不意に夕日で淡い橙色に染まった帰り道を見てあの小麦畑を思い出す。
あの男との戦闘で負った怪我を押さえながら走って逃れた先は一面黄金の小麦畑だった。

血が滴る感覚に歯を食いしばりながら丘に登ると日は沈み、月が輝く夜空が浮かべばまるで小説の次の章に飛んでしまった様な気分になったのをよく覚えている。
たった数分で全く変わった景色と風の香りに目を閉じると番犬は後ろから僕を追い詰め、その牙を深く差し込んだ。

乾いた銃声と同時に背中を襲った激痛に倒れこむと男はいなくなり、暫く一人朦朧とする意識と戦う。そこにまた足音がして先程より軽いその音に痛みを忘れて笑みが浮かんだ。

「…馬鹿」

その一言は愛して止まない声で紡がれ、可哀想なことに震えていた。君を泣かせているのは僕だろう、間違いなく。

目を瞑れば鮮明に浮かぶあの時の光景を脳内で再生しながら歩いていると目当ての本屋の前まで来た。
店長の趣味で揃えられた数々の本はどれも趣味の良いものばかりでその店を手伝っている彼女も実に楽しいと頬を桜色に染めていたのは半年ほど前だっただろうか。

「Grazie!」
「Inoltre vengo」
「Aspetto」

店の中から聞こえてきた楽しげな声にドアを開けるとちょうど出てきた客とすれ違った。

「Ciao」

投げかけられた軽い挨拶に同じものを返して少し涼しい店内を進んでいくとカウンターの奥で何かを記入している彼女の姿が見えた。

「Mi scusi」
「Si…あれ、聖護?」
「なんだ、すぐに気付かれたね」
「そりゃ分かるよ いくら聖護がイタリア語上手くてもね」

元々は彼女がイタリア語なら話せるから、とイタリアに逃げて来たのに僕が思いの外早く習得してしまったのが面白くないらしく大袈裟に肩をすくめた。

「発音なら名前だってネイティヴに近いじゃないか」
「私は小さい頃から習ってるから聖護とは歴が違うの」

そのインテリやっぱりやだなと煽る様な声色で言う名前は僕が声をかけるまでしていた作業を再開した。

「どれくらいで終わりそうかな」
「それは独り言?それとも質問?」
「今のは後者だね」
「あと10分もすれば終わるよ」
「そう」

カウンターに積まれた本の背表紙を一つ一つ目で追っていると名前が手を止める。

「あっちの棚、店長のおすすめが新しく入ってるよ」
「へぇ」

相槌を打ちながら見ていた本の山から一冊を抜き出して表紙を指でなでる。ハードカバーはやはり指触りがいい、と目を細めながら。

「これを選んだのは?」
「…私」
「だと思ったよ」

鮮やかで華やかな文体を好む彼女が薦めそうな作家だ。

「谷崎か…いいね」
「あっちにいた頃は谷崎が好きだなんて言えば変態扱いされたけどね」
「仕方ないさ、彼らは偏愛を嫌う」

鼻で笑った彼女の手元を見れば白い紙の殆どが綺麗な紺色で埋まっていた。10分も掛からないだろうと手元のページを捲ると本棚の裏からにこやかに微笑んだ男が顔を覗かせた。

「Shougo!」
「Ciao Direttore」

初めの頃この老人をDirettoreと呼んだらイタリアではジャポネーゼの様に仕事名で人を呼ばないよと注意されたがそこに拘りたい、と言えば彼は快く承諾してくれた。
それ以来僕らはその気のいい男をDirettore、つまり店長と呼んでいる。

『また名前の迎えかい?』
『ええ、仕事がひと段落ついてので』
『君は本当に彼女想いだね』
『僕に残った唯一のものですから』
『ははっ いいね、愛は素晴らしいよ』

ウィンクをした彼は所で、と話を変える。名前がボールペンを滑らせる音はまだ止まない。

『次はどんな題材にしてるんだい?』
『そうですね…簡単に言えば裏切りでしょうか』

それは面白そうだと微笑んだこの男は相当な本好きであり、いい目を持っている。

『今や作家、Shougo Makishimaを知らない読者家はこのイタリアにいないだろうからな!』

新作も飛ぶ様に売れるだろうさと店長が言い終わると名前が立ち上がった。

『店長終わりました』
『お疲れさま』
『じゃあそろそろ失礼しますね』
『ああ、また明日』

手を振る彼に見送られながら家路に着く。自然に手をつなげる様になったのはつい最近の事だった気がした。

「今日の夕食は何がいい?」
「君かな」
「…ねぇ、寒い」
「そんなにはっきり言わなくても」

精緻と呼ぶにはあまりに冷酷だったあのシビュラという呪縛の下で生きていた頃よりもずっと開放的で人間らしい日々。ずっと望んでいたそれを今こうして謳歌出来ているのは隣にいるこの愛おしい女のお陰だ。

「まさか僕が本を書く側に回るとはね」
「急にどうしたの」

そんなの前からじゃない、と笑う名前。

「いや ただあの頃は予想だにしなかっただろう?」
「まあ確かにね」
「それも一年前の僕は全く喋らなかった言語で、だ。世界は何が起こるか分からないなんて事をこんなに実感した事はないね」
「大げさだよ聖護」

繋いだ手を大きく振って笑う名前を肩が触れ合う距離まで引き寄せてその髪にキスを落とす。

「でも事実だ」
「んー…それを言うなら今聖護とこうしてるだなんて三年前の私は信じられないだろうね」
「それもそうかな」

僕達が出会った三年前のあの日、名前は降りしきる雨の中雨宿りをしようと僕が座っていたカフェに入って来た。席がいっぱいな事に苛立たしげに眉を寄せた顔が印象的で相席で良ければと声をかけた、それがきっかけ。

「確か教師だと言ったら信じて貰えなかったんだったかな」
「うーん…だって教師には見えなかったから。妙に胡散臭かったし」
「ふ、酷いな」

息を漏らして笑えば名前は今も胡散臭いよーとわざとぶつかる。少しだけよろけて半歩ズレれば彼女はまた満足気に微笑んだ。

「自分の恋人を胡散臭いと言うのは問題がある様に思えるけど」
「そうだね、でも胡散臭いところも好きだからいいの」
「変わってるね、君は」
「貴方だって」

この会話は次の本に使えそうだと脳が働く辺り、作家業が板に付いてきたのではないだろうか。

「んん、眩しい」

ビルの合間から降ってくる夕日に名前は顔を背けて目を細める。
初めて出会ったあの日も、僕が死にかけたあの日も、今日も…

「名前に降る雨はいつだって綺麗だ」
「ん?」

今は夕日がキラキラと彼女の睫毛に反射してまるでグリッターでも塗っているかのよう。

「あの日の月光だってそうだったよ」
「なんだ、初めて会った日の事かと思った」
「勿論それもそう」
「太陽や月の光を雨に喩えるだなんて聖護も昔よりロマンチストになったんじゃない?」
「そうかな」

昔は冷徹なリアリストのイメージだったから、と彼女の唇は弧を描く。

「クールな貴方にもう会えないのは残念だね」
「だとしたら僕を変えたのは君だよ 勿体無い事をしたかな」
「でも今のロマンチストな聖護も好きだからいいよ」
「全く…」

もうすぐ二人の家に着く。リビングに入ったらまず紅茶を入れるのは彼女の癖だから一緒にキッチンまで行って後ろから抱きしめよう。
きっと邪魔だとか動けないだとか文句を言うんだろうからその唇を塞いで一日中離さないでおこう。

「嗚呼、楽しみだ」

刺激はなくとも平穏な日々がこんなにも愛おしいとは、一年前の僕は知る由もない。


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