昔のあたしという人間は周りが見えていなかった。あの古泉くんが、あれほど自分本位な人はそうそういるものじゃないと昔を思い出して苦笑いを浮かべるほどに(そのあと彼は慌てる様子もなく笑顔で、あ!勿論褒め言葉なんですよ〜と言っていた)。つまるところ、我儘だったのだろう。自分を中心に世界が回っていると信じて疑わなかったあの頃。欲しいものは恫喝してでも手に入れてきた。例えば書道部に在籍していたみくるちゃん、コンピ研のパソコン、校長室のソファーエトセトラエトセトラ。思い通りにならないと気に食わなかったはず、なのに。そんなあたしが手に入れられなかった唯一のもの。

 高校を卒業して大学二年生になったころから、キョンは名前と付き合いはじめた。今でもはっきりと覚えている。ハルヒちゃんと二人で話したいことがあるの。そう言われたから講義の後に寄ったカフェ。向かい合った名前とあたし。カフェオレとアイスティーを頼んだあと、どうでもいい話をだらだらと喋る名前。そんなこと話すためにここに来たんじゃないでしょ。話を催促するあたし。うん、そうなんだけど…。もじもじし始める名前。で?話したいことってなんなの?アイスティーを飲みながら聞くあたし。えっと、と言って少し顔を赤らめながら口籠る名前。早く言いなさいよ気持ち悪いわね。少しイライラするあたし。あのね、そう言って一呼吸置いた名前。名前はカフェオレに全く口をつけない。手持ち無沙汰みたいにおしぼりを畳んだり開いたりしている。アイスティーの氷がカランと音をたてた。ハルヒちゃん。名前の口が再び動き始める。わたしとキョンくん付き合いはじめたの、照れ笑いしながら言う名前。
 あたしはこの時まで、名前の話したいことというのは、例えばお父さんの誕生日プレゼント何がいいと思う?とか、独り暮らししようと思ってて、みたいなありふれた、でも名前にとってはちょっと大したこと程度の報告や相談だと思ってた。大きい相談でも、せいぜい大学生に有りがちな、留学しようと思ってるの程度の。名前は昔からあたしを頼ってくれて、どんな些細なことでもあたしに相談したり報告したりしてくれたから。
 だからまさかこんな話をするとは思わなくて。正直青天の霹靂だったけど、なぜか驚きを態度や顔に出さないように努めた。あたしはそう、よかったわねと笑いながら、心の奥では全く祝福していない自分がいることに気がついた。
 ありがとう!でもね!わたしやキョンくんに気遣わないでほしいの!これからもみくるちゃんと有希ちゃんと古泉くんと、ハルヒちゃんとキョンくんとわたしで遊んだり旅行に行ったりしようね!ほんとにほんとになんにも気遣わないでね!あと、ずっと相談しなくてごめんね!ハルヒちゃん優しいから色々気まわしちゃうって思ったら言えなくて。と名前は矢継ぎ早に話す。あたしはわかってるわよ、ととても物分かりの良いふりをする。
 まだあの三人には話せてないんだけど、ハルヒちゃんには一番に報告したかったの!だってハルヒちゃんはわたしの一番の親友だから。あとね、わたしがキョンくんと出会えたのはSOS団を作ってくれたハルヒちゃんのお蔭だと思うの!だからほんと、ありがとう!そう言ってとても幸せそうに笑った名前。
 コールタールみたいに臭くてどす黒い何かが、そのときのあたしを支配していた。これは何なのかと自問する。すぐに答えは出た。妬み嫉み僻み、だ。名前の笑顔の向こう側に、あたしはキョンへの恋心を見つけてしまった。

 名前がとんでもない悪女なら、と考える。ものすごく性格が悪くて、みんなに嫌われていて。其処にいるだけで害悪の存在。そんななら。じゃああたしは、キョンはあんたに渡さない。あれはあたしのよ。返しなさい。間違いなくそう言ったのに。そんなことを考えた。キョンとあたしは付き合ってもいないのに。そして気付く。そもそもの根本的な間違いに。それはキョンはあたしのものじゃないし、その前に誰のものでもないという当たり前のこと。

 どうして。どうして今なの?どうしてあたしはキョンがほかの人間の男になった瞬間にキョンが好きってことに気付くの!キョンに意地悪をしてみたり、こうやって自分のものみたいに振る舞ったわけを今のあたしなら簡単に説明できる。よくよく考えればいつでも気がつくチャンスはあった。じゃあ、なぜ気づかなかったのか。それはいつだって自分のしたいことしか考えなかったから。勝手な自分が情けなくてたまらなかった。

 あれからのあたしはとても苦しかった。あたしが自分本位なら名前は愚鈍だったのだろう。あたしの気持ちにも気付かず名前はあたしにダメージを与えていく。昨日のキョンくんはあんなだった、キョンくんと喧嘩した、キョンくんがプレゼントしてくれたの。キョンくんキョンくんキョンくんキョンくん…。もう、やめてくれ。鋭く尖った爪で傷口を抉られるみたいにきりきりきりきり、あたしの心は次第に血塗れになっていく。

 名前のことが嫌いになれたら、と思った。こんな話を聞かずに済む。じゃあ今より比較的精神衛生上穏やかに暮らせるだろう。いつものあたしなら思いつく限りの罵倒でも浴びせて縁でも切っているはずだった。でも名前に対してそれをすることは躊躇われた。何故って名前は善人であり初めて出来たたった一人の親友だったから。ちょっとどんくさくてぼんやりしてて。そして誰より優しかった。愚鈍だけど。名前を嫌う要素なんてありはしなかった。寧ろ何故だか人間として好きになっていく一方だった。余計に性質が悪い。
 素直に応援したかった。見守りたかった。こんな気持ち、気づきたくなかった。
 もしもう少しあたしが自分勝手じゃなかったら。
 もし名前がキョンを好いていなければ。
 もしキョンが名前を好きにならなければ。
 考えることはすべてもしもの話ばかりだった。本当の意味で性質が悪いのはあたしのほうだろう。

「あんたもすごいわよね。自分のキャリア捨てて旦那に着いていくんだから」
「わたしのはハルヒちゃんと違ってキャリアっていうほどのものじゃないし」

 名前は苦笑しながら言う。みんな大学を卒業して、社会人になってそのまま名前とキョンは結婚した。そしてキョンの急な転勤で遠くに行くことになった。旦那のキョンは仕事の関係で先に現地へ行ってしまったらしい。

「ねえ、ハルヒちゃん」
「なあに?」
「ハルヒちゃんと離れるの、寂しい」
「キョンがいるじゃない。馬鹿ね」
「でもハルヒちゃんがいないとつまんない」
「あらありがと」
「一緒にいこ?」

 本当にあんたは馬鹿ねと笑いながら、あたしは名前をぎゅうと抱きしめた。空港内にアナウンスが響く。名前の乗る便が読み上げられると、彼女は私の背中に回した腕に力を込めた。名前の腕が小さく震えていて、そこから彼女の気持ちが伝わってくる。新しい土地への不安、急な辞令への戸惑い。向こうで友達できるかな、社宅で揉めたりしないかな。あたしからするとちっぽけなものだけど、名前からしたら大きなものなのだろう。あたしの胸がぎゅっと締め付けられる。

「寂しいんなら、ここにいたら?今の時代単身赴任なんてよくあることよ」
「…でも、やっぱりキョンくんのそばにいたいから」
「…そう。盆暮れ正月くらいは帰ってくるんでしょうね?」
「うーん…。まだわかんなくて」
「あんただけでも帰ってきなさい。これは、そうね…、団長命令よ」
「…うん、わかった。団長命令だもんね」

 名前がわたしの肩に顔を乗せて、懐かしそうに笑ったのがわかる。私は名前から離れて、久しぶりに言った団長命令ということばに気恥ずかしくなって顔をそらした。

「体に気を付けるのよ。なんかあったらすぐ連絡しなさい」
「うん、ありがとう」
「あんたのためならどこにだって駆けつけてあげる」
 そう言うと名前は大きな瞳に涙を沢山溜めはじめた。

「ハルヒちゃんはわたしの憧れだったの」
「急に何。どうしたのよ。最後の別れじゃないのに何言ってんの」
「わたしずっとハルヒちゃんみたいになりたかったの。まだなれないまんまだけど」
「あたしみたいにって…どんな?」
「いつも自信があって、なんでも出来て、堂々としてて、きらきらしてた」
「きらきらって何それ」
「上手く言えないけど、なんかいっつも眩しかった。ハルヒちゃん」
「あんた時々よくわかんないこと言うわね」

 あたしがそう言うと名前は小さく笑う。

「それは、そうかも」
「…もうそろそろ行かないといけないんじゃないの」

 そして名前は何度も何度も振り返りながら大きく手を振った。涙をぽろぽろ溢しながら名残惜しそうに。あたしは彼女が見えなくなるまでにこりと微笑んでいた。ようやく歩くことが出来るようになった子供を見守る母親を必死にイメージした。子供なんていてないけど。そうしてないとあたしも涙が出てとまらなくなりそうだから。頑張んなさい、と口から出かかったけどぐっとこらえた。そのかわり、いつでも帰ってきていいんだからね、とも言わなかった。
 名前の姿が見えなくなった瞬間、咳を切ったようにあたしは早足で空港を後にする。飛行機が飛び立つところなんて見たくない。一刻も早く、名前との別れの寂しさから逃れたかった。何かに背中を押されるかのように前のめりでずんずん歩く。
 途中でコンビニに寄って、アルコール度数の高いチューハイを買った。コンビニから出てその場でプルタブを開けて、喉に流し込む。ナニコレまっず。でも急かされるようにそれを喉に流し続けた。昼間にコンビニ前で缶チューハイを一気飲みするあたしを、高校生の頃のあたしが見たらどう思うのだろうか。きっとこんなのがあたしなはずないと怒り狂っていただろう。

「あたしになりたいだって、」

 笑ってしまう。好きな人を振り向かせられなかったあたしに。というか振り向かせる以前に、自分の気持ちに気付くこともなかったあたしに。昼間から道端で酒に溺れるようなあたしに。そんなあたしになりたかったと彼女は言った。…ほんと。笑ってしまうわ。
 自信があるからなんだ。なんでも出来るからなんだ。堂々としてるからなんだ。あたしがきらきらしてるって、なんだ。本当の意味できらきらしてたのはあんたよ、名前。好きな人との生活を手に入れて。あんたが羨ましくて仕方がなかった。
 水色の絵の具で塗ったみたいな空にぽつんと飛行機が一機。あれに名前がのっているのかもと考えると、ほろ酔い気分も手伝ってとても愉快な気持ちになる。そう。今は軽く酔ってるから。だから。誰に言うでもなく言い訳をして、あたしは呪いを唱える。あたしのことばには力が宿って必ずその通りになるだろう。確信なんかないけど。チューハイをもう1本空けて、空を見上げてあたしはわらう。そう。これは祝福のことばでもなければ純粋な願いなんかでもなく、永遠に解ける事のない呪いだ。ざまーみろ。

「名前なんか、孫に囲まれて笑いながら死ねばいいんだわ」

ああ、本当。笑ってしまう。

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