一人だけの夕暮れは、教室の引き戸がこれからわたしに襲いくる別れを悲しむように大きく鳴いたことで終わりを迎えた。わたしは何も言わずにそこから現れる人物を眺める。少しの緊張と恐怖はわたしの心臓に集まって速い動きに変わってゆく。引き戸まで届く濃い色をした西日がこちらを覗く白い頭を燃やした。火の粉が白髪に当たって陽の欠片のような輝きが生まれるのがわたしの目に飛び込んでくる。わたしはその光を逃すことのないように、緊張を手のひらに丸め込んで、まばたきをするたびに弾けるそれを自分の目に埋めこもうと必死になった。その行動は白い髪の教師が現れてからそう経たないうちに始まって、ほんの一瞬でさよならをする。

「うオ」

 ようやっとわたしを認識した先生は馬鹿みたいな声を出した。何時ものように煙草を蒸かし、綺麗な唇にそれを挟んだままの少々だらしのなく見える格好だったので、先生の声はほとんど鼻で出したようなモノだったのだ。そのせいで普段から緩みきっている先生の雰囲気はより一層気だるさを醸し出す。わたしはこれまでとは違い、椅子に浅く腰かけ姿勢を正すことはなかった。首は少し前のめりで椅子の背に背中の半分ほどをくっつける。それはわたしがその人物と対等になりつつあることを示していた。

「忘れ物取りに来たんだろ」
「はい」
「見つかんねェの?」
「んーそういうわけではないんですけど」
「おいおいまさかアレか、おセンチにでもなってたのか」
「先生、ふっるいですよそれ。ナウでヤングなわたしたちに通じるとでも思ったんですか」
「名字、おまえも古いな」

 先生はスリッパの裏をすり減らしながらのそのそと歩いてきて、わたしが座っている席から机一つ間を開けたところに落ち着いた。ぺちっと音を鳴らして脇に挟んでいた紙の束を机に放り、息を吐く。また光が生まれたが、それは弾けることなく白い髪に絡みついてから天井近くに登ってゆく。強烈なそれがわたしの方にもやってきて肺に入った。よくもまあこんなものを毎日飽きず吸ってられるもんだなあと、しみじみ感じる。
 ここに来てからの先生といえば、ただぼぉうっとしてたまに目線を下に向け紙を眺めるだけ。あんがい、おセンチになっているのは先生の方だったりするのかもしれない。煙草の先がどんどん焼けてぽろぽろ落ちて行くのに気にもとめずにいる。

「日が暮れたら帰れよ。おまえはもう、うちの生徒じゃねぇんだ」

 ずっと無言だった先生が突然そんな事言うから、わたしの目から液体がぽろぽろ落ちて行きそうになった。煙草の先みたいに軽くはなくて、ひとつひとつが重い。ぼたぼた垂れてゆく。そのひとつひとつが、わたしの思いだった。
 帰りたくないなあと思ってしまった。まともな授業なんてほとんどしてくれなかったこの教師と、まともじゃないクラスメイトに振り回されてばかりだったけれど、たぶん、この先何十年と生きたとしてもこんなにも記憶に残る馬鹿な人たちには出会えないんだろう。いいことなんてひとっつもなかったのになあ。あったのは馬鹿を極めた騒がしさだけだ。
 おセンチじゃねえかと、先生が少しだけ笑っている。まだまだ子供だなと言わんばかりの態度だった。そうだ、わたしはまだ子供だ。きっと対等になんてこれっぽっちもなっていない。背伸びしても、しなくても、見える景色は先生とは違う。でも、わたしから見えているものはいつも同じなのだ。
 わたしからは、ずっと先生が見えている。
 わたしもみんなとそう変わらないばかやろうだ。こんな教師なんて到底呼べそうにもない男、どうしてだ畜生。朝も昼も関係なく眠そうな眼も、目立つ真っ白なくせっ毛頭も、ずっと見てきた。この、どうしようもなく想い出を垂れ流すわたしの両眼で。

「……けぇるか」

 日が暮れる。教室は自然と電気をつけたいと思ってしまうくらいの暗さだった。そんな中でも先生の髪はぼんやりとした白さを保ったままだった。先生は紙を脇に挟んで、煙草を椅子の脚に擦りつけ白衣のポケットに突っ込む。大雑把すぎる先生はけっきょく、持ってきた紙に手をつけずじまいだったようだ。わたしも、けっきょく忘れ物を持って帰ることはできそうにないと思った。制服の袖を引っ張っり目の淵を拭って立ち上がる。

 一つの終わりを知るわたしたちと違って、先生は先生のままだった。卒業式でも、そのあとのホームルームでも、わたしたちに祝いの言葉を言うことはなかった。そういう素振りすら見せない。ああ、こいつは最期の最期まで坂田銀八という教師なんだと、そう思った。それはわたしなりの諦めだと考えていたが、実はそうでもなかったらしい。こうして、また学校に舞い戻ってきてしまった。

 誰もいない廊下を歩いた。先生と二人ぼっち。静かな学校はふしぎだ。いつも、この学校にいるあいだは誰かの声が響いて頭が痛いくらいだったから、不気味な雰囲気さえ感じてしまう。ふと、幽霊の類いが苦手な先生は今のこの状況に怖がったりしていないかと興味が湧いた。でも先生を眺めていて、なんともないのだろうと思った。一度だってこっちを見ることはないし、女の子みたいに震えることもない。去年やった肝試し、先生は怖がってたしわたしも怖かった。
 とん、とん。わたしの足音。
 さっ、さっ。先生の足音。
 一歩一歩を確実に進めているはずなのに、わたしのこころというものは後ろへと進んでばかりだ。学校を出る頃にはわたしの中のありとあらゆる水分が出て行って、わたしは皮だけになっているかもしれない。三月の風に揺られる、皮。想像して、幽霊よりも怖いと思った。「どうした、怖いのか」先生は楽しそうに目を光らせて笑っていた。どうして解ったのだろう。恥ずかしくなってわたしも笑った。「まさか」ほんとうは強がっているだけだ。
 階段を降りて玄関口の靴箱までたどり着く。名前が書いてあったシールはもうないと言うのに迷うことなくそこまで行ける。ローファーを履く時、できるだけ下を向かないようにした。でもすぐに目元は熱くなって、やっぱりだめだなあと思う。むしゃくしゃしてシューズを適当に鞄に突っ込んだ。先生が「おまえガサツすぎるだろ」なんて言ったけれど誰に似たかわかっているのだろうか。わたしはすぐに「履けました」と言った。笑ってしまいそうになるくらい震えていた。

「泣くなよ」
「べつに」
「泣いてんじゃん」

 鼻をすするとラジオの雑音みたいな音が鳴った。外はまだまだ寒い。校門前の桜の木がさわさわ揺れてるのが遠くからでも解った。散るものなんてないけれど。桜はすごくタイミングが悪い植物だと思う。卒業式には咲いてないし、入学式の時期になるともう散ってる。桜、咲かなかったですねえ。そう言ったわたしを他所に、先生はまた煙草を吸い始めた。歩きながら器用なことだ。煙草の先は火が付くと少しの間だけ赤くなる。臭いは嫌だけれど、その光は好きだ。先生の眼の色によく似てる。先生のはもう少し鈍いが。
 しばらくしてから先生は「そうだな」と言った。息を吐く。端の方に明るさの残る空へ先生の欠片が散って行った。「でもな、俺が卒業した時には咲いてた」先生は授業中にジャンプを読む時よりも静かに話した。なんと答えればいいかわからなかった。どうして先生がそんなにも遠くを見ているのか、子供のわたしにはわからなかった。「泣くな」二度目にそう言われた時、わたしたちは桜の木の前にいた。校舎からここまで、あっという間だった。

「悲しいことなんてなんもねえんだ」

 ほんとうに、あっという間だ。
 でも先生、違うんですよ。未練はあるけれど悲しくはないんですよ。そう言いたかったのに、わたしの口から出てきたのは何にも伝わらない短い返事だけだった。わかってんのかねえ、先生は小さく呟く。少し前に歩くことを止めたわたしと先生に冷たい空気がまとわりつき始めた。涙の後が、とても痛い。帰りたくないけれど、帰ってしまおうかと思った。先生はずっとぼんやりしていて、ただただ突っ立っているのが辛くなってきた。長引けば長引くほどにわたしの足は地に張り付き、こころは校舎へと還りゆく。
 先生といると、ずっとこのままでいたいなんてアホなことを度々考えてしまう。

「先生、わたし」

 先生が「どうした」と言ってわたしを見た。暗い赤の眼がそこに、ある。わたしは唇のあいだを少しだけ開けてすぐに閉じるのを何度か繰り返した。それは三秒にも満たなかったけれど、口の中が乾いてしかたなかった。なぜこんなにも緊張しているのか可笑しく思えて、わたしがとうとうさよならを伝えようと決心したとき、先生が変なことを言ったのだ。「桜、咲いてんじゃねえか」まさか、嘘だ。すぐに桜の枝の方を見たけれど何も咲いてなかった。それでも先生は静かに笑っている。どうしてだ。

「ちげぇよ」

 先生の角張った手が伸びてきた。突然のことでわたしは「あ」とも「う」ともつかないような、先生よりも変なことを口にした。耳の上に先生の人差し指が触れたのが解る。先生の手はわたしの髪の毛を少しだけつまんでから離れて行った。「ほら」と先生は楽しげにわたしに手を差し出してくる。そこには桜の花びらがあったけれど、それどころじゃない。呼吸が浅くなって、胸がぎゅうぎゅうと苦しい。驚きのあまりしばらく口を開けたままだったが、自分を落ち着けるためにも、そうですねと慌てずに返事をした。

「持っていけ」

 先生がつまんでいる花びらをわたしもそっとつまむ。さらさらとして柔らかい桜の花びらはわたしと先生の指の先で簡単に半分に千切れそうだ。わたしの脳ミソと正常ではない速さの心臓も千切れそうだった。頭へと昇っていく熱い血を冷ますようにふう、と息をつく。「名字」わたしを呼ぶ先生の声がとても遠くに聞こえる。またおかしなことを言われてしまうんじゃあないかとマヌケな覚悟をした。
 だが、ほんの少し待っていたが先生は何も言わなかった。「なんですか」わたしは先生を見ることがどうしてもできないが、先生はわたしを見ている、気がした。受け取った桜をじっと見つめて、わたしは再度「どうしたんですか」と問いかけた。先生からの答えが返ってくることが、とても恐ろしいことのように思えてならない。「なあ名字」はい、とすぐに応えた。先生は続ける。いつも通りのあまり抑揚のない声だ。「もう今更って感じなんだけどよォ」今度は少し間を開けてわたしはなんですと言った。すぐそこだ、すぐにくる。
 先生の、声が。

「おめでとうな」

 わたしは返事をすることがとうとうできなくなった。ずるいなあ。そんなこと言われたら、望んでたことを言われてしまったら、わたしは泣いて喜ぶしかないじゃないか。それからのわたしはみっともない泣き方をした。わたしの身体の中のどこかにあるこころから生まれる感情と途切れる声が一緒に外へ出てゆく。たまに喉につっかえて痛みを感じた。先生は「うるせえ」と言うだけだった。あまりにも優しい声だったので、この人のことが好きだなぁなんて恥ずかしいことを想ったりする。悲しくもさみしくもない。ただ、どうしようもなく好きなだけなのだ。

「もう笑ってやがる。忙しいやつだな」
「泣くなって言ってたじゃないですか」

 子供っぽくてちっぽけな感情ばかり持っているわたしではあるけれど、先生を頼りにわたしは寄り道をしながらでも進んで行ける。何かが終わらなければ新しい何かは始まらない。そんな言葉を多くの偉人が同じように残している通りに、嫌でも進むのだ。それでも、この輝かしい冬が終わって春を迎えても馬鹿な人たちの記憶は消えないままで、わたしはきっと懐かしいと思ってしまうのだろう。もしかしたら先生がくれた祝福が眩しすぎて、立ち止まって泣いてしまうかもしれない。うるさく泣いてしまうかもしれない。
 でもその時は。「ねえ、先生」また、泣くなって言ってくださいよ。すぐに、笑ってこう言ってやりますから。

「ありがとう」


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