寝台の上、薄いブランケットにつつまり、いざ夢の世界へ旅立とうとしていたその時、こんこんとドアを叩く音がした。夢の世界に旅立とうとしていた私は、その音でぱちりと目を開いてしまった。こんな夜中に、何事だ。折角、いい感じに夢の世界へ誘われていたというのに。暗い部屋の中、目を細めて、ヘッドボードの上に置いてあった懐中時計を手にする。時間を確認すれば、12時を過ぎている。こんな非常識な時間に訪ねてくる非常識な知り合いはいない。では、酔っ払った英国紳士が戯れにノックをしているのだろうか。紳士・淑女の国、大英帝国でも夜中に騒ぎ出し人様に迷惑をかける輩は一定数いるのだから、可能性としては考えられる。暗いせいで部屋を間違えたこのアパートの住人がノックしている可能性もなきにしもあらず。けれど、酔っ払った英国紳士にしろ我がアパートの住人にしろ、深夜に淑女の部屋をノックする非常識な輩相手にわざわざ出ていく義理はない。私だって疲れているのだ。夜くらいゆっくり休みたい。懐中時計をかちりと閉じて、私はまた目を閉じようとした。閉じようとしたけれど、その時、ノックの音が変わる。こんこん、なんて可愛いものではない。どんどんという大きな音に、堪らず閉じかけた目を開いた。うるさいな、と舌打ちをして、ドアを…正確には、ドアの向こうにいるであろう顔も分からない非常識な輩を睨みつける。どんどんという音は収まらない。なんという諦めの悪さだ。このままだと「あそこの部屋の淑女は深夜にとてもうるさいのよ」なんて迷惑極まりない噂が流れてしまうかもしれない。はあ、とひとつため息を零してから、私はブランケットを放り、寝台の上から降りる。ネグリジェのまま出るのは色々と問題があるような気もしたけれど、非常識な輩のために着替えるのもなんとなく癪だ。はやく開けろと言わんばかりにどんどんとうるさく鳴り続けるドアの前で大きく溜息をついてから、ゆっくりとドアハンドルを回す。

「先程からずいぶんと激しいノックですね。お部屋をお間違えではありませんか。生憎、私にはこんな深夜に訪ねてくる非常識な知り合いなどいないのですが、」
「やあやあ。やっと開けてくれたね。中々開けてくれないから、そろそろボクのこの鉄拳でドアをぶち破ろうかと思っていたところだったよ!」

少しだけ開けたドアの向こうから聞こえてきたのは、耳に心地よい低い声。聞き覚えのあるその声に、視線を上へ上へとずらしていけば、右手を上げてにっこりと笑う私の恋人の姿があった。その笑顔に脱力する。ああそういえばこの人は中々に非常識だった。非常識というか、マイペースだった。とてつもなくマイペースだった。ああ、こんな非常識な時間に訪ねてくる非常識な知り合いはいないと思っていたのに。酔っ払った英国紳士でも我がアパートの住人でもなかったのは良かったけれど、ああ、なんという。はああ、とさっきとはまた違う理由の溜息をひとつ。ドアをぶち破られる前に開けてよかった。私の恋人…シャーロック・ホームズは僅かに開いたドアの隙間から私を見つめてくる。暗い中でも分かるくらい、彼の瞳はキラキラと輝いている。私が盛大に溜息をついたというのに、気にするそぶりも見せない。

「さて、もう少しドアを開けてくれるかな。こんな隙間からじゃいくら名探偵のボクでも入ることが出来ないからね」

言われるがままドアを大きく開ければ、ホームズは「どうもありがとう」と言って私の部屋に入る。彼が纏っていたひんやりとした空気に、思わずぶるりと体が震えた。ドアを閉めて、鍵を掛ける。その間に、ホームズは部屋のカーテンを全開にした。深いレッドにダークブルーで草木を描いたそれが開かれると、暗かった部屋がいくらか明るくなる。ほんの少し明るくなっただけなのに、暗闇に慣れていた目にはその明るさすら刺激になって、私は思わず目を細めてしまう。窓から差し込む、静かで、柔らかな月の光。霧深いこの街にしては珍しい。ホームズは窓から差し込む優しい光を頼りに、倫敦の冬の空気を纏わりつかせたコートを脱いで、帽子を取って、それをコートスタンドに掛ける。その動作は夜中に淑女の部屋のドアをノックしていた非常識な人とは思えないくらいにとても優雅で、正に英国紳士といったところだ。思わず見とれてしまいそうになる。なるけれど、それではいけない。深夜に淑女の部屋をどんどんとノックするなんて非常識にも程があると、びしりと言ってやらなくては。私は、様々な機能の付いた大きなバッグを肩から下ろそうとしているホームズに向かって、少しだけ冷たい声を掛ける。もちろん、冷たい視線を投げかけるのも忘れずに。

「…深夜に訪ねてきたことについての謝罪はないのかしら、ミスター・ホームズ」

その言葉に、ホームズは驚いたように私を見る。そして次の瞬間には、あっはっはっはっ!とお腹を抱えて笑いだした。部屋中に響き渡る笑い声に、ぎょっとする。ノックもうるさかったけれどこれもこれでうるさい。これはこれで噂が立ってしまいそうだと、慌ててホームズのその腕を掴む。白いシャツに包まれたその腕は見た目は細いくせに、掴むと意外なほどに逞しい。それにどきりとした。ホームズはブルーの瞳を細めながら、私を見つめる。冷たい視線を投げかけたつもりだったのに、その優しい瞳で見つめられては、私の視線も冷たくなくなってしまう。

「いやぁ、面白いことを言うね。謝罪の必要がどこにあるんだい?」
「ど、どこにって。深夜に淑女の部屋に訪ねてくることがまずいけないわ。英国紳士にあってはいけないことよ。謝ってもらわなくてはいけないわ」
「おや。恋人の部屋を訪ねることがいけないことかい?」
「そ、それは、…そう、そうよ。訪ねてくるにしても、あんな大きな音のノックはだめだわ」
「ヤレヤレ。それはキミがドアを中々開けてくれなかったからだろう?すぐに開けてくれれば、ボクだって何度も何度もノックしたりはしなかったぜ」
「う…。あ、そ、それに、淑女の部屋に来ていきなりカーテンを開けるのもどうかと思うわ!」
「カーテン…ああそうだ、うっかり忘れるところだった!ボクがこの部屋に来たのはこんなくだらない話をするためじゃないんだ、ほら、こっちに!」

くだらない。その一言にむっとする私に向かって、ホームズは手を差し出す。まだ謝罪をもらっていない。ホームズは謝罪の必要がないと言ったけれど、謝罪の必要はあると思う。私怒っているのだけれど、という意味を込めてもう一度ホームズに冷たい視線を投げかけるけれど、ホームズはやっぱり優しい瞳で私を見つめてくる。優しい声で、促すように、「おいで」と言われてしまえば、その手を取らざるを得ない。大きな手に自分の手を重ねる。外から来たばかりだからか、まだ冷たいその手。ホームズはそのまま私の手を取り、窓際までエスコートする。月明かりと星明かりが、窓から私の部屋に差し込む。薄暗い窓辺で立ち止まり、ホームズはゆっくりと窓の外、空に目を向けた。空に何があるのだろう、と、つられて私も窓の外を見れば、そこには。

「…星が…」

星が、降っていた。文字通り、暗い空を小さな光がいくつもいくつも降ってくる。小さく、けれど鮮やかな光が線となり、冬の倫敦の空を流れていく。月の明かりと、星々が流れていくその光が、窓からでもよく見える。「綺麗…」と呟きながら、私はぽかんと口を開けて、その様子を見ていることしか出来なかった。隣で、手を繋いだままのホームズがくすりと小さく笑う気配がするけれど、窓の外の美しい光景から目を逸らせない。

「ボクも綺麗だと思ってね。だからこそ、キミと一緒に見たいなって思ったのさ。そのために、深夜に馬車をかっ飛ばしてきたって訳さ」
「…冬の倫敦で、こんな時間まで動いている乗合馬車があるの?」
「なあに。『ボクこそがあのシャーロック・ホームズですよ』、の一言で、馬車は動いてくれるんだよ。なんせ、ボクはあのシャーロック・ホームズだからね」

すぐ側で聞こえるその言葉に、無茶苦茶だなと思いながらも笑ってしまう。本当に、マイペースな人だ。綺麗な光景だから、私と一緒に見たい。たったそれだけの理由で、わざわざ乗合馬車に乗って、ここまで来てくれたというのだろうか。こんな夜遅くに乗合馬車を捕まえるなんて、それだけでも大変だろうに。こんなに手を冷たくさせて。ぎゅっと、彼の冷たい手を握りながら、窓の外の景色から目を逸らし、隣に立つホームズを見つめる。ホームズの瞳に映っている私も、彼と同じ、優しい瞳をしている。こんなにも愛しい私の名探偵に、冷たい視線なんて、向けることなんてもう出来ない。ホームズ、と名前を呼べば、ホームズが私の手を強く握り返してくれる。私の指と彼の指が自然と絡まる。ホームズが空いていた方の手でそっとカーテンを閉めると、しゃ、という小さな音がして、部屋はまた暗闇に包まれる。

「ほら、謝罪の必要なんてなかっただろう?」
「どういうことかしら」
「だって、キミはボクがここにいることを受け入れてくれて、こんなにも喜んでくれている。…謝罪どころか、むしろお礼を言われてもいいくらいさ」

至近距離でにやりと笑うホームズ。確かに今この胸のうちにあるのはホームズへの愛しさと嬉しさばかりだけれど。それとこれとは別の問題じゃないかしら、と言おうとする私の唇を、ホームズの冷たいそれが塞いだ。カーテンの向こうでは、キラキラと輝く星たちが流れている。


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