誰かが優しく私の名前を呼ぶのを聞いた。こんな風に優しく私を呼ぶ人はいないはずだった。少なくとも、あの禍々しい夕焼けのあの日に全てを失ったはずだ。重い目蓋をこじ開けて首を動かせば見たことのない天井が目に映る。ここは一体どこなのだろう。清潔な夜着に包まれた体には包帯が巻かれていた。やや熱を持った頬には何かはっある。触れてみれば薄っぺらい何かが触れる。湿布臭い、誰かが私に的確な処置をしてくれたようだ。虚ろな目で周りを見渡せば鉄格子に囲まれてはいなかった。檻の外から出たのか、あそことは全く違う光景が広がっていた。障子の隙間から差し込む太陽の光に目が眩んだ。久しぶりに見た陽の光は容赦なく目を焼いた。思わず手で遮れば体が軋んで上手く動かなかった。起き上がった時に落ちたのか、濡れたややぬるい手拭いが床に落ちている。誰が手当てをしてくれたのか。動かない体を無理矢理叱咤し何とか布団から出た。転がるように廊下へと出れば、掃除の行き届いたこじんまりとしているが、趣の良い庭が見えた。かつてのダチュラが植えられて甘ったるい匂いに噎せ返りそうになるあの庭とは全く違っていた。小さな池と洗濯物を干す干しざおがたくさん置いてあった。きちんと剪定された樹があり、敷石が池へと続いている。苔にぐるりと囲まれて質素ではあるがセンスの良い庭をだと思った。下品極まりないあの庭とは正反対だが、ここは一体どこなのだろう。首元に触れれば食い込んでいた首輪の感覚もなかった。ただ長いこと首輪をされていたせいで、傷は残ってしまったようだ。指先が触れた皮膚の感触は他のところに比べて固く、暴れたせいもあって傷になっているのか包帯を巻かれていた。そういえば檻の中でも決して離さなかった弟たちの刀はどこにいったのだろう。あの騒ぎで落としてしまったのかと焦って動けば上手く体が動かす、歯軋りをした。音を立てたことに誰が気が付いたのか、足音を立ててこちらへと駆け寄ってきた。甲高い声と軽やかな足取りで近づいて来る影を私は知っている。
「いち兄!目が覚めたんだね、無理しちゃ駄目だよ?」
長い金髪を翻し、私よりも細い指先が触れてくる。短いスカートを翻して楽しそうに笑う顔は、私を庇って斬られた乱のものだった。青い瞳は輝き、生気を湛えて生き生きとした瞳をしている。いち兄と私を呼ぶ声はよく知っている声だった。目の前で斬られた乱の姿が鮮やかに蘇る。大門が閉まる前に飛び散った乱の血の感触も今でも覚えていた。ひっと声を出すこともできずに、黙る私の顔を乱は心配そうに見つめる。距離を詰めてくる乱の姿が酷く恐ろしいものに見えた。
「おい、乱。そんな風に近寄ったらいち兄が落ち着かないだろう。いち兄も無理して起きたら駄目だろ。」
乱を引き剥がしたのは薬研だった。紫色の瞳は穏やかな光を宿しこちらを見て笑った。いち兄、と呼ぶ声も顔も彼らと同じ。二人の私を気遣う声が責める声に聞こえた。後からいち兄と呼ぶ声が聞こえる。平野や前田の声がする度にあの部屋で無残に殺され、転がった屍が見えてしまう。死臭が漂い、私に触れる手は肉が腐り落ちて骨の剥き出しになったように見えた。
「どうして、僕達を置いて逃げたの?ひどいよ、いち兄。」
私の後ろから抱きついた五虎退の体は腐敗して、愛らしかった顔は惨いことになっている。どろりと山吹色の瞳が床に腐り落ちた。腐臭を放ちながら声は雑音が混じり上手く聞き取れないが、弟置いて逃げた私を責める声だとわかる。
「私も置いていくつもりなどなかったのだ。でも生き残ってしまった。許されることではないな。お前たちを一人にはしないから安心しなさい。」
胸から顕現させた本体を手に首元へと刃を向けた。この刀を引けば頸動脈へと突き刺さり簡単に絶命するだろう。
「薬研!一期から弟たちを引かせろ!」
細い指が私の抜き身の刀を素手で掴み、刃を伝い赤い血が滴る。頬に伝う血を見て正気に戻った。翡翠色に輝く美しい瞳は縦に瞳孔が割れて蛇のように見える。瞳は焦りと安心の色を宿していた。凛とした面差しは意志の強さを表し、素手で刀を掴んでいるというのに眉根一つ寄せずに私の様子を見つめた。この女性を私は知っているような気がした。白花色の長い髪の毛は乱れて、象牙色の肌は青白くとても焦って来たのだろう息が荒い。こんな時なのに思わず見惚れてしまった。前の主も美しくはあったが、外見だけの虚ろだった。芯の強さを感じさせる目の前の女性は内面から溢れ出る何かを感じた。女性の瞳から目を離せない。力の抜けた私から刀を奪い、女性を追ってきた三日月へと渡した。三日月は私を警戒しながら、消耗し息も絶え絶えな女性を後から支えた。崩れ落ちそうな体を支える三日月に全体重を預けているが、軽々と抱き寄せた。やはり私はこの女性を知っている。あの本丸で見ている。何故だろう、今と同じ泣きそうな顔をしていた。翡翠色の瞳にひあいの感情を乗せて私を見つめる。もしかしたら、あの女性は全てを知っているのか。
「あなたは全て見たのですか?」
あり得ないと思いながらもどこか確信を持って口にした。荒い呼吸を整えながら、彼女はおもむろに口を開いた。彼女を見るのは初めてではない。あのオークション会場で檻の外から私へと囁き掛けた女性も同じ顔をしていた。今も同じ意志の強そうな瞳を向けている。
「ごめんなさい、他意はなかったといえあなたの記憶を見てしまった。」
咄嗟に弟たちを下げたのは的確な判断だった。正気と狂気を彷徨っている今の私にとって違うとはいえど、弟たちの姿を見ることで容易く狂気へと落ちてしまう。彼女は私をあのオークション会場から救い出してくれた。何らかの力を持って私の記憶を覗いた。それの正体は全くわからなかったが、彼女は私の全てを知っている。それならこの気持ちも理解してくれるのだろう。
「私を今この場で壊してください。」
翡翠色の瞳は一瞬だけ深い憂いの色を宿し、静かに首を横に振った。
「それはできません、わたしにそれはできない。ごめんなさい、あなたの気持ちもわかります。でもそれだけは、あなたの弟たちは望んでいません。」
彼女は胸元から、艶やかな黒壇の色をした鞘に白い柄に朱い紐が結われた短刀を取り出した。乱が私に残した唯一の形見。オークション会場で落としてしまったそれをまさか拾っているとは思わなかった。私に短刀を渡そうと近寄る彼女を三日月が制すがそれを無視した。折れた弟たちの刃を集めて纏めた斬れない刀。砕け散った刃は二度と戻らない。儚く消えていった弟たちの命。私を庇って消えしまった。本当は私が守らねばならなかったのに。
「わたしは彼らの気持ちを知っている。なら今あなたの成すべきことは生きること。死んではいけない、そして死ねないはずだ。本当に一期を守って死んでいった弟たちが大切なら。」
踞る私に短刀を握らせるとそのまま強く手を彼女は握りしめた。この暖かさはもう触れることが二度とないと思ったものだった。弟たちのいない世界でも、彼らは私が生きることを望んだ。その為に命を散らしてしまった。閉じた瞼から涙が溢れて止まらない。生きろ、と言われてしまえばもう死ぬことはできなかった。守られた命をここで投げ出すことを彼らは許さない。
「今は向き合わなくてもいいです。ただ息をして、生きてさえくれればそれだけで十分ですから。人を憎んでもいいんですよ。それが生きることへの意志になるのなら、わたしを恨んでも構わない。」
ただ憎かった。人が、憎くてたまらなかった。自分を追い詰めて、弟たちを殺した人間を同じ目に合わせてやりたい。檻の外からそうやって人間を見続けた。そんな私に自分を恨んでも良いという彼女はただのお人好しだ。
「殺されてもよいというのですか?」
「主!」
三日月が焦った様子で彼女と私の間にに立ちはだかろうとする。彼女は三日月を呪で縛り動けなくさせた。どうしてここまでわたしの為にするのだろう。
「まだ殺される訳にはいかないの。ごめんなさい、でもそれが終わったら殺してもいいです。」
そうやって微笑んだ。何故笑うのかわからない。オークション会場で助けただけの刀剣男子など政府に預ければ良いものをわざわざ自分の本丸へと引き取った。私の記憶を見てしまったから、それでも理解ができない。そこまでが限界だったのか、彼女は私の胸元へ倒れ込んだ。疲弊した彼女の顔色はとても悪く呼吸は先ほどよりも荒い。檻の中に閉じ込められていたはずだったのに、私の体は先ほどよりも動く。
「私の傷を全て移し替えたのですか。」
「そうだ、主がわざわざお主の傷を引き受けた。もしもお前が主を傷つけることあれば、この本丸の刀剣男子は全てお前に刃を向けるぞ。」
三日月は凍てつく声で言い放つ。倒れ込んだ彼女の体を三日月に渡せば心配そうに顔を覗き込んだ。今ここで彼女を傷つけるつもりはなかった。私を助けた理由も気になったし、簡単に死ぬ訳にはいかない。まずは体を休めて回復することが先だと目を閉じる。彼女の力の正体も、何もかもがわからなかった。胸を燻ぶる憎しみの炎がもっと燃え盛り私ごと燃やしてしまえば良いのにと思う。こんな醜い世界ごと焼け落ちてしまえばきっと素晴らしい。

あの刃傷沙汰から一ヶ月、思ってはいたがなかなかに一期は曲者だった。わたしが自分の意志で彼をここに置いているが、頑なな一期の様子を見ているといらぬお節介だったかもしれないと思ってしまう。栗田口の、特に五虎退治などは自分を寄せ付けない彼に怯えてしまっていた。いち兄と呼び抱きつきたいのを堪えている。薬研には彼の事情を話して納得してもらった。何となく、乱は気づいているような節がある。今の所、あれ以来兄弟たちの接触はない。いち兄という言葉自体が呪いのようなものかもしれない。一期の心を取り戻すには時間が掛かることなどわかりきったことだ。思わず溜め息を吐くと後から薬研が心配そうに見つめてきた。
「何つー顔してんだ大将?」
「あー薬研…。」
椅子に腰掛けたわたしの顔を覗き込む薬研のまだ幼い顔を見ていると、心配ばかり掛けていることが申し訳なくなる。栗田口の兄弟を宥め上手く一期との距離を保って接してくれているのは、薬研のおかげだ。一番彼の置かれている境遇を理解しているのは薬研だった。一期を庇い斬られた薬研の姿を重ねては責める兄の姿に何とも言えない感情を覚えている。わたしは一期を本丸へと連れて帰ったことを後悔はしていない。それでも確実に負担を掛けていることを申し訳なく思う。あの檻の中で一期の瞳を見た瞬間から目が離せなくなった。あんな瞳になるまで何があったのか気になって仕方がない。そしてあの記憶を読んでしまった。あの本丸に隠された惨状を見て、いつ闇に落ちてしまってもおかしくない彼をこのまま見放すことなど無理だった。あんな瞳をさせてしまったのは人間のせいだ。
「まあいち兄のことは気になるだろうが、気長に行くしかないさ。」
「薬研には負担ばかり掛けてごめんね。」
「大将はよくやっているさ、俺っちに謝る必要はない。」
そう言ってもらえるのはありがたいけども、孔雀の羽幾つか掴み自分の髪の毛で纏めていく。孔雀の青緑色の美しい羽根の濃い青の目のように見える所を中心に編み込んでいった。複雑だが、魔除けのお守りだからこそ自分の手できちんと作りたかった。本丸の本尊である孔雀明王の加護を付与し刀剣男子たちに身に着けるよう命じている。これは一期の分だ。素直に付けてくれるかはわからなかったが、この先これは必要なものだ。毒蛇や蠍を食らう孔雀は古来から解毒の力を持つと信じられてきた。人の煩悩を食らい導き、明王の中でも唯一憤怒の形相ではなく菩薩の表情をしている。戦に出る彼らを迎えるここは荒々しい明王ではなく慈悲の孔雀明王を祀りたいと、わたしの意向でうちの本尊は孔雀明王になっていた。孔雀の飾り羽根を自分の髪で纏め、ブローチのようにし刀剣男子たちの戦装束につけさせている。これをつけていれば刀剣男子たちの位置をだいたいの把握し、連絡を取ることが出来る。もうひとつわたしの力を込めており、タイミングさえ合えば力を発揮する。なかなかに難しいタイミングだが、絶好の機会で発動すれば最高の結果を齎すだろう。念を込めて作っているためかなりの重労働だが、あの審神者は再び一期を求めて来るはずだ。記憶の中で審神者の瞳を見た時、わたしは気づいた。あれはわたしと同じ存在だと。蛇神憑き、わたしたちはそう呼ばれる呪いの血筋の元に生まれた存在。本能がわたしに囁く、これは同じものだと。魂のレベルで同一の存在であり、蛇の執着心をそのままにしたようなあの審神者は殺そうとして殺せなかった一期をそのままにしておくとは、思えなかった。同じ存在であるが故にわかるのだ。吐き気がする程に醜悪で醜い本性はわたしも持っているものだからだ。憑き物筋の審神者としてあの女のことは放っておけなかった。我ら憑き物筋同士は政府から無理矢理に審神者された境遇であり最前線に送られ犬死にさせられる為にいる。だからこそ、憑き物筋同士は協力し合い助け合う。だがあの審神者ら違う、わたしの狐憑きの友を脅し呪符を作らせた。友も言っていた、あの審神者の行いは許されないと。罪滅ぼしか一期を逃がすのに友は協力した。今、わたしの元に一期がいると知って頼むと言った。憑き物筋は他人から差別され忌まれて生きてきた。人間を守るということの意識は希薄だ。むしろ人間を疎んじてさえいる。だからこそ、呼び出した刀剣男子は己の分身とも呼べる存在。刀剣男子を守るためにこの戦いを続いている。政府は憑き物筋の異能を審神者をとして利用するためだけに、拉致し強制的にこの役目を押し付けた。あらゆる苦痛を与えられ、施術を受け憑き物筋の異能を強化された。強すぎる力は代償がある。審神者として絶大な力を振るう度に魂は憑き物へと近づきその果ては祟り神となるか、魂が霧散し消える道しかない。力を制御するためにわたしや友は人であることをやめた。いつ消えてしまうかわからない意識と、化け物になってしまう恐怖に怯えながら生きている。人でなくなった今もいつ自分の魂を失うかわからない。憑き物筋とはそういう危ういものなのだ。蛇神憑き、とうびょう憑きとも呼ばれる血筋は古から伝わる憑き物筋であり、その数は狗神憑きや狐憑きと比べてもひけをとらない。わたしは身体的特徴は蛇によく似ている。刀剣たちよりも低い温度は自分で体温調節は効かなければ、縦長の瞳孔など蛇そのものだ。そして本性もまた、執念深くしつこい。あの審神者とわたしはよく似ている。完全に憑き物に呑まれてしまえばああなってしまうのだろうか。人の形をしているのに心はない。上辺だけ美しくしても一皮剥けば醜悪な化け物だ。そうなることを一番恐れているのはわたしだ。祈りを込めるように薬研へと一期にこれを渡すように頼んだ。
「大将、いち兄に俺がこれを渡してもいいのか?」
「いつまでもこのままというわけにもいかないからね…。」
いち兄と呼ばれることは今の一期にとっては呪いと同じだろう。わたしもあの審神者を人を呪うために生まれた存在だ。でも彼らは違う、正しい歴史を守るために生み出された存在でありあんな風に扱われていいものではない。だからこそ、一期にこのまま終わって欲しくなかった。兄弟とありふれた日常を取り戻して欲しいと思うことは何て傲慢な願いだろう。でもそれを叶えるためなら、命を掛けてもいいと思っている。人に差別され続けてきたわたしたちを主と呼び慕ってくれる刀剣男子たちに出来る唯一のことだ。愛を知らないわたしたちに愛を与えてくれた彼らに何かを返したかった。一期の記憶の中で見た憑き物に呑まれた審神者の瞳を忘れられない。わたしもいつかああなってしまうのだろうか。でもあの時に見た乱の瞳を忘れてはいけない。
「お願いね、薬研。」

薬研の手から渡されたそれを一期は胸当てと金糸を留める飾りにした。孔雀の羽根を纏めたそれは派手であったが、センスの良いものだった。ブローチのようだが、ただの装飾品ではないようでかなりの念が込められていた。触れれば仄かに温かい。孔雀の羽根を纏めている白花色の紐は彼女の髪を編み込んだものだ。翡翠の飾り石は瞳の色と同じ。この本丸は孔雀明王を祀っているようで、いつも孔雀明王像のある祭壇は彼女自ら綺麗にしている。でも彼女は蛇神憑きの審神者であり、毒蛇を喰らう孔雀明王を本尊しているのが不思議だった。この飾りを大人しく付けるつもりもなかっだか、薬研の瞳を見て一期は折れた。まだ彼らと直接触れることは恐ろしいといえど、自分を守って死んだ弟たちと同じ顔をしているのだ、無碍にすることはできない。それにここの主は前の主と同じ蛇神憑きだというのに、全く違う。穏やかで刀剣男子たちへの接し方は平等で贔屓もせず、資材を惜しみなく使い中傷以上では決して出陣をさせない。元々憑き物筋である彼女は他の審神者よりも圧倒的に力の差がある。人をやめて久しいという彼女は憑き物をコントロールし、並の審神者など相手にしない。ただ表には出られない存在らしく、一期を見つけたあのオークション会場でも、政府からはの任務でいたようだ。朗らかに笑う彼女だが、実際はなかなかに闇が深いのだと思う。しかし刀剣男子へと向ける愛情は本物なような気がした。もう二度と誰も主とは呼べないだろう。それでもここで過ごす時間は悪くないと思う。だからこの羽根飾りをつけたのかもしれない。いつも笑っている彼女だが、本心はなかなか伺うことができない。
「薬研どうして、ここの主は孔雀明王を祀るのかい?彼女は蛇神憑きなのだろう。なら孔雀明王は正反対だと思うのだが。」
彼女の執務を手伝う薬研へと声を掛けた。薬研は内番の白衣を纏い眼鏡をけた姿は短刀らしくない。彼は元々しっかりしていたけれど、この本丸においては近侍だ。なおのことしっかりとしているように見えた。ここで止まっている自分と比べると随分大人になってしまったように思う。彼の瞳の瞳孔は縦に割れ、蛇のように見えた。それは勘違いではなく、憑き物筋の審神者は顕現した刀剣男子たちに強い影響を与える。その為、薬研にも蛇のような特徴が現れていた。一期もまた同じように憑き物筋の審神者から呼び出されていたが、薬研の主とここまで違うのかと思ってしまう。艶やかな白花色の髪に美しい翡翠色の瞳をした心穏やかで優しい審神者。自分の主もこうであったならと思ってしまう。そうであれば死んでしまった弟たちも幸せに笑っていただろう。いち兄と呼ぶ屍の幻影も見なくて済んだかもしれない。自分ばかりが幸せにはなれないと、余計に動けずにいる。今も自分にしがみつく平野の声が聞こえるのを無視して薬研へと話し掛ける。
「珍しいな、主が孔雀明王を本尊とする理由か?」
「ああ、気になってね。」
冷や汗を掻きながらも何とか動揺を隠して向かい合って話す。薬研から目線を逸し話すわたしの姿は滑稽だろう。薬研には彼女は一期のことを全て話した。仕方ないことだとわかっている。こんな不安定な一期を置くのに近侍である薬研の同意を得ない訳にはいかない。だからこそ、彼は一期をいち兄とは呼ばない。薬研の紫色の瞳を見ていると自分を庇って斬られた弟の生気を失うあの瞳を思い出してしまう。
「弔いだよ、主のことをここまで話していいかわからんが。主も知って欲しいと思うだろうから、話すが他言無用な。」
弔い、という言葉に耳を疑った。何の弔いだというのか。薬研の語る彼女の過去はあまりに重く、自分の愚かさが嫌になった。どうしてあんな過去を抱えて笑えるのだろう。凛として強く生きていけるのかわからなかった。彼女は普通の家に生まれた少女だった。父と母と彼女の三人家族。優しい母と頼りになる父、ありふれているがしかし幸せな家族の団欒。小さいけれど、母の趣味に合わせた可愛らしい家とセンス良く整った庭。それが彼女の世界であり、永遠に続くと思っていた幸せだった。憑き物筋というのは同族で婚姻を結ぶことが多い。何故なら憑き物というのは血筋に憑き、子孫代々伝えていくものだからだ。周りから差別され、憑き物の家が他の家と婚姻を結ぶことは避けられていた。濃すぎる血はより憑き物の力を増し余計に人から離れてゆく。母はそんな蛇神憑きの家の生まれだったが、田舎を捨てて父と出会い自分の生まれを隠して結婚し彼女を産んだ。彼女が幼い頃までは幸せだったが、母は血筋ゆえか感情を抑えることが難しくいつも怒鳴り散らすようになった。時折、正気を無くしては父に当たり彼女に暴力を振るった。それでも良かった。あの時までは。元々、憑き物筋というのは心が他者よりも繊細で傷つきやすい。そして他人の心を読んでしまう。母は心が弱く病んでしまった。蛇神憑きは執着心が強く、嫉妬深い。父が仕事に行くだけでも母は嫉妬に狂い浮気をしていると疑った。そんな母に最初は父も優しくしていたが、もう嫌になってしまったのだろう、結局他の女性の元へと走ってしまった。荒れ果てた家には母と彼女の二人きり。父は愛人の家から帰らず、母の狂気は深まるばかりだった。そしてあの日が訪れた。愛人に子供が出来たのだ。それを理由に父は母に離婚を求めた。もう父は疲れてしまった。母のヒステリーに見窄らしく殴られた痕の残る無表情な娘。それに比べて優しい穏やかな若い愛人ときっと可愛らしい子供。どちらを取るかと言われれば、それはあっちの家族だろう。それを母が納得する訳がない。そして母は憑き物筋、呪いの血筋だ。愛人と赤子は母に呪い殺された。この世のありとあらゆる苦痛を味わされて死んだ。愛人の死体には蛇の絡みついた痕があったらしい。父は母の仕業だとすぐに気が付いた。憑き物筋ということは知らなかったが、それでも母に何らかの異能があることは勘のいい父は気付いていた。母を殺す為に父は帰ってきた。玄関を開けた母は甘ったるい声で父を呼んだ。父は後ろ手に斧を持ち頭をかち割った。柘榴のようにぱっくりと割れた母の頭は脳髄を玄関にぶちまけた。それをぼんやりと見ている彼女を父は殺そうとした。玄関マットは血を吸収しぐっしょりと重い。そこにあざだらけの小さな彼女の体を倒すと首を締めた。ひと思いにやろうと決めた、娘に罪はないが気狂いの血を残してはおけない。首に手を掛け力を込めようとした時、翡翠色の瞳を見てしまった。全てを見透かす彼女の瞳は末恐ろしく、とても美しかった。死への恐怖は全くなかった。父に殺されるならそれでも良かったが、父は殺しきれなかった。斧を捨ててリビングへと走り自分でカーテンレールに縄を掛けて首を吊るのを見つめていた。ただ見ていることしかできなかった。父をここまで追い詰めたのは母の忌まれた血脈であり、彼女にもその血は流れている。いつか誰かを追い詰めてまた殺してしまうのだろうか。ここで父を止めたとしても、父の心は死んでしまっている。それを思えばここで死なせてやったほうが楽ではないか。斧で頭をかち割られた母親の死体へと触れた。血塗れこ両手はわたしにも流れている忌まわしき血。この血統は断ってしまったほうがよかったのかと。母はいつも言っていた、感情を乱すな怒るなとそれは憑き物を抑える為に母も気を付けて生きてきたのだろう。それでも母は憑き物に呑まれてしまった。この世に生を受けた時から、わたしはいずれ憑き物に呑まれてしまう運命なのだと母の死体を見て悟ってしまった。父はわたしを殺せば良かったのに。カーテンレールで揺られる父の死体を座って見つめ続けた。優しかった両親の面影を死体に見ことができなかった。父の眼球が飛び出して床に落ちた。腐臭と腐りゆく死体に囲まれて飢餓に苦しみながらゆっくりと死んでいく。蛇神憑きは人よりも頑強でなかなか体を持っておりなかなか死ぬことができなかった。もう食べる物なかったし、流石に食べなければいずれ餓死するだろう。死は足音を立てて近づいてくる。玄関から出ようと思えば出ることもできたが、父も母もいないのに生きる意味が見当たらなかった。憑き物に呑まれて発狂することを考えれば、このまま両親に囲まれては死んだほうが楽なような気がしたのだ。目を瞑りもう来ない日の夢を見続けた。
「ここに子供がいるぞ!衰弱しているがまだ息がある!」
誰かが彼女を抱き上げた。結局死ぬことはできなかった。彼女の血統に目をつけた政府の人間によって地獄から掬い上げられた。余計なことをと思った。別にここで死ぬことを望んでいたのに、死なせてもらえなかった。父も殺せなかった、自分で緩かに死ぬこと望んでいたのに邪魔をされた。憑き物にいつ呑まれるか、怯えながら生きて行かなければならない。だから、誰も望みを叶えてはくれないと悟った。いつ死んでもよかった。審神者としての運命を定められた時も特別何も思わなかった。ただ自分がなくなる前に死ねればそれでよかった。誰にも愛されない。けれど刀剣男子は違った。彼女を主と呼び慕った。優しかった家族の団欒を思い出した、失われていた感情が徐々に蘇ってきた。だから大切にしてあげたいと思うし、辛い思いをした刀剣がいたらその心に寄り添ってあげたいと思う。あの暗い血に塗れた部屋で一人死を待つほど恐ろしいことはない。誰に気づかれずに朽ちていく。自分はこの世にいらないものだとずっと思ってきた。人に必要とされなくても、刀剣男子が必要としてくれるなら生きていける。だから全力を尽くして彼らを守るためにいるのだ。
「それが大将の過去だ。今でこそあんな風に笑っているが、昔は無表情でなあ。瞳に暗いものを隠していた。多分、自分にいち兄を重ねて放っておけないんだろう。孔雀明王は毒蛇を喰らう、自分の力の戒めと明王で唯一慈愛の表情をしているために弔いの祈りを込めて祀っているんだよ。」
何も言えなかった。重苦しい空気を壊したのは薬研だった。空のコーヒーカップを片手に部屋の外へと出ていく。いつも笑っている彼女に隠された過去があんな暗く闇を抱えているとは知らなかった。自分の目の前で母が父に殺されて父は自分を殺そうとして殺せなかった。首を吊った父の死体が腐り果てるのを見続けていた彼女の気持ちを理解できなかった。一期の弟たちも目の前で殺された。それとは違う何とも言い難い感情を感じた。薬研は一期のことをいち兄と呼んだ。この話をして
一期に何をしろというのだろう。ただ目の前で家族を失った者同士話をして見たいと思う。受動的だった一期から動いてみようと思わせたのは薬研の話だった。止まっていた時計の針が動きだすような気がした。

わたしはいつも夢を見る。二つの生首と、血塗れの両手。とぐろを巻く蛇は先の割れた舌をちろちろと見せながらわたしへと向かってくる。これはわたし。この蛇はわたしなのだとわかったのはいつだろう。母は首だけで笑っている。哄笑を上げながらわたしを嗤う。喋る髑髏を抱えてわたしは立ち尽くす。この世は地獄、どんなに取り繕ってもわたしの本性は蛇だ。刀剣男子に笑っている時も心の全てを見せていない。もしもあの審神者に会ったらどうなるのだろう。もうあの審神者は憑き物に呑まれて正気をなくしている。本丸の周りの結果を張り直し、強化していく。もうここを嗅ぎつけているだろう。一期の匂いを追ってここへ攻め込む日は近い。魔除けの白檀の香を本丸へと焚き込めた。わたしとあの審神者は鏡の表と裏。よく似ている。一人になることが嫌いだった。誰かの熱に触れていないと、自分の冷たさに気付いてしまうからだ。両親の死も、愛しいはずの刀剣男子たちですらどうでも良いと思ってしまう。笑っていても、その裏ではどこか冷たく嗤う自分がいる。それは憑き物そのものであり、必死に取り繕うわたしを嘲笑う。気づいてはいけない、気づけば二度と帰れない。わたしの中のわたしはいつでも見ている。早く準備を済ませてしまおう。一期に言うべきだろうか、最近やっと弟たちと接することができるようになった彼をこれ以上追い詰めたくなかった。彼以外の刀剣男子には一応言っおり、なるべく一期を一人にしないように気を付けている。本当はわたしが向き合うことを避けているのかもしれない。もしかしたら、わたしもああなるのだと目の前で示されることを恐れている。それでもあの乱の瞳を見た時から、引けないと思った。あんな惨い殺され方をした乱は可哀想だった。許してはいけないと胸の中に怒りの炎が燃え上がる。
「今よろしいでしょうか?」
顔を上げれば一期の辛子色の瞳がわたしを見ていた。彼から話し掛けるなど、珍しいとわたしの隣に座るよう促した。隣に並ぶ一期の整った顔は綺麗だとは思うが、三日月のような美麗というのとはまた違う。品のある仕草がよく似合うが、栗田口の兄というだけあってどこか親しみやすさがある。三日月ほどの美しさは逆に謙遜してしまう。
「何か話したいことがあるの?」
「ええ、まあ。薬研からあなたの過去を聞いてしまいました。」
歯切れの悪い一期は薬研から昔のことを聞いたらしい。気にする必要はないというのに。わたしも彼の過去を勝手に見てしまった。それに比べれば薬研がわたしの過去を話すことなど別によかった。それを申し訳なさそうに言う彼を見て笑ってしまった。
「怒ってはいらっしゃらないのですか?」
「怒る必要なんてないですよ、薬研の判断で一期に話したならそれはそれです。わたしもあなたの過去を勝手に見てしまった。だからお互い様でしょうかね?」
一期は困った顔をした。確かにわたしの過去は重いだろうが今はあまり気にしていない。気にしても仕方がないことだからだ。死んだものは蘇らない、それに時間が経ちすぎてもうあの時の感情を忘れてしまった。忘れなければ、生きてはいけない。
「あなたは不思議な人ですな。この本丸はいいところだと思います。弟たちも良い顔をしている。私のような者を受け入れるなど懐が大きい」
「違いますよ、わたしはただ放っておけなかっただけで。ここで見捨てたらもうそれは人じゃない。だからこれはわたしの我儘です。」
あそこで一期を見捨ててしまえばそれは心を無くしたこと同じだ。人を憎んでも、人の心まで失ってしまったらわたしは憑き物に呑まれてしまう。だから懐が深いわけでも何でもない。ただの我儘だ。
「それでも、私はあなたのお陰で生きているのです。良くも悪くも、私は助けられた。」良くも悪くも、一期はわたしの我儘によって生かされた。死ぬことが幸せだったのかもしれない。彼も最初はそれを望んでいた。あの乱の最期の祈りを叶えてやりたかった。いつか彼が幸せを感じてくれるようになるまで、側で見守りたかった。
「これの礼を言いたかったのです。」
胸当てと金糸を繋ぐ所にわたしが渡した孔雀は羽根飾りがついていた。つけてはくれないと思っていたから、嬉しかった。これは一期を守るものだったから、どうしてもつけて貰わなければ困る。彼が自発的につけてくれればそれが一番だ。
「ありがとう、嬉しいです。」
「私が礼を言わねばいけないというのに。正直まだ気持ちの整理がつきません。」
「それは当たり前だと思います。」
「でも今はこれだけは言わせほしいですな。ありがとう。」
その言葉だけで十分だった。今はそれ以上を望まない。心を凍りつかせてしまわないで、笑わなくてもいい。ただ生きていれば救われることもあるのだと信じたい。あの時生き残ったことに意味があるのだと思いたい。わたしも彼も生き残った者同士。自分のせいで消えた命の重みを知っている。一期の手の上に自分の手を重ねた。失われた命の重みを忘れない。一期も他の刀剣男子も必ず守ってみせる。生きていてさえくれればそれで十分だ。

「わたしがわたしじゃなくなったらころしてね。」

いつか、わたしがわたしでなくなっても誰かが覚えていてくれるならそれだけで十分だ。もうそろそろあの審神者は攻め込んでくるだろう。あの審神者とわたしは同じ存在であればお互いの考えはよくわかる。無駄なことを嫌い、シンプルに欲しいものだけを取りに行く。この本丸へと攻め込むつもりだ。張っておいた結果は敵の気配を察知し知らせてくる。側に控えている三日月へと声を掛けて、敵襲に備えるようにと言った。わたしもそろそろ身支度もしなければ。私室の箪笥から幾つかの武器を取り出した。大振りのククリナイフを腰に挟むと、太腿にあったホルダーへとサバイバルナイフを入れた。点検するようにバタフライナイフをくるくると回すとそのまま黒のブーツへと仕込んだ。白刃の煌めきに刀剣男子のように美しさは全くない。ただ人を殺す為に使われるこのナイフはわたしと同じ。銃火器はこんな狭い本丸にあっては同士討ちの可能性があるから使えない。まあわたしの射撃が下手くそというのもあるのだけれど。こういう状況であれば、使い慣れた武器のほうが良い。ナイフの使い方も昔は慣れていなかったし、人を殺す重みも知らなかったと思う。随分とこの手は血に汚れてしまった。顔だけ笑っていても心が腐っていく。これだけは譲れない、一期をここで渡してしまったら人として終わってしまう。
「主、そろそろ良いかのう。」
三日月の言葉を聞いて私室を出る。廊下にある鏡には全くの無表情のわたしがいた。戦いに向かう時らいつから表情を無くしたのだろう。表情一つ変えずに人を殺してその両手を血に染める。おぞましい存在に成り果てても彼だけは守り切る。三日月の方へと向かう時には笑顔を作った。作り笑顔だとしても、わたしは笑う。こういう時だからこそ笑っていなければ。

血と炎の匂いがする。彼女は部屋を後にして炎の中へと飛び込んだ。一期は炎に焼かれた記憶があるせいで、一瞬たじろいでしまったが後を追って炎へと足を踏み入れた。これは一期を守る戦いだ。それをここで身が竦み逃げることはプライドが許さなかった。美しかった庭は荒れ果て、元主の雇った術者の死体が転がっている。投げナイフが刺さり、確実に相手の数を減らしていく。彼女はククリナイフを片手に振るい、傷ついてしまった五虎退を庇う。敵もまた刀剣男子たちを縛る術を使い、普段よりも力を発揮できない。それでも必死に何とか戦っている。だんだんと押され始め、傷ついた刀剣男子が増え始めた。何とか彼女も指揮を取りながら自ら戦い誰よりも傷を負っても歩みをやめない。これは一期を守る為だけの戦いではないと気付き始めていた。彼女の中の何かを守る戦いでもあると。燃え盛る本丸を背に障子を蹴破り安定の前にいた敵の喉元を切り裂いた。
「安定!大丈夫!?」
「主、主前見てっ!」
悲鳴のような安定の声が上がり彼女の一瞬の隙をついて脇腹へと短刀が突き刺さる。安定の刃は術者を絶命させれば慌てて彼女の体を支えた。悲鳴を上げないように悲鳴を噛み殺し安定の渡した布で止血した。息の荒い彼女の傷は深くなかなか血が止まらない。一期が慌てて近寄ろうとすれば見知った気配がした。禍々しく不吉の前触れを背負い血の匂いをさせた元凶がそこにいた。美しい顔はそのままにこちらへと近寄ってくる。元主の周りは自然と炎が避け足取りは軽く彼女の前へと歩み寄った。
「無様な姿ね。同じ蛇神憑きと思えないわ。」
一期の方へと向かず彼女を軽蔑の眼差しで見つめる。今の元主の興味は一期にはなく彼女にあるようだ。因縁、といえばいいのか。互いに一期でも計り知ることのできない何かがあるようだった。白花色の長い髪を血に染め上げ脇腹を抑えた彼女の姿と巫女服に返り血一つつけず無傷で嗤う元主。対極的な二人の姿を安定も一期も声が出なかった。
「あんたにそんなことを言われる筋合いはないわ。」
「憑き物に怯え、力を発揮できないそなたに何が出来る?」
「煩い、憑き物に呑まれて心を無くしたあんたなんかに負けない。」
珍しく口調の荒い彼女は息も絶え絶えになりながら必死に立ち上がる。何とか彼女を止めようとする安定の足元に白い大蛇が牙を向く。幾本もの蛇に別れたそれは安定を襲い、何とか彼も迎撃をするが押されてしまっている。一期も刀を振るおうと柄に力を込めるが手が震えて力が入らない。ククリナイフを持つ力を無くした彼女はブーツに仕込んでいたバタフライナイフを片手に元主へと向かうが、容赦なく蹴り飛ばされて本丸の壁と突っ込んだ。今の一期は無力だった。何もできない、元主の影に怯えて自分を守るために必死になって戦う仲間のために動けなかった。
「やっぱり一期あなたは何もできない。無力で愚か、弟一人守れず弟に庇われて今もノウノウと生き続けている。」
その言葉が胸へと刺さる。一期はあの頃から何も変わっていない。守られるばかりで何もできない己の無力さに歯ぎしりした。奥歯がすり減って無くなりそうなほどでも動けない。
「私は何も、守れない。」
「そうよ、だから私のところへと戻ってきなさい。」
座り込んだ一期の頬へと触れたその体温は冷たく、人のものではなかった。結局、何も変わらないき変えられない。一期は元主のもので、あの惨劇から動けずにいる。
「勝手に決めるな!いち兄はそんな臆病者じゃねぇぞ!」
一期に触れる元主の腕を斬り落とそうと白刃が煌めく。薬研がそこにいた。大声を上げて体中傷だらけになりながらも、一期を庇い立ち塞がった。短刀を柄を握り締め引くことなく立つ姿は彼を庇った弟たちと同じだった。機嫌を損ねた元主は薬研へと刀を向ける。ここでまた同じことを繰り返し、生き延びたとしても何の意味がある。一期一振は栗田口の兄。兄であるならば弟たちを守るもの。守られる兄など格好がつかない。彼女も薬研もここにいる皆が一期を守るために傷付き、必死に戦っている。ここで一期が立ち尽くすことは許されない。燃え盛る炎など恐ろしくはないのだ。そしてこの元主も恐れるわけにいかない。薬研の服を思いっきり引き寄せ、自分の胸元へと抱えた。傷だらけの小さな体で必死に庇った弟に報いなければ。
「吉光が唯一の太刀、一期一振!弟と主を守る為に譲らぬ!」
そしてあの時大門の前で倒れることなかった乱のためにも、ここで引く訳にはいかない。思い切り元主の胸元へと刀を突き立てた。油断仕切っていた元主の心臓へと一突きで決まった。しかし胸を突き刺した感触がなかった。空洞を刺したような手応えのなさ。不味いと気付いた時には胸を刺されていた。何とか薬研の体を遠ざけたがまともに食らってしまった。この刃には毒が塗られていたのか、体が痺れて視界が霞む。刀を持とうにも上手く力が入らない。それでも何とか薬研だけは逃がそうと手を伸ばす。
「いち兄っ!」
悲痛な薬研の声に胸が裂かれてしまう。あんな声で呼ばないでほしい。一期はただ薬研を守りたい一心で伸ばした手を元主が踏みにじる。こんな痛みなどいたぶられて殺された乱に比べれば大したことはない。
「一期、そんなに言うことを聞かないのなら苦しみぬいて死になさい。そしてまたあの時のように弟を守れずに…っ。」
「わたしの仲間に何してくれてんのよ!このブスッ!」
元主の言葉の途中で殴り飛ばしたのは新しい一期の主。肩で息をしながらも傷だらけの体は治癒を始め塞がりかけていた。今までとは違う力が主の器を満たし始めていた。それはこの元主とよく似た力。憑き物筋の力だった。 「薬研、一期を連れて下がりなさい!後はわたしが引き受ける!」
薬研が一期の体引き摺るようにして下がっていく。毒が回り始めているというのに、意識が徐々にはっきりしていく。四肢の末端は冷えていたはずなのに暖かくなる。心臓を貫かれたはずなのにまだ動く。鼓動を刻み続けているのは何故だろう。胸に手を当てれば孔雀の羽根飾りがぼろぼろになっていた。孔雀明王の呪が掛けられた御守りは一期の身を守って壊れた。毒消しの加護を持つ孔雀明王の力を込められた飾りを渡したのは、これを見込んでいたからだ。
「でも胸を貫かれたのに何故死なない?」
「いち兄が主を自分の主として認めたからだよ。俺っちたちの主は憑き物筋の審神者だ。それは刀剣男子である俺たちにも引き継がれている。蛇神憑きは強い生命力と治癒の象徴。主の本性は不滅、流石に首を跳ねられたら死ぬがこれくらいじゃ死なないさ。」
ああ、なるほどと思って笑ってしまった。全部彼女のいや主の掌の上だった。また生き残ってしまった。ぼろぼろの酷い身なりで傷だらけでもまだ生きている。死にたいと思っていたはずなのに、生き残ってしまった。死にたくはないと胸の中で激しく訴えかける。
「いち兄泣いてんのか?」
目元に触れれば指先に濡れた感触がした。泣いている、笑いながら泣いていた。頬を濡らすこの感触も生きていればこそだ。死んでいった弟たちが笑っているような気がした。不甲斐ないところばかり見せてしまった情けない兄でもいいだろうか。
「薬研、主が戻ってきたら帰ろう。」
「そうしよう、いち兄。」
薬研も静かに泣いていた。二人で泣きながら、主を見守った。もう主はあの審神者には負けないと確信を持っていた。

内側から力が溢れて負ける気がしなかった。一期の立ち上がる姿を見てわたしも逃げられないと思った。結局、恐れて拒んでいた憑き物を受け入れた。あの審神者にはこうしなければ勝てない。燃え上がるような力の爆発に体がついていかない。傷だらけの体は治癒しほとんどの傷は塞がった。血塗れの手であっても守れるものはある。
「結局、憑き物を受け入れたのね。」
せせら笑う審神者の声も聞こえない。戦いの前に渡された折れてしまった栗田口の刃を繋ぎ合わせて鍛え起こした、バタフライナイフを構えた。これはあの審神者を殺すことのできる唯一の武器だ。憑き物筋の本当の力は思いを力にすること。兄を守る為にと死んでいった栗田口の短刀たちが囁く。このナイフで首を落とせばあの審神者は死ぬ。ナイフに宿った思いは形となり、憑き物筋でも殺せる力を与えた。石切丸と太郎太刀の祓いを受けて清められたこの刃なら確実に殺しきれる。均衡を破ったのはわたしだった。外套から投げナイフを引き抜きと投げた。あくまで陽動、これで当たる相手ではない。その隙に蹴りを叩き込み鼻を追った。思った通り、実戦慣れしていない。動きが隙だらけで遅かった。やはり術に頼り刀剣男子を縛るか、憑き物で干渉しない限りは戦う術を持たないようだ。自分で戦う術を持たないようだ審神者を一方的に嬲る。力を削ぎ確実に首を落とさないとあの再生力では殺せない。一太刀で首を落とすタイミングを見るのは難しい。審神者の白刃を敢えて受けた。左手で白刃を離さいようにしっかりと掴み、右手でバタフライナイフを振り被る。わたしの瞳には斬るべき線がはっきりと見えた。そこをナイフでなぞればあっさりと首が落ちた。首と体は分離し血を吹き上げて倒れる。血に紛れて逃げようとする白蛇へとナイフを刺した。審神者の力の奔流を捕らえ、逃がさないように己の中へと封じ込める。透き通った水が本丸の炎を消し止め刀剣男子の傷を癒やしていく。高い所から低い所へと流れ落ちるように水は流れる。わたしの力は形をなし、四肢を持った大蛇の形となる。光輝く鱗は零れ落ち、降り注ぐ。これは蛇ではなく、蛟。蛇から龍へと姿を変える途中の瑞兆。わたしの蛟は審神者の力を取り込むと全て浄化していく。
「翡翠の蛟、何と美しい。」
一期の呟くような声を背に体が地面へと倒れた。力を使い過ぎていた。蛟は地を這うように移動しながら、わたしの側へと近寄る。これがわたしの本性。冷たい鱗に触れれば力を吸収して、胸の中へと蛟は収まる。とりあえず皆ぼろぼろであるが無事なようだった。息を吐けば体のあちこちが痛み、目の前がちかちかする。もう笑う気力も起きない。
「主殿。」
「わたしのこと、主って呼んでくれるの?」
「もちろんです、ただこれを壊してしまいました。」
申し訳ありません、と目を伏せる一期の顔を見つめた。彼の膝に乗せられて満身創痍な体はなすがままだ。壊れてしまった孔雀の羽根飾りを抱える手を握った。生きていくれればそれで十分だと思った。いつか笑ってくれれば良いと。もしも、主と呼んでくれるのなら許して欲しい。
「わたしはあなたの元主と同じ憑き物筋、それでも許してくれるの…?」
「馬鹿なことを聞きますな。当たり前も何も、あなたとあれは違うものだ。」
一期の声に安心した。わたしとあの審神者は違う。だって、わたしには彼らがいる。大切にして大切にされる。刀剣男子がいる限りわたしはわたしのままでいられる。意識を無くしたわたしを呼ぶ声がした。もう少しで起きるから今は寝かせてほしい。

「いつからあの本丸へと行って、残された弟たちの遺体を回収せてやりたいのです。」
あれから一週間後意識を無くしていたわたしの代わりに友が本丸の再建を手伝ってくれたらしい。鶴丸を連れて帰っていった友には感謝しかないが、なかなか起きないわたしを心配して皆落ち着かなかったようだ。まだ起き上がるのが精一杯なわたしを甲斐甲斐しく一期は世話をした。今も彼の煎れてくれたお茶に口を付けながら、耳を傾けていた。
「正直いうとね、あの本丸は放置されて時間も歪み異空間の彼方へとあって見つけるのが難しいかもしれない。」
「そうですか…。」
「それでも彼らの遺体をそのままにしてはいけない。だから必ず見つけるわ、力の痕跡を辿れば時間がかかるかもしれないけど何とかする。約束するから。」
一期の小指と自分の小指を重ねた。あの本丸を見つけるのは至難の業だが絶対に見つけて見せる。立派に兄を守った彼らの遺体をそのままになどするわけにいかない。
「約束ですな、主殿。ならば私は今生あなたにのみお仕えします。」
そう言って一期は指切りをした。もうすぐで桜の咲く季節だ。生きていれば四季の巡りを感じることができる。時間の流れは感情を鈍らせてしまうかもれない。それでも色褪せないものがあると信じたかった。この約束をわたしは忘れないように記憶に留め続ける。そして一期を幸せにするという乱の想いも叶えてやりたかった。
「桜が咲いたら花見をしよう。」
「それはとても素晴らしいことですな。」
幸せな未来を夢見よう。彼とこの本丸の仲間たちで幸せになろう。乱あなたとの約束は必ず果たしてみせるから。まだ心から笑えなくてもいい。時間はたくさんある。ゆっくりでいいから少しずつ心を取り戻していこう、一期。弟たちの笑顔と一緒に。世界がどんなに醜くてもわたしは生まれてくる命を祝福することをやめない。


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