企画小説 | ナノ


私は夢を見たのだ。あの真っ黒な髪と真っ黒な目を持つ男の子が、世界の中心に立つ夢を。
それはきっと何よりも無垢で、それはきっと何よりもあざとい。だから私は、彼にどこまでも心酔する。

* * *

「ナマエ、あの本を。」

帰ってきて「久しぶり」すら言わずにそう言った彼へと顔を上げる。
オールバックにした黒髪と闇の底から掬い上げたような黒い瞳。クロロを見るのは49日ぶりだというのに、彼は何日ぶりの再会だろうとまったく興味がないのだろう。
逆十字が背中に入ったコートを脱ぎカウンターに置いて、ようやくクロロの目が私を映す。

『あの本、分かる、思う?』

口を動かせない私は、右手をかざして指先にオーラの文字を作り上げる。
'凝'をして一瞬でそれを読み取ったクロロは、わずかに笑った。

「お前なら。」

私からクロロに向けるのはひたすらな陶酔にも近い心酔であるけれど、彼が向けてくるものは違う。
信頼とも違うし、信用とも違う。愛情とも同情とも親愛とも違う。クロロが私に向ける淡白なくせに強いそれを、どう表すべきなのか私は未だに分からずにいる。
大袈裟な仕草で肩を竦めてみせてから、私は指先のオーラ文字を消して、自身の念能力を発動した。
"箱庭図書館(アスタロト・スケープゴート)"
広げた左手の掌の上に、ホログラムのようにオーラで立体的な箱庭が具現化される。外側から見れば石造りの円塔だが、聳え立つ塔の先端にある円錐形の帽子を外して中を見れば、三つの螺旋階段が地上から最上部までを貫く。その階段を取り巻くように切れ目のない本棚が積み重なっていた。
右手の指先で箱庭の螺旋階段の一つに触れ引き出すような仕草をすると、触れた箇所が箱庭の上に拡大された立体映像で浮かび上がる。さらにその立体映像を右手の指先で広げるように触れていけば、階段を囲う本棚が拡大され、並ぶ本の背表紙が見えてくる。
探していたその本の近くにある金属性の分類ラベルが「C0472」であることを確認すると、右手の掌を左手の掌に立体映像の上から押し付けるようにして掌を合わせ、念を解除した。重なった両手の掌の合間でオーラがたゆたい消えて元通り何もなくなると、腰掛けていたロッキングチェアから立ち上がる。
いつものように私の念能力を黙って見守っていたクロロの袖を引く。手を握ることも出来るけれど、体温を失くしてしまった私にはクロロの手は熱すぎて触りにくかった。最初の頃は「袖が伸びる」と袖を引かれることに憮然としていたクロロも、今では何も言わなくなった。

念能力で見た塔の立体映像は、私たちのいるこの場所そのものである。
今いる小さな部屋は、塔の地上にある唯一の入り口であり出口だ。三つの扉以外には、座る度に軋むロッキングチェアとカウンターしかない小さな部屋で、カウンターの向かいの扉が出入り口になる。カウンターの奥に並ぶ二つの扉の一つは私のプライベートルームだ。クロロの袖を引いて歩き出した私は、並ぶ扉のもう一つの方を開けた。
どれも同じに見える三つの螺旋階段が集まるホールで、私は迷いなく一つの階段へと足を向ける。階段はクロロと並ぶには幅が狭いので、上る直前に彼の袖を放した。

一本の支柱に絡まるように続く螺旋階段は、地上からは最上部まで見通すことができない。アイアン製の階段を一歩一歩と上るたび、靴底が高い音を鳴らす。規則正しく二人分の足音を響かせ、それ以外に音はない。
十分ほど上り続けて、私はようやく一度足を止めた。階段を囲う本棚の棚板部分には、定期的に金属製の小さなラベルが取り付けられている。この小さなラベルが、この奇妙な塔の中にある書物を分類する目安だ。
本棚の棚板に付けられた「C0472」の金属ラベルを目の端で確認し、そこから再び、今度はゆっくりと階段を上り始める。本の背表紙を確認しながら、さっき念能力で見た棚の背表紙の色や背丈、並びを思い出して辿るように。

「昨日、アイジエン大陸の北の方で初雪が観測されたらしい。」

ふいに、後ろをついてくるクロロの声が靴音の合間を縫って届いた。階段を上りながら、私はこくりと頷く。

「今年は各地で冬が長くなるそうだ。」

前を見たままで、さらにこくりと頷く。

「望みは今も変わらないか。」

一息つくように足を止めた私は、後ろにいるクロロを振り返り、小さく笑みを返す。
クロロは聞こえるか聞こえないかの声で「そうか」と呟いた。

視線を正面へと戻し少し階段を上ったところで、さっき念能力を発動して見た立体映像と同じ景色が目の前に広がる。立体映像で確認したのと同じ背表紙の並びの中から、一冊の本へと手を伸ばす。
本棚と階段の位置によっては、螺旋階段の手すりに掴まって爪先立ちをしないと囲う本棚に手が届かない。その一冊は、いつもそうやって爪先立ちをしないと手が届かず、クロロはそれを分かっているかのように、私の背後から腰へと腕を回して支えてくれた。二人の素肌の合間に衣服の布があっても、クロロの体温は私の肌を焦がすようだ。

紺色の布張りの本はとても分厚くて重たい。落とさぬよう気をつけながら手に取ると、私の腰に巻きついていたクロロの腕はすぐに解ける。体勢を整えながら色褪せた表紙を確認し、一段下にいたクロロに両手で差し出した。
手渡した本を確認したクロロが、今度は先に立って螺旋階段を下りていく。両手で持たないと重たい本は、クロロにとっては片手でも問題ないようだ。クロロの後頭部をじっと見つめながら私も追いかけるように下りて、螺旋階段の合間を再び二人の足音だけが響き続けた。
やっと地上まで辿り着き、最初にいた小さな部屋に戻る。クロロは何も言わないまま並ぶもう一つのドアを開けて、隣の部屋に入っていった。そこは私のプライベートルームであるというのに、この人はちっとも遠慮をしない。エンドテーブル、それに一人掛けのアームチェアとお揃いのオットマン、あとはベッドとチェストだけしかない部屋で、アームチェアをクロロに先に取られてしまった。後を追って自分の部屋に入った私は仕方なく、本来は足を乗せる用のオットマンを跨ぐように座る。
私が座るのを待ってから、クロロは自分の足の上で静かに紺色の本を開いた。

クロロが気まぐれに開くその本は、文字は一切載っていない、風景の写真集である。
太陽の光、曇り空、雨粒、深い森の木々、色とりどりの花、雪景色、暗い山の影、虹のかかる桟橋、闇に浮かぶ月、そして海。
世界のたくさんの顔がいくつもいくつも切り取られていた。

パラパラとページを捲ったクロロが手を止める。
私は黙ったままで目を閉じる。

「細い下弦の月が静寂を支配している。」

クロロが語り出した。目を閉じた私には見えないが、きっとクロロは開いたそのページの写真をじっと見つめ続けているのだろう。

「静寂の下に敷かれているのは結晶が見えそうなほどに冷たく硬い雪の層だ。」

抑揚もなく、ただ淡々と紡がれるだけのクロロの声と言葉に耳を傾けた。
感情のない声はやわらかくもかたくもなくて、温もりも冷たさもない。でもその音は私の奥深くに深々と降り積もるのだ。
私が失くしてしまった言葉たちがクロロの形の良い唇から零れ落ちていく。
何度聞いても何度読んでも、言葉はもう私の中に残らない。一瞬浮かんでは消える刹那のものになってしまった。私の体はまるで砂時計のガラスのようで、言葉たちはその中をサラサラと落ちていく砂のようなものだ。だけど私の中を通っていく言葉はとても心地良い。留まって残らなくても、通った軌跡は分かる。

クロロの目に映る文字のない一枚の写真を、細かく深くクロロの言葉で表現する。その言葉と声を、私はただ目を閉じて自分の中に通していきながら、懐かしい夢を想った。


私は昔、怖くなるほどに美しい男の夢を見た。それはまだ背も伸びきってない歳の頃で、流星街の顔馴染みの子たちが盗賊団を成そうとしていた頃。
すでに彼らの中心にいたクロロが、世界の中心に立つ夢だ。
世界の中心に立つ夢といっても、それはとても曖昧な夢で、彼がどこかの国の中心人物になっているとか、大衆に賞賛され敬われているとか、そんな類のものではない。ただ、夢に見た彼はもう大人で、足元にはいくつも山を成すほどの数え切れない屍があって、その屍を踏みつけて立つクロロは月のない夜空を見上げている。それだけの夢。
たったそれだけの夢だというのに、私はその夢から泣きながら目を覚まし、戦慄し、心酔した。

―――この夢は正夢になる。
理由も理屈もなくそう確信したから、私は直後に自分の口を針と糸で縫いつけた。
夢は人に話すと正夢にならなくなると聞いていたので、うっかりとでも話さぬように。
そして'発'が未完成だった念の修行に努め、彼の役に立つためだけに念能力"箱庭図書館(アスタロト・スケープゴート)"を得た。

ひっそりと作り上げた念空間は、塔を模したクロロ専用の無限蔵の図書館だ。
私以外にはクロロだけが出入りでき、クロロだけが書物の出し入れをできる。そして、その書物を管理するのは司書の私である。
本当は初めから知っていた。クロロが読んだ本を残す趣味がないことを。だけど私はあえて彼のためにこの念能力を極めていった。彼のため彼のためと言いながら、本当にこの場所が必要だったのは私自身なのだろう。
最初の頃は出入りを繰り返していた私は、いつしかここに篭もるようになった。そうして書物を手際よく整然と管理し、表向きだけでもクロロにとって必要な図書館であるために、念能力の質の向上と引き換えに私自身のいろんなものを葬った。

クロロだけの図書館で、いくつもの私の欠片が音も立てずにひっそりと密葬されていく。
覚悟を決めて声を。心を捧げて体温を。司書として相応しく最適であるために摂取排泄機能を。欠けたことで停止しそうな肉体を繋ぎとめ、クロロと最後まであるために言葉たちを。
それはとても心地良くて、最高に誇らしくて、私はなにひとつも後悔などしていないのだ。

だけどクロロは時々、私に外に出ないかと声をかけてくる。
いつしか、持ち込んだいくつかの風景写真集を私に見せては、言葉を葬っている私にわざわざ言葉で伝えてくるようになった。読んでも、聞いても、私の中に残らないというのに、クロロは気まぐれにそれを続けている。


語り続けるクロロの声と言葉を聞きながら、今も少しずつ失い続けている言葉が、あとどのくらい残されているのかをぼんやりと想う。数えることはできるから、数字はまだ失っていないはずだ。

私はあといくつ、ここで葬るのだろう。
私はあとなにを、ここで葬るのだろう。
最後は、私のイカレてしまった肉体も、ここで葬るのだろうか。

語っていたクロロの声がふいに止んだので、閉じていた目を開ける。顔を向ければ、足の上に重たい本を開いたままで、クロロの黒い双眸が私を見つめていた。闇の底から掬い上げたような黒い瞳が何か言いたげに揺らいだ気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
そっと彼に笑みを向け、微かに引き攣った口の縫い傷を指先で辿った。

さよなら、私の声。
さよなら、やさしい言葉たち。
さよなら、おろかな私。

そして巡る月曜日―――。

繰り返す永遠の7日間に、始まりはなく、きっと、終わりもない。
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