企画小説 | ナノ


「よくわからないな。そんなに熱帯魚が良いのか?」
 わたしが小さく頷くと、彼はふうんと言った。猫さんみたいだった。あの時の熱帯魚みたいに、わたしも死んだら猫さんに食べられちゃうのかもしれない。亡骸も残らずに血と肉になって、それでも猫さんの身体で生きつづけるのだとしたら。「わたし、あとどのくらい、いきられるの。」本望よ。わたしは昔と変わらずふうんと言う。天井は白い。
「死ぬまでずっとだ。ナマエはそればっかり聞くけど、そんなに俺のことが信じられないか。」
 そんなことはないけれど、でも一年かあ。短いね。瞳を閉じたら瞼の裏にもあなたがいて、わたしは少しだけ幸せな気分になる。ふわりふわりと浮かびそうなくらいに身体が軽く感じて、瞼の裏のあなたをしっかりと焼きつけた。ゆっくりと瞳に黒が泳ぎこんでくる。ああ、浸食される、瞳、瞼の裏、あなた。「わすれたくないよ、あなた、とてもきれい、なのに。」微笑ったのはあなただ。ふうんと言って微笑ったのはわたしじゃなくてあなた。天井がえらく暗い。黒い。

 いつのまにか掴めなくなった。正しくは、見えなくなった。瞼に触れると、見えた時と同じ感触があるし、とても変な気分だ。ただ音だけが敏感になって、足音も聞き分けられるようになったけど、ここには耳を澄ますほど綺麗な音はない。家に帰りたい。
 どれくらい我慢したかわからないけど、わからないくらい我慢したらクロロが迎えにきてくれた。「帰ろうか。」手を取った彼の声があまりにも綺麗で、綺麗だとわたしは言った。あなたこんなにすてきな声をしていたのねとわたしは言った。返事はなかった。

 ごぽっ。夢の中でわたしは鮮やかな熱帯魚と一緒だった。海底から空を見上げたら、恐ろしいくらい綺麗だ。何か話そうとすると、ごぽっと音がする。ごぽっ。あなたはどこ。ごぽっ。熱帯魚。猫さん。言い表しようのない不安と、途轍もない澄んだ水がわたしを襲う。まだ水面は明るい、けれど掴めない。もう二度と掴めないのだ。手を伸ばしたら、夢が覚めた。

「ナマエ、水曜日だ。」
 わたしが今掴むことができるのは、あなたの手とベッドシーツくらい。何もかも冷たい。綺麗なんかじゃない。でもあの鮮やかな熱帯魚と空と光は、夢の中だけの宝物なのかもしれない。
 わたしたちが考えているよりも世界は単純で、世界は脆かった。光を失ったのに恐ろしくなかった。ただ覚えている光が眩しいくらい綺麗なだけだ。

「朝日は綺麗?」
「綺麗だ。今日もいい天気で鳥が飛んでる。」
「熱帯魚は元気?」
「元気さ、餌をあげたらたくさん食べていたよ。」
 ごぽっ。まるで夢の中みたいに、そんな音が聞こえる。どうしてだろう。手を伸ばしたら、あなたの手が触れた。冷たいし決して綺麗なんかじゃないけど、愛おしい手だと思う。なんだ、まだ掴めるじゃないか。わたしは微笑った。


 室内では水臭い匂いがしている。あまりにもすごい匂いで鼻がもげてしまいそうなくらいだ。もうとっくの昔に死んだ熱帯魚がごろごろ転がっている。俺は大事にひとつひとつ抱き上げて、スコップを持って公園に向かった。公園の端にスコップで穴を掘ると、彼女の大事にしていた熱帯魚をきちんと埋めた。明日には猫が掘り起こしているだろうか。ふうんと誰かが言った。大丈夫だ、嫌な水曜日は俺がぜんぶ攫ってあげる。ぜんぶ代わってあげる。光はぜんぶ奪ってあげる。俺は瞼の裏でナマエを思った。……
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