あれは、口にするのを戸惑ってしまうほど美しい世界だった。私達にとっての一番最初、はじまりで、透明だけれどそこに存在している水晶のような世界に私達はかつて生きていた。すっと息を吐けばそれだけで色が生まれ、声を放てば太陽が透けて通っている森の中心部に緩やかに引き込まれる。今でも瞼を閉じれば私の奥に透ってくるそれは、何度目かの昔とは思えないくらいの眩さがあった。奇跡的なまでに脆く無知であった私達はそのまぼろしや夢ともとれる美しさに、それはそれは歓喜しこれは唯一無二の運命であると信じきっていた。そして、何よりもその美しさを理解している私達は善であると過信し、対極に存在する悪を排除しなければならないのだと確かな思いを抱いたのだ。
 悪は何を為しても悪である。どこかの分娩室で小さな人間が産声を上げるように真実が生まれた。私の周りにいた人々は真実を歓声で包み込む。その顔は達成感からか緩みきっていて、ろうそくのようにどろどろと溶けているように見えた。美しい、なんて美しい世界になったのだろう。誰かがそう言って笑うから、私の頭の中は縦と横に、そしてブランコのように揺れて目と鼻の近くが熱を持った。わさびを過剰に摂取してしまった時のような痛みがして、血が出ている気さえした。鼻を押さえ、人々から一歩後ずさりをした時に何かを抱えた一人の人間がやってきて私に語りかける。腕に抱えた本物の命のような大きさのそれを私に差し出してから、目の底が透けて見えそうなほど真っ黒な目だけで笑った。それから和紙のような、柔らかいけれどざらざらとした声で言う。これが名前ちゃんの焦がれた真実だよと、そう、言った。私はその人間が誰かをよく知っている。
 それが私の美しい世界の終わり。悪を追い求め、その答えを出した私は水中で溺れているかのような思いもよらない苦しみに襲われていた。悪のない世界は美しいはずだった。その証拠にいつかの金曜日の夜に放送していた、悪を取り除き世界の謎を解くハリウッド映画の結末にあった世界は美しいと思えた。映画の中の世界も私のいる世界もそうは変わらない美しさを持つ。ただ、私の信じて疑わなかった美しい世界には足立さんと言う悪がいて、足立さんと言う悪と少なからず笑い合った人物だっていただろう。それから。
 それから、たくさんの何かをもらった人物がいた。あの人から無意識に与えられたものは形容し難い何かだった。それをあえて何かに例えて見るならば、インクをたっぷりとつけたペンを紙の上で持ち、夜明け前を濃縮したような液が下へ垂れて行くのを見ているだけの時間。ただただぼうっとペンを持っているだけ。それは無意味で無価値だけれど、どうしてだか紙に染みて少しずつ広がるインクを眺めずにはいられないのだ。何重にもインクが重なり、紙が元の色を無くしてもそれでもやめられなかった。気づいた時には私の周りには夜明けの海がずいぶんと未来まで広がっていた。あの世界に比べればいくらかは劣ってしまうが、美しいことに変わりはない景色が私を毛布のように包み込んだ。暖かい。心臓の近くでマッチが優しく踊っているような、涙が出そうなほどの暖かさだった。私は、その海で息が出来なくなることを恐れると同時にこのままで構わないと思ってしまう。そこに理由なんてなかった。終わりのない世界で誰かに溺れて行くことに、恋をすることに。理解しようとすることこそが無意味だった。それは他人に口で説明することの出来ないものであり、私はそれにひどく心をうたれた。
 ときたま、たくさんの人が彼と私の間にいても彼だけがはっきりと見えることがあった。今、永くのびた記憶の糸を引いてみれば彼と出会った時も、彼との最後も望遠鏡を覗いたように足立さんが見えていた。終わりは特に糸のもつれた塊がある。あれは記者の戦場で、雨が降っていると言うのに皆傘を放り出して一台の車に群がっていた。厚い雲に覆われた薄暗い町に不自然な光が瞬いている中、私だけが傘の柄を握りしめて立っている。車が戸惑うように小刻みに動き出して警察の怒号が飛んだ時、私は思ったのだ。あの人も警察だったと。何かがどこかで違えば、足立さんも記者を散らす側だったのかと。どうしてそうならなかったのか考えてしまっていた私の前を記者がまとわりついたままの車が通って行く。車内は見えなかった。私はこれと同じ最後に何度もたどり着いてしまった。
 さようなら、もう会えない人。だけれど私は、真実を何度迎えようと涙を流すことはない。次の過去であなたが笑いかけてくれるから。それがつくられた物でも、足立さんが笑ってくれるから。だから、さようなら。私が、過去を繰り返す未来の海を泳いであなたを迎えに行くまで。雨の笑う声がずっと響いているままの海に浮かぶあなたを見つけるまで。そしていつか、何度も繰り返したいつかでいい。いつか、あなたと一緒にこの美しい輪から零れおちる枯れた花になることを、私は愛を誓うように願っている。


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