初めてその一期一振を見たのは檻の中だった。折れた弟の刀の欠片を抱えて、鈍色の檻に閉じ込めら今にもこちらを殺さんばかりの目で睨んでいた。浅葱色の髪も、山吹色の瞳も一期一振のものなのに彼のその瞳は一期一振のものではない。少なくともわたしの知る栗田口の兄として穏やかな姿しか見たことがない。檻の外から眺めるわたしを射殺さんばかりに睨んでいた。そんな光景もここでは当たり前のことだ。彼が受けてきた仕打ちを思えば、正気を保って来たことに驚きを隠せなかった。ここは刀剣男子たちの競り場なのだから。わかりやすく言えばオークション会場。政府も取り締まりきれない裏の組織なんて言えばいいのだろうか。上手く言えないが悪いことをしている組織の裏オークション会場にわたしはいる。わたしの目的である彼をようやく見つけた。頑丈な鋼の檻を彼らの嫌う穢れで覆い、力を奪い無力化してから檻へと入れられている。様々な刀剣男子たちがいるが、無気力な瞳をした者や一期のように睨みつける者など皆、わたしや裏オークションの客を見つめていた。ここは澱み腐りきった空気が流れて気持ち悪くなる。裏オークション会場には仮面で顔を隠しているが、身なりは良い人間が多い。客の中には取り締まるべき政府の高官たちもいるはずだ。わたしも友に無理矢理押し付けられた狐面がこんな所で役に立つとは思わかなった。朱い紐で括られた狐面が落ちてはいないか、頭の後ろで手を回し結び目を確認した。鋼の檻に触れれば、一期を身を乗り出し檻を揺らした。大きな音を立てたせいで周りも驚き、こちらを見てきた。裏オークション会場において、売り物である刀剣男子には檻越しであっても触れることは禁止されている。わたしのことも、ルールをよくわかっていない新参者だと思われたらしい。黒服野男たちが一期に掛けられた首輪の呪を強くした。彼の首は締まり頸動脈を圧迫し、苦悶の声をあげた。檻に不用意に近づいたわたしが悪いはずだ。それでも売り物である彼らが罰せられる。わたしは一期の耳元へと囁いた。彼は驚いて顔をあげた。
「もう少しで全て終るわ。」
一期の檻を背にして、振り返ることなく歩いた。面の下の顔はひどく歪んでいるだろう。刀剣男子とは歴史修正主義と戦い正しい歴史を守る者だと思っていた。それをこんな風に扱うとは。神の末席といえども、彼らは神だ。付喪神たる彼らを無下にすれば呪いや祟りがあるはずだ。呪によって刀剣男子を縛りその力を押さえつけ、無理矢理従わせる術を見つけた一部の人間は彼らに末恐ろしいことを強いた。刀剣男子とは見目麗しい者が非常に多い。華美な容姿は人を魅せてやまず、その存在に魅せられる人間がたくさんいた。そして彼らを自らの浅ましい欲求を彼らにぶつけた。その結果がこの裏オークションだ。刀剣男子たちの身柄を売り買いしたくさんの札束が舞い散る、そんな穢れた場所へと足を向けたのは政府からの命令だった。仮面で隠しながらも隠し切れない下衆な本性に吐き気がした。深いスリットの入ったドレスからは太腿がむき出しになっている。白い太腿に舌なめずりするよう視線がぶつかり、わたしの扇情的なドレスを脱がしてやりたいと囁く声がした。本当に吐き気がしてたまらない。裏オークション会場に潜入する為といえどこんな格好させられて嫌になる。いつも結んだままの髪を下ろしている為に、首元がうっとおしい。乱雑に首元の髪を払うと会場の中心部へと向かう。手元の赤い革ベルトの時計を確認するとそろそろあの一期の競りが始まる頃合いだ。檻に入れられた一期は無理矢理、舞台上へと引きずりだされ俯いたままの顔を掴まれ客へと平伏するように蹴られた。絶対に平伏するものかと、わたしを見た時のように射殺さんばかりの目で見つめてくる。当たり前だ。わたし彼の身の上を知っているせいか、どうしても同情的になってしまう。本当はこういう一人に同情するのは良くないのだが。彼の後ろにいると他の刀剣男子たちもこの先の未来が見えているのか、諦めた虚ろな視線を送る者もまた媚びるような仕種を見せるる者も、それぞれがこういう風になるまでどれだけの拷問されて来たのだろう。想像することも出来ないような精神的苦痛を味わされてきた。それを思うとここにいる客を全員殺してしまいたくなった。
「お姉さん、俺のこと可愛がってよ。」
一人で立ち竦むわたしに華奢なヒールを履いた少年が声をかけてきた。上背はわたしよりも小さく、ドレスの裾を掴む指は細い。声音は甘くこちらを見つめる視線は媚を含んでいる。ネイルをした指としているピアスは血のように赤い。折れそうな程細い首元には金色のけばけばしい鎖がされている。調教済の奴隷の証。見えてはいないが、体のどこかに主を示す焼印が入っているはずだ。痩せてしまった体はもう実戦で戦うことはできないだろう。人の欲望の捌け口にされた刀剣男子の慣れの果て。加州清光という刀は愛を求めるところはあるが、こんななやっぽい仕種などしない。勇猛果敢な主に忠実な良い刀だ。自分の本丸にいる加州を思い出して胸が竦んだ。
「大丈夫よ、わたしは。」
「そんなこと言わないで、可愛がって。お願いだから。」
断っても絡んでくる加州はしつこい。辺りを見渡せばわたしをねちっこく見つめてくる加州の主と思わしき男がいた。口説く為の口実にわざわざ加州を押し掛けさせるとは、同じ趣味だと思われているのだろうか。黒服の男たちは飲み物を配りながらも怪しい人間がいないか警戒している。競りに出される刀剣たちを品定めしながら、料理や会話を愉しむ。変態共の会話など理解できないが。刻印の入った首輪をされた刀剣男子たちは鎖で繋がれ奴隷として連れこられている。客の中には自分の奴隷をアピールする為に連れてくる連中も多のだ。神である刀剣男子を奴隷などとはどこまでも思い上がった連中だ。太腿の革ベルトに挟まれた小さなナイフを取り出すと、加州の首輪を切り落とした。石切丸の加護を受けたナイフの切れ味は抜群だ。お土産でも石切丸に買って帰ろう。加州は首輪を切られたことに、驚いて固まってしまつまたのか声を出せずにわたしの顔を見つめていた。
「もう終わりするの、全部。」
加州の腕を引っ張ると後ろに跳んだ。その瞬間、灯りが一気に消えて真っ暗になった。破裂音が響き渡り、硝子の砕け散る音がした。驚きの声をあげそうになる加州に一つ謝ると彼の首元に手刀を落とす。がくんと崩れ落ちた彼の軽い体を後から現れた安定に預けた。力を無理に押さえつけられていたせいで、加州の反応は鈍かった。戦闘の勘がにわざと鈍らされていたから、わたしでも簡単に気絶させることができた。彼らは戦うためにいる。戦いに傷つき、誉をあげることこそが刀剣男子のプライド。それを捻じ曲げ、屈辱を与えるとは許されることではない。人が呼び出したのだから、こんなことを人がしてはならないとより思う。勝手なこちらの都合で戦わなければならない。けれど戦いは彼らの運命。人が鍛えだし、傷つけるための道具。戦うことが彼らの存在意義だとするなら、こんな扱いは屈辱以外の何ものでもないはずだ。安定がわたしの頬のいきなり触れた。
「主、顔怖いよ。今は怒っている場合じゃないでしょう。冷静になって。」
安定の人よりも少し冷たい掌はわたしを冷静にしてくれる。ここで怒りに胸を満たしても仕方ない。やるべきことはたくさんある。
「安定、加州をお願いします。他の皆もオークションに掛けられていた刀剣たちを解放してあげて。」
「わかったよ、主も無理はしないでね。はい、これ。」
「うん、皆も気をつけて。わざわざありがとう。」
安定はわたしに手渡された風呂敷を開ければ、黒いブーツが入っていた。ピンヒールのパンプスを脱ぎ捨て履き替える。うっと惜しい髪を纏め上げ、ナイフでドレススリットを更に切り裂いた。急がなければならない。わたしを守ってくれる刀剣男子たちは皆この会場で別の任務に当たっている。護衛についてもらうよりも、虐げられている刀剣男子たちをここから早く解放して欲しかった。政府からの盗んできた9mm機関拳銃を片手に舞台へと走った。できたらこれは使いたくない。友に笑われるくらいわたしは当てるのが下手くそなのだ。どこに当たるかわからないし、刀剣たちを傷つけたくない。致命傷にはならなくとも、傷つけれてきた彼らをもう傷つけることはしない。硝子片を踏みしだきながら、駆け抜ける。転がっている変態共を蹴り飛ばしたのは愛嬌だ。悲鳴と怒号と、会場は訳の分からない状況になっている。わたしに暗闇など関係ない。むしろこの暗闇こそが、テリトリー。刀剣男子と人間は体温が違う。暗視ゴーグルがなくとも、わたしの視界はサーモグラフィのように周囲の温度差を判別することができる。舞台上へと一直線へと駆け抜けてゆく。一秒でも早く舞台へと辿り着かなければ。舞台の上には鎖で繋がれた一期と彼に駆け寄ろうとするわたしの薬研の姿が見えた。薬研はいち兄の名前を呼びながら鎖を断ち切ろうとしている。あの鎖にも呪が施されているのか、なかなか断ち切れないようだ。わたしの足元に何かが転がって、躓きかけてしまった。危ない、でもこれはあの一期の持っていた刀。折れてしまった彼の弟たちの刀だ。先ほどの騒ぎのせいで落としてしまったのかもしれない。大切に拾い上げ、胸元に忍ばせた。これは絶対に一期に渡さなければと思う。舞台の上へと躍り出た。振動を聞きながら、舞台の上にいる人間の数を瞬時に判断し頸動脈を音も無く切り裂いた。暗闇はわたしの味方だ。刀剣男子よりも索敵能力だけなら負けはしない。こういう時は人間でなくても良かったと思う。胸元に入れた短刀の柄に一度触れ、祈るように目を閉じた。鮮やかな緋色を纏いながら、切先に躊躇いはない。元よりここから生きて帰すつもりはないのだ。ここで罪は償ってもらう。裏オークションの支配人さえ生きて捕まえられれば任務達成だ。わたしの刺した体が温度を無くしていくのを、視界の端で捉えながら死んだふりをして逃れようとする愚か者を探す。-273℃まで捉えるわたしの眼を誤魔化せるわけはない。逃げようする黒服の足を切り裂き、鋼鉄の鉄板が入ったブーツで蹴り殺した。怒りはない、あるのはただ殺すべきという明確な殺意だけ。任務になってしまえばわたしは感情を失う。殺るべき人間を殺る、ただそれだけだ。頭の中は芯まで冷えきっている。心を無くした機械のように冷静に数を減らしていく。
「…いち兄!頼む動いてくれ!」
薬研の叫び声を耳が捉えた。必死で薬研は一期の手を引いているが、力の抜けてしまった彼の体はなかなか動かない。鎖が壊れたというのに、一期は動こうとしないのだ。あんなに檻から射殺さんばかりにわたしを見ていた彼はどうしたのか。体格の差か薬研ではなかなか一期を動かせない。慌てて駆け寄ろうとすれば、殺し損ねた男が邪魔をする。舌打ちすると、髪の先から取り出した毒針で男を刺した。苦悶の声をあげる男の顔面に蹴りを叩き込み走った。薬研の後ろに刃が迫っていた。鎖が付いたままの虚ろな瞳をしていた刀剣男子だった。操られていたのか、自分の意思ではないようで声を出すこともできずに、目で逃げるように訴えかけてくる。
「伏せろ!薬研!」
右手で持っていた9mm機関拳銃で刀を構えていた手を撃ち抜いた。短刀は舞台袖へと音を転立てて転がり落ちた。いつも外しまくるわたしの射撃にしては珍しく当たった。それでも傷つけてはならないはずの、刀剣男子を傷つけてしまった。操られていたことに対抗するため、抗っていたらしく刀剣男子は気を無くしている。わたしの眼は厚いカーテンの裏にみっとも無く足掻く、肥えきった男の姿を見つけていた。拳銃の引き金をいつでも引けるように指を掛けた。紛れもなく殺意しか頭になかった。あれは支配人というやつだ。支配人、様々な名前で呼ばれているが早い話刀剣男子を求める客に彼らを売り渡すための契約を整えるブローカーとしての役割の男だ。彼を
捕まえれば芋づる式に色々とわかるだろう。逃げ遅れた支配人へと足早やに近づくと、その太腿へとナイフを投げた。スラックスには血の染みが広がっていく。こいつがさっきの刀剣男子を操り、薬研を殺そうとした。刀剣男子に刀剣男子を傷つけさせようとするなど許せない。心が怒りで一杯なはずなのに、頭がどんどん冷えていく。引き金を轢いてしまいそうになるのを、理性が必死に留める。支配人を殺してしまえば、真実は闇へと葬られてしまう。
「助けて、助けてくれないか!金ならいくらでも払うからっ!」
わたしの足へと縋る支配人の顔を蹴飛ばし、顔面が変形するまで踏んだ。変形した顔面は鼻は折れて眼球が潰れてしまったのかもしれないが、容赦はしなかった。こいつはそれだけのことをしたのだ。売られた刀剣男子たちはどんな気持ちだったのだろう。それを考えたことはなかったのか。血に染まった醜い顔を歪めながら必死に逃げようとする姿を冷めた眼で見つめた。きっと檻に入れられた彼らも逃げたかっただろう、絶望し人を憎んでも憎みきれない自分に心を擦り減らした。
「金じゃないなら、好みの刀剣男子を譲り渡そう!何でもいるぞっ!珍しい三日月宗近もいるし、吉光の最高傑作である一期一振もっ!」
「もう何も話すな。お前の声を聞いているだけで気分が悪くなる。」
一度だけ振り向いて薬研が崩れ落ちそうになる一期を支えているのを見た。あんなぼろぼろになるまで彼を追い詰めたこいつは死ぬべきだ。こんなゴミを生かしておいてなになる。理性が切れた。本能で拳銃のグリップで男の頭をフルスイングしようとした。両手で思い切り力を込めてスイングする。もう我慢はできなかった。
「わたしを止めるのか、三日月。」
男の後から現れた三日月の黒手袋に包まれた掌がグリップを止めていた。虚ろな眼差しを向けるわたしの頬をグリップを掴んだまま、叩いた。
「主がこの男を殺してどうする。こいつを捕まえる為に来たのだろう。怒りに流されて我を失うなど、俺の主らしくないぞ。」
叩かれた頬を抑えて呆然としてしまった。静かな三日月の口調の中に必死で抑えている怒りを感じた。当たり前だ、一番怒りを覚えているのは三日月たち、刀剣男子だ。同胞を手酷く扱った男たちへの怒りを必死で抑えて、仲間を救うために奔走しているというのに何をしているのか。ここで一番理性を保たなければいけないのはわたしだ。三日月はわたしの瞳を見て、落ち着いたことを確認すると拳銃から手を離した。血に塗れた両手で三日月には触れられなかった。美しい三日月を穢してしまうような気がしたからだ。触れることを躊躇うわたしの掌を三日月の手が包み込んだ。手袋が血に染まっても構うことはなく触れた。掌から伝わる温もりはわたしの高ぶった気持ちを落ち着かせていく。
「ありがとう、三日月。もう大丈夫、申し訳ないんだけど後ろの一期を頼んでもいいかしら?」
「もちろん、構わないとも。叩いて悪かった。痛みはないか?」
鷹揚に頷く三日月は少し赤くなった頬に申し訳なさそうに触れた。首を横に振ると三日月のせいではないと訴えた。支配人を殺してしまっては何の意味もないのだ。支配人は許せない、それでも怒りをぶつけるべきは他にいるのだ。
「わたしの瞳をよく見なさい。あなたを政府からの命で捕縛します。これから取り調べが待っているでしょう。やってきたことの報いは受けて頂きます。」
深い翡翠の中に輝く縦長の瞳孔を見た瞬間、支配人は正気を無くした。今まで売り飛ばしてきた刀剣男子たちが取り囲み恨み言を言いながら、刀で刺してくる。どれだけ刺されても死ぬことはない。ブツブツと取り留めのないことを呟く支配人の顔面を思い切り殴った。泡を吐く男に呪詛を掛けた。どんなに幻覚を見ても、正気を失うことを許さない呪詛だ。一生苦しめばいいのだ。自分の犯した罪の報いを受けろ、そう呟くとつけていたイヤホンへと任務完了と言った。わたしの瞳を直接見つめれば容易く正気を無くす。蛇神憑きであるわたしは特別な審神者。こういった普通の審神者で扱うことのない裏仕事を片付ける役目。一息吐くと珍しく焦る三日月の声が聞こえた。
「悪いな、一期。」
どんと音がしたのでカーテンから顔を出せば三日月が一期を気絶させていた。呼吸の荒い一期の様子はおかしかった。青白い顔は更に紙のように白い。
「何かあったの?」
「大将、ひどい血の匂いだな。いち兄がいきなり暴れてなあ。俺だけじゃ押さえられないから三日月の力を借りた。」
「暴れた?薬研に怪我は?」
「俺っちは大丈夫だ。でもこのいち兄様子がおかしいぞ。なんだろうな、俺を確認してから急に暴れたんだ。」
「そうなの、でも同じ栗田口だもの。薬研を見たら落ち着くの間違いじゃない?」
「そればかりはわかんねぇなあ。」
頷き、三日月へと一期を運ぶようにお願いした。インカムからはせわしなく通信が入る。大分、政府側がオークション会場を制圧したらしい。わたしの刀剣たちも多少怪我はあるようだが皆無事らしい。やっと安心した。皆野力を信用しているがそれでも不安なものは不安だ。血だらけのわたしの顔を薬研が布で拭った。
「別に気にしなくていいのに。」
「そういう訳にはいかないだろう。せっかくめかし込んだのに、血に染まった姿は似合わねえよ。」
襤褸布と化したわたしのドレスへと薬研は自分の上着を掛けた。小さくないと聞けば、格好をつけさせろと怒られた。彼のような短刀がいるのかと聞きたくなったが、口は噤んだ。三日月に背負われた浅葱色の乱れた髪を見つめながら、彼の美しい金色に輝く瞳を見たいと思った。あんな憎しみに満ちた瞳ではなく、弟たちを見つめる優しい色を宿した所を見てみたい。それは何て遠い理想の果ての話。瞳を瞑り思いを馳せた。人に絶望してしまった彼はもう望むこともできないかもしれない。祈る神すら無くしてしまった一期に何をしてあげられるのだろう。思わず三日月に近寄り、彼の抱えた一期の頬へと触れた。まだ温かい、生きていればいくらでもその傷を癒やすこともできると信じたい。人に絶望しているであろう彼の心を思うと何も言えない。
「そんな顔をするでないぞ、主よ。主もそろそろ休むべきだ。精も魂も尽き果てたのはではないか。この一期一振も生きていればまた人を信じることもあるだろう。」 
三日月が俯くわたしへと声をかけた。頬に触れる一期と同じ温度のぬくもりを感じながら、眼を閉じた。これからやらなければいけないことはたくさんある。一期も少し眠れればいい。向き合わなければならない傷も痛みも彼にはあるのだ。一時の安らぎであっても与えられて欲しい。倒れそうになるわたしの体を後から薬研が支えた。握っていた9mm拳銃が音を立てて床に転がり落ちた。わたしも意識を失いそうになるがやることがあるのだ。こんな所で気絶するわけにはいかない。
「大将はこれからやらなきゃいけない事が、山ほどあるんだ。今は休んどけ。」
「そうだぞ、この一期のこともあるのだ。今のうちに休まければ休めないぞ。」
「薬研、みか、づき。」
完全に意識を失い崩れ落ちたわたしの体を薬研が確かに支えた。暗闇の淵に落ちていく。誰かの記憶が流れ込んでわたしの頭を支配する。刀の砕け散る哀しい音が聞こえた。

浅葱色の波の音。やや鈍い辛子色の瞳はわたしを見つめ返す。また入ってしまった。ここは一期の記憶のなかだ。揺れては返す波のように彼の記憶の波がわたしへと流れ込んでくる。感情が高まっていたせいか、問答無用で心の中にリンクしてしまったらしい。勝手に読み取る気はなかったが、それでも無断で人の記憶を覗いてしまうことに罪悪感を覚える。狐面の友なら気にしないかもしれないが。何かが泣いている。悲鳴を上げながら、助けを求めて逃げていた。暗い廊下の隅に、虎が一匹無残な死体になって転がっいた。鮮やかな緋色はわたしの足元へと押し寄せる。あらゆる所から腐敗臭がした。こんなに澱んだ空間はあのオークション会場依頼だ。鼻を服の袂で隠した。そうしなければ吐いてしまいそうだった。それくらい酷いものだ。虎に触れようとすればすり抜けてしまう。ここが一期の記憶の残滓であり、過去なのだ。ここにおいてわたしは何もできない。痩せ細った小さな虎の体は切り刻まれて無残なことになっていた。誰がやったのかは知っていた。政府からのこの一期の主、審神者については話を聞いていた。政府高官の娘で支配人を通じて刀剣男子をかなりの数買っていた客のひとり。サディスティックな性格で逆らうことのできない刀剣たちに当たっていた。かなり酷いことをしていたとは聞いていたが、こんなことをしていたなんて。五虎退の泣く声を聞きながら、もう冷たくなってしまった体へと触れるがすり抜けてしまう。きっと側にいてやりたかったはずなのに、今ここの審神者から逃げなければ殺される可能性もあるのかもしれない。本丸での出来事は過去のことであり、わたしには何もできない。ただ見ているだけというのは、悔しくて人の身であることを嫌悪してしまう。
「…五虎退っ!」
廊下の隅に転がっている死体を見つけて一期が駆け寄ってきた。浅葱色の髪と辛子色の瞳。端整な面差しは気品溢れている。一期はあの審神者のお気に入りだったと聞いていた。彼の顔をひどく気に入りいつも側においていたとも。だから短刀であり、審神者の好みではなかった弟たちは酷い扱いを受けていた。そんな弟たちを庇っては、機嫌を損ねた審神者に折檻を受けて傷付いていた。顔には傷一つついてはいないが、服の下はきっと傷だらけだ。踞る一期は白手袋が汚れることも構わずに虎を抱えた。痛みを堪えるような沈痛な面差しをしている。わたしの友の呪符は協力であの審神者もそれを使って、彼らを縛っている。あんな仕事はしたくないと言っていた友もここまで酷いとは知らなかったのだろう。審神者の父親が政府高官であったから友も脅されて作らされたらしい。プライドの高い友は多くを語ろうとはしなかったが、あのオークションに一期が競り出されると聞いてわたしに助けを求めたのは良心の呵責に耐えかねたのかもしれない。でもそんな人間らしいところがあったのか。友も鶴丸と好き合ってからは人間らしさを取り戻しつつある。元々優しい奴だし、わたしたち憑き者筋は協力し合い刀剣男子のことも大切にしている審神者が多い。反比例するように人のことは憎んでさえいるが。この世で最も醜い生き物は人だと思う。
「いち兄っ!五虎退を見なかったか!?」
「薬研…?」
一期の後から薬研が珍しく声を上げて躍り出た。ひどく焦った様子で声をかけた。審神者のお気に入りの着物に五虎退の虎が一匹粗相をしてしまったという。機嫌の悪かった主はそれを見て酷く怒り狂っているらしく、五虎退を探して殺してやると喚いているようだ。それを聞いた一期も顔を蒼白にし、急いで宥めることにした。虎を薬研に預けると今は五虎退を探すことよりも、自分の主を宥めに行くことを決めたらしい。わたしはこの後の惨劇を知っている。あの友が悲痛そうな面持ちでわたしに語ったのだ。この先あんな酷い光景を見ることはないだろうと、そしてわたしの眼はもうこの本丸のおかしさを見抜いていた。皮膚の鋭敏な感覚がここには生者の数よりも死者の数の方が多いのだと伝える。視覚や聴覚が鈍くとも鋭い皮膚感覚や舌先をなぞるむせ返るような血の匂いは、この本丸に置きた惨劇を教えてくれる。もう五虎退は生きていないだろう。皮膚先をなぞる悪意と殺意は並の人間であれば、囚われて正気をなくしてしまうかもしれない。悪意や呪詛を塗り固めて作られた我らの血脈はこういったものには、並々ならぬ耐性を誇るが。一期の焦る後姿を追いながら、悪意が最も強い部屋へと近づいて行く。そこは近づいてはならない。彼の心を壊してしまう。わかってはいても傍観者であるわたしには何もできない。ここはあくまで記憶の中の出来事。血の匂いに混じって毒の香りがした。庭へと何にも意識をせずに眼を向ければ、色取りの鮮やかな花がそれこそ色取りのバランスを無視して植えられていた。夾竹桃の背の高い木は本丸を生け垣のように覆い、太陽の光から遮り本丸を薄暗くしていた。地面にはイヌサフランが生え、鈴蘭は鬱蒼とした草むらを形成している。池にはぐるりと水仙の花があった。何と毒のある花ばかり、季節は関係なくここで自生できるように調整を加えていたのかもしれない。ここの審神者という女がどんなものかわかってしまった。この香りはダチュラの匂い。誘われるように庭へ下りた。白いダチュラの大輪の花は美しく、触れてしまいそうになるが見た目によらず強力な幻覚作用を有していることを知っていた。何でこんな花をたくさん植えているのだろう。狂気さえ感じてしまうほどに、みっちりと庭中にダチュラの花が咲いていた。ダチュラの芳香はわたしの鼻を擽る。この花は幻覚作用と、幻覚?いくら友の呪符を用いたといえどこんなに容易く刀剣男子たちを縛れるだろうか。ダチュラの花は人に対して強い毒性を持つが、刀剣男子たちは人よりも毒に対して強い耐性があるはずだ。死なない程度のダチュラの花を与えられていたとしたら?恐ろしい考えが頭を巡る、いくら何でもあのオークション会場の刀剣男子たちの様子はおかしいと思っていたのだ。あの加州も何かを例えばダチュラの花を与えられていたとすれば。全てのパズルのピースがひとつに嵌った。ここは彼らを操るための麻薬の材料であるダチュラの栽培場。あの審神者が支配人から贔屓されていたのは、父親が政府高官というだけでなくこのダチュラを使った麻薬を作ることができるから。そうやって刀剣男子を思いのままにしてきたあの変態共はこの審神者を庇っていた。だからこんなことになるまで事態が動かなかったのだ。地面に落ちたダチュラの花はわたしを嘲笑っているように見えた。本当に人とは愚かしく、どうしようもない。皆死んでしまえばいいとさえ感じた。腹の底から煮えたぎるマグマのような怒りが湧き上がり、わたしの胸を燃やす。彼らの身削ってまで人間を守る必要などあるのだろうか。でも今はそれを考えている場合ではない。慌てて本丸へと上がり一期を追いかけた。わたしは見届けなければならない。一期の記憶の果てを。この部屋の向こうの惨劇を、見届けることはわたしの責務。本丸の一番奥にある審神者の私室へと近づいて行く。血の匂いもダチュラの香りで消されてしまいわからなくなる。ダチュラの花言葉は偽りの魅力、全くここの審神者によく似合う。ここまでの澱みをよく溜めたものだ。穢れに穢れたこれは部屋そのものが呪詛であり、様々な恨みつらみが下級の動物霊までも取り込み怨嗟の果てを化している。普通の審神者では気が触れ二度と現世には帰ってこれないだろう。人ではないこの身を疎んじることのほうが多いが、この時ばかりは呪われた血脈へと感謝した。記憶の中とはいえ気分が悪い。一期が私室の戸へと手を掛けたとき聞こえもしないのに、声を上げていた。もう温度をなくしたあまり質量の大きくない人型を見つけてしまったから。
「…っその扉を開けるな、一期!」
「主殿、入りますぞ。」
わたしの声は彼の耳に届くことはない。見てしまえば彼の心は壊れてしまう。反応のない審神者を怪しんで一期は扉を開けて入ってしまった。後から手を伸ばすが届かない。届く訳はないのだ。私室の中はむせ返る程のダチュラの香りと血の匂いが混じった吐き気がするような臭いだった。私室からは微かだが腐臭がした。それを隠すためにこのダチュラの香りで刀剣たちの鼻を誤魔化していた。審神者の足元には血塗れの五虎退の屍と四体の虎が斬り殺されて転がっていた。血の海に沈む彼の小さな体はもう動かない。痛ぶられた体には無数の切り傷と苦悶の死に顔がはっきりとわたしからも見えた。一期も見てしまったであろう光景は地獄そのものだった。
「遅かったわね、一期。何度言ってもこの虎ったら躾が出来てないの。私のお気に入りの着物に粗相するなんて許せないわ。」
ね?っと言うように艶やかに笑むのはこの審神者だった。恐ろしく長いぬばたまの黒髪は美しく、やや紅潮した頬は乙女のよう。シミ一つない白磁の肌はしっとりとして触れてしまいたくなる。アーモンド型の瞳は漆黒、濡れたような色をして見る者を惹きつける不思議な力があった。無垢に笑ってはいるがその手には血塗れの日本刀が持たれている。この状況で何事なく普段通りの口調で話しかけ、幼子のように笑うこの審神者は確かに狂っていた。その狂気に呑まれて一期は見動きを取ることも、声を出すこともできなかった。日本刀を床に捨てて一期の胸へとしなだれ掛かる。甘い蠱惑的な声で誘うように、一期、一期と何度も呼ぶ。部屋の隅に無造作に転がされた屍は五虎退のものだけではない。平野や前田たち弟の屍があった。殺されてから随分と経ってしまったのか、腐敗が進み開かれたままの眼球はどろりと腐って落ちた。審神者の方には向かず弟たちの腐りきった眼球と目が合った瞬間、一期は床に踞り吐いていた。あまり食べてはいなかったのか、胃液がせり上がり酷く苦しそうな嗚咽を漏らした。
「どうしたの、一期?どこか具合が悪いのかしら。」
吐く一期にためらうことなく審神者は触れた。細い指が優しく彼の頬をなぞり美しく微笑む姿は聖母のようにも見えた。実際は部屋に腐りきった自分の刀剣男子の死体を放置して微笑む気の狂った女だが。この審神者は一期が好きなのだと、不意に悟った。頬を赤らめて彼を見つめる乙女のような恥じらいも、審神者の中では嘘偽りなき本当の気持ちなのだろう。理解はできないがただそう感じただけだ。嫉妬の、果て。一期を愛するがゆえに、この凶行。弟を愛することさえも許せなかった。全ての感情を向けられなければ納得できない。それを当たり前だと思う傲慢さ。
「どうして、こんな…弟たちをこのように惨い目に合わせたの、ですか?」
ダチュラの花の香りのせいで手が震え刀の柄に手をかけることするやっとな一期。感情さえも制限された彼の怒りに震える姿は見ていられない。目を背けることはできなかった。勝手に見てしまったとはいえ、わたしには最後まで見届ける義務がある。
「どうしてって、一期が私だけを見てくれないからじゃない。」
審神者と一期が分かり合うことはない。白と黒、完全に交わることのない感情。一期に男女としての感情、恋愛感情を向けている。やっている行為は狂人のそれだが、彼に向けるひたむきで純粋過ぎるその感情は狂気そのものだ。言葉の上ではいくら綺麗な言葉を並べても、純粋過ぎるそれは凶器と同じ。それを刀剣男子に理解しろというのは難しいだろう。一期の向けていた感情は主と審神者としての感情でしかない。思いの一方通行の果てにこの凶行が行われたとすれば、言葉に形容できなかった。
「そんなことの為に私の弟たちをこんな目に合わせたのですか。あなたが憎い、憎くてたまらない…っ!」
静かな怒りを秘めた声が響く。わたしの見たことがある一期がこのように怒りに震える声など聞いたことがない。鞘から抜き放たされ真剣を審神者に向かって構えた。ダチュラの花の香りで満たされた部屋でそれはどれだけ辛いことだろう。四肢は震えて本来の力の十分の一も出すことができない。痛々しいその姿に触れることも声を掛けることもできず、ただ後から一度だけ抱きしめた。もうこの先の終わりを知ってしまった。すべてを失った彼をわたしは見てしまったから。人への怨嗟の声と憎しみに溢れたあの瞳を忘れられない。折れてしまった弟の刀を抱えて鈍色の檻に閉じ込められた一期の姿を忘れてはいけないのだ。わたしはまたあなたに会うことができる。これから話すことはたくさんあるはず。そして、一期が薬研をなぜ恐れたのかもう気づいてしまった。この先の果てを見届けなければ。
「私に刀を向ける一期なんて知らないわ。一期はいつも笑って主殿って優しく呼ぶの。弟が呼んでも主殿が先ですって嗜めるのよ。それを待っていてくだされ、主殿って答えはないはずよねぇ。そんな一期一振いらない。パパに言ってもっと私の求める一期一振を買ってもらう。」
審神者の口調が崩れていく。冷静さがなくなり、狂気が露わになる。確かに一期のことは好きだったかもしれないが、彼女の求める理想の一期一振であってそうでない彼など否定してしまう。あくまでも一期一振という刀剣男子の器だけが好きだったのだ。愚かで浅ましい人の醜い所を寄せ集めたような女だ。外見はどれほど取り繕っても臓物から溢れ出る死臭は消せない。一期の右肩の外套が翻り、刀を下ろすが一瞬遅かった。審神者の白刃が彼へと振り下ろされた。きっと一期の肉を切り裂き、血の雨が降るだろう。その時は来なかった。彼を押しのけて庇うように薬研が目の前へと踊り出たからだ。薬研の血の雨が降り注ぐ。小さな体に日本刀は突き刺さるが抜けないようにしっかりと掴んだ。黒い手袋には血が滲み、それよりも傷は致命傷だった。ただでさえ、ろくに手入れもされていなかった薬研の体ではもう長く持たないことはわかってしまった。薬研の血がわたしの頬へと掛かる。自分の近侍でもある彼が傷つく様を直視できなかった。口元を抑えて悲鳴を噛み殺した。わたしの薬研ではないとわかっていても、見れなかった。一番思い入れの強い薬研藤四郎が傷つく所をこれ以上見れなかった。
「薬、研。なんて、お前が私を庇うなどそんなっ!」
「逃げろ…いち兄早くし、ろ。俺も長くは持たない!乱、いち兄を連れていけ!」
「私がそれを許すとでも?」
薬研の体に刺さった刃を無理矢理引き抜こうと審神者は力を込めた。決して刀が抜けないように薬研は手を離さなかった。そして紫色の瞳は審神者から目を逸らず屈しなかった。怯えを見せずに余裕だと言わんばかりに一期へと笑ってみせた。もう薬研は持たなくとも、最期まで己の誇りを貫こうとしていた。薬研が入ってきたであろう扉から乱が一期へと駆け寄った。乱も覚悟を決めた瞳に迷いはなかった。自分よりも大きな体格の一期を連れて外へと向かって走った。
「走って、いち兄!このままじゃ薬研のしたことが無駄になっちゃう!」
悲痛な乱の叫びにようやく自我を取り戻したのか辛子色の瞳に生気が戻った。薬研の噛み殺した悲鳴を背に長い廊下を駆け抜ける。振り返れば追い付かれるだろう。本丸の大門へとひたすら走った。外へと出た時には黄昏れ時だったのか、陽は沈みかけて禍々しい程の赤い空だった。空が燃えていた。鮮やかな赤と橙の色は燃え盛る大阪城で見たものだ。舐めるようにすべてを燃やしていく炎にこの空はよく似ている。けれど今はそんなことに構っている余裕はない。乱と一期は必死になって大門を押すがなかなか開かない。元々審神者の許可がなければ大門は開かないものだ。それを無理矢理開けようとしているのだから時間が掛かる。もう少しで審神者は追い付くだろう。
「乱、お前一人だけでも逃げなさい。何とか時間稼ぎはしよう。」
「そんなのやだよ、いち兄!」
「お前たちの兄として最後に出来る事をさせておくれ。」
泣きそうな表情をする乱へと一期は優しく声をかける。二人で逃げることは難しいとわかっていた。干渉することのできない我が身をこれほど恨むことになるとは。よく知った力が本丸に干渉しようとしているのを感じた。呪符の力を頼りにこの大門を開けようと審神者の力に抗い、取り込もうとする存在がいた。これは友の力だった。どこからか、この出来事を見ているのか審神者によって刀剣男子を縛る為に使われていた呪符の力を反転させて二人に協力しようとしている。少しずつではあるが動き出した大門を何とか開けようと二人は力を再度込めた。
「間に合わなくて残念ねえ。」
美しい顔を血で染めながらも、薬研の血のついた日本刀の刃を乱へと向けた。鬼気迫る表情は般若の面と同じだった。般若の形相をしながらも言葉だけは丁寧に、感情を抑えたその声音はより恐ろしかった。
「一期、あなたは最後に殺してあげる。あなたの大切なものを全て目の前で殺してあげる。私の思いに答えないのが悪いのよ。」
「逃げなさい、乱!」
声を上げて乱を庇い抱きかかえるようにした一期の体を思い切り突き飛ばした。乱に突き飛ばされた一期は茫然とした表情を向けた。
「乱!乱、お前っ…!」
「いち兄、ありがとう。大好きだよ。」
大門は彼の体重を受けて重い音を立てながら動いた。審神者の集中が乱へと向った瞬間、力の均衡が崩れた。友はそれを見逃さずに大門へと干渉した。飯綱が扉を開けるのを確認した。一期の体はバランスを崩し、倒れ込むがその手に折れてしまった弟たちの刀を乱は持たせた。しっかりと握らせて儚げに一度笑って大丈夫だよ、いち兄と呼ぶ。
「ここは死んでも通さない!栗田口が短刀、乱藤四郎推して参る!」
一期へと振り返らずに短刀を構えて審神者の方へ走った。力を抑られ、刃向かうことを禁じられた乱の力では殺されてしまう。それをわかっていても、乱は兄の為にここを動かないと決めていた。決して、引かない引いてはならない。ただ一人、自分たちの兄が生き残ればよかった。怒りに震える審神者の刃を受けながら思い切り笑ってやった。永遠にいち兄はアンタのものになんてならない。
「ざまあみろ。」
審神者はそれを聞いたのか、乱の体を生きながら切り刻んだ。悲鳴を上げたりはしないと心に決めた。どんな惨たらしい目に合わされてもこんな奴に屈さない。帽子は地面に落ちて血で汚れてしまった。いち兄が可愛いと褒めてくれた衣装だったのに、血でこんなに汚れてしまったことだけが残念だった。薄れ行く意識の中でいち兄が無事であればそれでよかったと一息吐いた。もう大丈夫、安心して他の兄弟たちの所へと逝ける。審神者の私室へと置いてけぼりにされた平野や前田たちの遺体を回収してやれなかったことだけが残念だった。きっと優しいいち兄は自分たちが彼を庇って死んだことに気を病むだろう。気にしなくていい、いち兄は乱たちを庇ってたくさん傷ついた。とても珍しい栗田口唯一の太刀であるいち兄と乱たちでは価値が違う。悲しまないでほしいと思う。生きて幸せになって欲しい。そのために失う命なら乱は幸せだった。ただ優しい兄の心を病ませてしまうことを後悔している。
「ごめん、ね。ボクたちの代わりはいるから。」
だから気に病まないで幸せになって、いち兄。
乱の体を壊し尽くして満足したのか、審神者は日本刀を投げ捨て本丸へと帰っていく。置き去りにされたままの乱の遺体へと近寄った。爛々とした光を湛えていた青い瞳は硝子玉のようになってしまった。一期の記憶からわたしの意識は離れていこうとしている。彼の側へとしゃがみこみ触れられない頬へと触った。温度が失わゆくその体はどんどん冷えて、乱藤四郎であったものへと変わってゆく。
「よく頑張ったね、もう痛い思いもしなくていいから。いち兄のことは任せて、何とかするから。もっと早く助けてあげられたら良かったのに。遅くなってごめんなさい。」
涙が溢れて止まらない。なんて惨いことをしたのだろう。どうしてこんなことができるのか理解できなかった。無残に壊された刀剣男子たちの姿を忘れないように目に焼き付けた。あのオークション会場に行くまでの間は一期は彷徨い歩き、その果てであそこに売られたのだろう。彼が人に絶望するには十分過ぎる程の痛みだった。だんだんと意識は浮上して現世へと戻っていく。彼の記憶の波は引いていった。わたしが見れるのはここまでのようだった。
「主、大丈夫か?」
わたしの顔を心配そうに見つめる薬研の姿を確かに見たような気がした。浅葱色の波の果てに辛い記憶の残滓に触れてしまった。あの時オークション会場で感情が高まり、力のコントロールができず一期の記憶と同調してしまった。彼はこんな奥底まで見られることを望んではいなかったはずなのに。申し訳ないと思った。それでもあんな惨い本丸での出来事は言葉にならなかった。わたしは自分の体を強く抱きしめた。あんな思いをしてしまった一期の心はバラバラになって、砕け散ってしまった。目の前で弟たちが自分を庇って死ぬなど彼にとっては一番の悪夢だろう。浮上してゆく意識に身を任せて今後のことをぼんやりと考えた。



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