神崎颯馬の朝は早い。

今日も今日とて瑞々しい朝日を浴びながら瞳を閉じ、道場の中の静謐な空気に浸っていた。全身を刃のように研ぎ澄ませ、精神を無へと返し、自分の存在を限りなく希薄なものへと近づけていく。青々とした森に溶け込むような、明るい大空に羽ばたいていくような、どこまでも深い闇を抱える夜空の向こう側へ突き抜けていくような、そんな感覚の波に幾度となく自らをさらし続けた。

そして、その瞬間は訪れる。颯馬はそっと瞳を開け、世界の美しさを全身で享受した。
緊張感に満ちていた空間が、瞬く間に明るく鮮やかな朝の空気を孕み始める。障子越しに届く太陽の光が、あたりに散らばる色とりどりの木目をやわらかく包み込み、視界いっぱいを優しく満たした。

森羅万象に全身を抱かれているかのような無条件の安心感に浸りながら、颯馬はぴんと背筋を伸ばし、武士の魂たる刀を手にする。

肌が粟立つ感覚と共に、腕にずしりと心地の好い重みが圧し掛かった。身体に満ちる清廉な空気を溢さないように、ふっと呼吸を整える。足の裏を踏み締め、刀を握り、何より尊ぶべきそれを、ただ無心に振り続けた。

余計なものなど何一つ存在しない、自分一人だけの世界。その中でただ一つの行為に没頭し続けていると、朝はいつのまにか静かに終わりを迎える。


「颯馬くん」


道場の入り口にそっと射し込んだ日射しが、颯馬に昼の訪れを告げた。柔らかく空気を割いた明るい声に、胸の裡が穏やかな、けれど何よりも尊い感情で満たされる。握り締めていた刀を納め、彼女を出迎える姿勢を整えた。


「名前、いつもすまない」

「ううん。だって私、嬉しいよ。毎日こうして颯馬くんのお世話を焼けるから」


純白の柔らかいタオルで颯馬の汗を拭いながら、名前はそっと笑う。慈しみ、労るようにうっとりと細められた瞳の黒さが、心底眩しくてたまらない。

彼女の笑顔をもっと間近で見てみたくて、颯馬は淡く蒸気したそのやわらかな頬に掌を添える。名前は、驚いたように瞳を瞬かせたかと思えば、くすぐったそうに睫毛を伏せて桜のように微笑んだ。その瞬間、身体に蓄積していた疲労ですら瞬時に吹き飛ぶような、しあわせの感覚が身体中に満ちていく。

「でも颯馬くん、無理しすぎちゃ駄目だからね」

「うむ。だが、我はそこまで柔ではないぞ?」

「颯馬くんがちゃんと鍛えてるのは知ってるし、努力家なところだって尊敬してるけど、心配なものは心配なの。……だから、はい」

大きく腕を左右に広げて、名前は颯馬を柔らかくねめつける。怒ったような表情を取り繕っても、赤みが差した頬と僅かに緩む口許が、怒りは本心でないと告げていた。

彼女の意図が分からず首を傾げた颯馬に、突如やわい衝撃が訪れる。間近に迫った名前に抱き締められていることに気付いて、心臓の奥がカッと熱くなる感覚がした。

「ど、どうしたのだ名前……?」

「いいから。黙って私のことぎゅってしてて」

「だが、我は汗臭いだろう? 女人にあまり不快な思いをさせるなど……」

「そもそも、私が女であることは抱き締めるという行為を止める上での正統な理由にはならないし、私は颯馬くんの香りが好きだし、ただ単にくっついてたいだけなの。分かった?」

「う、だが」

「ぐだぐだ煩い! 私のこと好きなの?嫌いなの?」

「す、好いているに決まっておるだろう…! 我の一生を捧げると誓った言葉は、決して違えない」

「うん、知ってる。だからもう少しだけ、ぎゅってしててね」

「……しかし、恥ずかしい、のだ」


零れ落ちた颯馬の本音に、名前は笑って自分もだと答えた。どうしても格好のつかない自分に呆れつつも、颯馬は彼女を笑顔に出来たことが何よりも嬉しくてたまらない。

互いの体温が、極限まで溶け合ってひとつになってしまえばいいのに。そんな独り善がりな想いを抱きながら、颯馬は、一等大切にするひとの背中に言葉なく縋りついた。

甘えることは弱さではないのだと、いつか彼女が泣きながら言ってくれた言葉が頭を過る。颯馬は瞳を閉じ、世界の美しさを瞼の裏に押し込めた。

抱え込んだ不安から目を逸らしてはいけないと、分かってはいるのだ。しかし、どうしようもなく臆病な自分は幾度も顔を出し、胸を激しく掻き回しては消えていく。精神統一をしていても、彼女と共にいても、心に染みついた不安は絶えずそこに在った。


明日、颯馬は二十歳を迎える。人生をかけた決断をすべき時が、間近にまで迫っていた。







夜の帳が下りた寝室。二組の蒲団が敷かれたその部屋で、颯馬は瞑想をしながら全身を闇に浸らせる。

今夜は新月だ。無数の星が美しく浮かび上がる夜空から、そっと見下ろされている。底冷えするかのごとく暗く重たい漆黒の景色に、身体が持っていかれてしまいそうだ。そのような卑屈な思いが頭をもたげた弱い自分を、颯馬は胸の裡で激しく叱咤する。

最近は気付くとこれだ、と自嘲気味に口元を引き締めた時。ふと鼻をくすぐった石鹸の薫りに、単純ながらふわりと心が浮上した。耳に届いた控えめな足音が、期待を確信へと変える。


「颯馬くん」


名前は、僅かに湿った髪を揺らしながら部屋を訪れ、颯馬の隣に寄り添った。

共に住むようになってから一年以上は経つのに、相変わらず彼女の近くにいると心がざわめく。胸に渦巻くのは、喜びと愛しさと、ほんの少しの気恥ずかしさ。

出逢った当初から、彼女は変わらない。何事にも一生懸命取り組む心根の真っ直ぐさも、凛としながらも時折あどけなく微笑むやわらかな表情も。颯馬が道に迷った時、どうしようもなく苦悩を抱えてしまった時、名前はただ隣にいてくれた。颯馬と共に悩み、考え、時には仁王立ちしながらも叱咤激励してくれた。颯馬のために、涙を流してくれたことさえある。高校時代から繋がるこの縁を手放す気など、颯馬には一生無かった。


「名前」

「うん」


彼女の名前を口にするだけで、何故こんなにも心が安らぐのだろう。優しい相づちに背中を押されながら、颯馬はぽつりと溢した。

「……我はきっと、明日の決断を一生後悔することになるのだろうな」

自らが背負う神崎の名を、重荷に感じたことなど一度もない。剣の道において築き上げてきた華々しい歴史を誇りこそすれ、疎ましく思う理由など何一つなかった。だからこそ、颯馬が胸に抱える苦い思いはすべて、自身の未熟さに起因するものなのだ。

剣の道か、アイドルの道か。自分は、どちらかを選ばなければならない。道場を継ぎ、剣道の大家として技を極めるか。アイドルとして、芸能界での仕事一筋で生きていく選択をとるか。

どちらも両立できるほど自分が器用でないことを、颯馬はよく分かっていた。


「私は、どんな颯馬くんだって大好きだよ」


闇に引きずられそうになっていた意識が、彼女の柔らかい掌の温度をただ感じ取る。重なる温度の優しさが、痛いほど胸に刺さった。

生まれてからずっと積み重ねてきた時間を、経験を、想いを。すべてを無駄にしない生き方をしたかった。何もかも抱えて、何もかもを糧にして、誰にも迷惑をかけずに生きていたかった。


「颯馬くんがどんな選択を選んだとしても。私は、全力で颯馬くんを応援するから。何があっても、颯馬くんの味方だから。誰に何を言われたって、そんなの私が蹴散らしてあげるから。……だから」


自分よりも余程泣きそうな顔をしているそのまろやかな頬に手を添えてから、颯馬は溢れる感情のままに名前を掻き抱いた。

自分は、彼女に誇れる人間で在りたい。彼女を幸せに出来る唯一の存在になりたい。だがきっと彼女は、そんな小さな目標なんて馬鹿らしいと笑い飛ばすのだろう。

颯馬は口元を引き締め、ゆっくりとした動作で彼女と目線を合わせる。名前は、苦しそうに柳眉をひそめながらも、気丈に笑みを浮かべていた。愛しいと、ただそれだけを思った。
 

「名前」

「……うん」

「どちらを選んでも後悔するならば、我は、より後悔が少ない方を選ぼうと思う」


驚愕したように目を瞬かせた彼女の瞳から、ほろりと涙が一筋零れた。その美しさに目を奪われつつも、颯馬は自らの指でそっと拭い、それから彼女の目元に唇を寄せる。


「覚えているだろう? これは昔、名前から貰った言葉だ」

「……私、そんなの今まで忘れてたよ」

「貴殿から貰ったものはすべて、我の宝物であるからな。零れ落ちる言葉のひとつひとつも、伝わる体温も、向けてくれる笑顔も、悲しみも怒りも」


神崎颯馬は、どうしようもなく不器用で、目の前の事しか見えないから。だからせめて、隣にいてくれる彼女の笑顔を守りたかった。


「……私、思うんだ。颯馬くんには、世界がとてもきれいに見えてるんだろうなって」

「む。それを言うならば、我より名前の方が余程、」

「今はそういうのいいから。黙って聞く」

「も、申し訳ない……」

「ーーー馬鹿みたいに繊細で、不器用で、努力家で、それでいて真面目で優しくて。だからこそ颯馬くんには、たくさんの人を幸せにする力があるんだよ。颯馬くんが見ている世界の美しさを、私は、たくさんの人に知ってもらいたい」

名前は、笑った。颯馬の瞳を真っ直ぐに見つめ、心底幸せそうに顔を綻ばせている。

「それが剣の道であれ、アイドルの道であれ、きっと颯馬くんがやることは変わらないんだと思う。どうしようもなく苦しい事があったとしても、私が一緒に背負うから。いくらでも私につらく当たったっていい。だから、颯馬くんは自分の信じる道を進めばいいんだよ」

彼女の決意は、どこまでも真っ直ぐで、思い遣りに溢れていた。心臓をまるごと掴まれたような感覚に、颯馬は笑いながらそっと泣いた。自分は一生、彼女に敵わないのだと思った。それは、とても幸せなことだった。


明日、颯馬は大人になる。自分の生きる道を定める、その日を迎える。けれど、既に不安など無かった。

彼女の大きくてまるい瞳に、無数の星が反射してはキラキラと輝いている。その眩しさに目を細めながら、颯馬は自分達の明るい未来に思いを馳せた。

頭上の夜空は、やわらかい星の光で溢れている。彼女が瞬く度に、颯馬の心に沁み渡るかのような煌めきが散っていく。その奇跡に満ちた光景に、息の詰まるような思いがした。

そして、長い夜は静かに終わりを迎える。何よりも尊く美しい、世界のはじまりを告げる音がした。


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