に不毛だ。それに構ってもらえないからって喚くような、見苦しい女にはなりたくなかった。
だから、シャルナークに釣り合うくらい強くなれたら隣にいられると思っていた。


「もしもし…シャル? ごめんね、残った仕事しなきゃいけなくて…。今度埋め合わせするね…ごめん」
休みがとれたからとシャルが家に行ってもいいか、珍しく彼からメールをくれたのに。同僚のミスで休日出勤することになってしまった。
…会えない日を指折数えることも辞めてから、何日経っただろうか。ちょっとした仕返しという甘いオマケつきで、自信もついていたのだと、思う。


「シャル。わたし、ひとりでも大丈夫。淋しくないよ」
ある時、電話口で吐き出した言葉に、どうしようもない嘘を孕んでいた言葉にシャルナークは「そう」とだけ返事をした。長い沈黙に耐えきれず、通話を切ったのはわたしだった。



ほら、だからひとりで電球だって取り替えられると思ってたの。
まさかバランスを崩して椅子ごとひっくり返るだなんて、そんな馬鹿なへまをするだなんて思ってなかった。ひとりでも大丈夫って過信があった。

電球を取り替えようと椅子に立って手を伸ばす。ぐらりと揺れた視界。バランスを崩して、全身がひやりとする浮遊感に一瞬包まれる。あ、落ちる。重力のままに背中からフローリングに落下した。ドスン! と背中や腰を打ち付けて悶絶してしまう。痛い。
何事かと飼い猫がにゃーと鳴きながら寄ってきた。
「…ぃったぁ〜……っ椅子から落ちるなんて、何年ぶりかなぁ…」
落ちるときに、景色がスローモーションに見えた。馬鹿だなぁと笑いながら立ち上がろうとすると、腰のあたりに電流が流れるような痛みがはしり悲鳴をあげる。痛みに耐えきれなくて起き上がろうとした体勢から仰向けになろうとした、ビリリ、と電撃のような痛みに再び襲われてぎゃっと悲鳴をあげた。
(なにこれ?! 転んだときに変なとこぶつけた…?)
嫌な汗が出る感覚と心臓が激しく脈打つ音に、また動いたらあの痛みがはしるのかと思うと荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
どうしよう。骨、折れたのかな。転倒して尾てい骨とか、わりと簡単に折れるって誰かが言ってた。いやでも、もしかしたら骨盤にヒビとか…?
(大事になってたらどうしよ、腰って、神経とか集まってるし…)
どうにか、そっと起き上がろうにも腰をあげようとする瞬間に激痛に襲われる。その度、堪らない痛みに息をのむ。それでも誰かに来てもらわなければと思い、携帯電話を置いたソファーまで、慎重にフローリングを這う。そんなわたしを横目に猫は大きな欠伸をした。
「ちょっともー…携帯くらい持ってきて……」
今まで感じたことのない痛みに涙が滲む。猫の手も借りたいとはまさにこのことだが、そんなことも言ってられない。自力で何とかしてみせる。そう、自分ひとりでも。
…大丈夫だと思ったのに、やっぱり声が聞きたくて携帯電話にたどりついたとき、履歴から電話をかけたのはシャルナークにだった。
『…ピーっという発信音の後に、メッセージをお願いします』
しかし、もう聞きなれた留守電サービスへの案内の声に繋げられ、泣きたくなった。発信音が鳴る前にもうどうでもよくなってそのまま後ろに携帯電話を放り投げる。ソファーに上体をもたれ、腕を投げ出した。
「い、た…痛い」
じんじんと腰の下辺りが痛い。自分でも情けないと思う声がひっきりなしに出てくる。洟水までたれてくるものだから、ずずっとすする。これは痛いからだ。決してシャルナークがいないからじゃない。それなのに。
「……っ肝心な時にいてくれない、じゃない。助けてほしい時に…助けてくれないじゃない…助けて…痛いよ…シャルのばかー」
猫が、なんの気も知らずにわたしの後ろの方でにゃあと鳴いて、わたしに擦り寄ってきた。
「…っ救急車、呼ぼう……っい、たた」
気晴らしに寄ってきた猫をそっと撫でてから、携帯電話をどこにやったのか視線を滑らせる。あれ、どこいった。ない。
「ちょっと…携帯…?!」
急に動こうとしてしまってビリリと痛みに襲われる。痛い。もう嫌だ。



彼女からよくわからない留守電が入っていた。なにより音が遠い。留守電メッセージの音量を最大にして再生してから目を丸くした。
何やら滑るような音とぶつかる音。それからにゃあ、という彼女の飼う猫の鳴き声からメッセージは始まる。
『……っ肝心な時にいてくれない、じゃない。助けてほしい時に…助けてくれないじゃない…助けて…痛いよ…シャルのばかー』
にゃあ。猫の鳴き声でメッセージは途切れた。
どうやら彼女からの珍しい留守電メッセージはSOSの連絡だったようだ。
「団長! オレちょっと行ってくるから」
「ああ、仕事を増やして悪かったな」
一度だけ、団長の前で彼女からの電話を取ってしまった時がある。それ以来団長はたまに何かを含んだ笑みでオレのことを見送るのだ。悪趣味にもほどがあると思う。



ッポーン。ピンポーン。ピンポーン。
何故か急かすように鳴ったインターホンに、来訪者にこの状況を伝えなければと口を開こうとするが、何と言えばいいのかわからなくて口をぱくぱくと開閉する。誰でもいいから早く。
仰向けの方が楽だったから、先ほどから仰向けになっていた。さすがにここから玄関まで行くのは、わたしには無理だ。そして玄関は施錠してあるから…。
「あっ…どなたか存じませんが、緊急事態なんですーっ! った……救急車、呼んでくださー…いっぅ…いたた…」
ガチャガチャとドアノブを回す音、鍵がかかっているか確認する音の後に、何故か鍵を解錠するような音がちいさく聞こえてきた。それに次いで、わたしの名前を呼ぶ声。まさか。
「は? なにこれどうしたの?!」
ひょっこりと顔を出したのはシャルナークだった。
救世主の登場に思わず堪えていたものが堰を切ったように溢れ出して止まらない。ぼろぼろと仰向けで泣くわたしに、シャルは事態を把握できていないので困惑しているようだった。
「電球を替えようとして、椅子から落ちたの…。腰のあたりがすごく痛くて…たすけて」
ああ、そういうことかと合点がいったらしいシャルナークがわたしを慎重に、そっと抱き上げようとして、叫ぶ。
「ぃっ…だめ、いたいっ」
「しっかり支えてあげるから、掴まって。…立てそう?」
両手をシャルの首にまわし、そぅっと上体を起こしていく。腰を曲げないように気を遣いながら、慎重に。シャルが太ももの下あたりに片手を差し込んで、ゆっくりと立ち上がる。
「あ、ありがと、シャルナーク…」
ようやく立ち上がれてお礼を言うと間近の顔が少し顰めっ面になった。
「お礼は病院行って問題がなかったらでしょ」
猫がにゃあ、と暢気な鳴き声をあげた。


木曜日の今日は午前中のみの診療だったが、急患で駆け込んだ病院でレントゲンを撮ってもらった結果、なんと打撲のみだった。医師に安静にしていればすぐに痛みは治まっていきますよ、とヒビもはいっておらず騒いだ割には軽傷で良かった。
良かったのだが。微妙な表情のシャルナークから地味に小言をもらう羽目になった。
「電球もひとりで替えられないなんてねー」
「…別に、今回のは事故だから、」
「ひとりで大丈夫って言ってたのに?」
気まずくて顔を明後日の方へ向けていたのに、彼のその一言で思わず向き直った。わたしは座るとまだ痛みがあるから立っているが、彼は待合室のソファーに腰掛けている。
「今回は打撲で済んだからまだ良かったけど、折れてたりしたらどうするの」
診察が終わって、受付の看護師に名前を呼ばれる。シャルに待っててと言われて何故か言うことを聞いてしまった。
彼の言葉を心の中で反芻する。折れてたりしたら。…きっと、今日みたいに床を這うなんて出来ないだろうが。わたしは。
「帰ろう」
差し出された手に恐る恐る掴まる。歩くのが辛そうだからと腕をとられ、二人で並んで家路を辿った。

「あのさ」
帰り道、終始無言だったシャルが口を開く。
「ナマエがひとりのとき、オレもひとりなんだよ」
「…」
「オレはひとりじゃ駄目なんだけど?」
「…シャル」
そんなことを言えるのは、シャルナークが強いからだ。そんなこと言われたら、わたしはまた。
「何」
「…ごめんなさい」
「…許してあげない」
ばかって言われたし。
…珍しく拗ねているらしい彼の言葉にちょっとだけ微笑ってしまった。彼はいつもわたしより一枚も二枚も上手だ。
どうやら留守電で駆けつけてきてくれた彼への労いに、「プリン作ったんだけど、食べる?」と訊けば「食べる」と即答してくれる。…わたし、ひとりで頑張りすぎたのかもしれない。
間近で揺れる金色をちらっと盗み見、真っ直ぐ前を向いて、名前を呼んだ。
それから囁く声音で呟く。たった一言を。
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