ただの憧れだった。
部活の風景を描こうと思いスケッチブックと鉛筆を持って校庭に出た。
目を奪われた。
サッカー部も陸上部も、もちろん野球部の他の部員もいる中で、真っ先に目に飛び込んできたのが彼だった。
あの輝きは、なんだ。
楽しいんだ。表情や動き。彼の全身、一挙手一投足から、野球が好きなのだと伝わってくる。
綺麗だった。好きなことを極めようと努力する姿が、とても綺麗で、目的も忘れて、ただ彼を見ていた。
移動教室の際や全校集会の時には、自然と彼の姿を探していた。美術室からグラウンドが見えるから放課後になれば野球をする彼を見ることができた。クラスはずっと違ったままだったけど、それで良かった。
はずだった。
間近で彼を見るその時までは――。

「原田」

声に振り返れば海音寺くんがいた。一瞬だけ目があった気がしたけれど、海音寺くんは原田くんに用件を伝えると、わたしには目もくれずにその場を去った。寂しさが風のように心を撫でていった。
あぁ、そうか、わたし。
わたしの存在を知ってほしい。海音寺くんに名前を呼んでほしい。その目にわたしを映してほしい。
いつの間にか、海音寺くんのことを好きになっていたんだ。
しかし自分の気持ちに気付いたからといって、行動に移せるような勇気は生憎持ち合わせていなかった。
変わらず、ただ遠くから海音寺くんを見つめることしかできない。
それで満足していたはずの心はいまはもう冷えていくばかりだった。だけどどうすることもできない。どうすればいいのかも分からない、臆病で弱虫で世間知らずの自分が本当に嫌で、誰もいない美術室でひとり泣いたことも少なくない。
だから、海音寺くんから告白されたときは心臓が止まるくらいびっくりして、嬉しくて、頭が真っ白になった。なんて答えたのかさえちゃんと覚えていなくて、勿体無いと後悔した。
とにかく海音寺くんに嫌われないようにしっかりしなくちゃなと思った。

◇◇◇

憧れのようなものだったのかもしれない。
委員会で部活に行くのが遅れた。早く野球がしたくて全速力で走った。委員会で使っている教室から昇降口に向かう途中にある美術室。そこで偶然見つけたのが彼女だった。
キャンバスに向かう横顔が綺麗だと思った。好きなんだと思った。この人は絵が好きなんだ。好きなものと真剣に向き合うのはこんなにも綺麗なんだと。
急いでいたことも部活のことも忘れて、しばらくの間、彼女のその横顔を見ていた。
気が付けばいつも目で追っていた。同じクラスにはなれず、時折その姿を垣間見ることしかできなかったけど、それで満足だった。
そう思っていた。
だけど原田と話しをしている名字さんを見てからそうじゃないことに気付いた。
聞いたことのない笑い声。見たことのない表情。それを知っている原田。
嫉妬した。お前が名字さんを知ったのはいつだ。俺の方が二年も前から名字さんを知ってるのに、どうして俺が知らないことをお前が知ってるんだ。
あぁ、そうだ、俺は。
もっと名字さんのことを知りたい。声を聞きたい。俺に向けるいろんな顔を見たい。
もうずっと、名字さんのことを好きだったんだ。
自分の気持ちに気付いたら、いまにも爆発しそうな焦燥を抱えた。
原田のことが好きなのか。原田はなんとも思っていないみたいだったけれど。心は焦るばかりだった。
名字さんの姿を見るたびに、胸を炙る炎の勢いは増した。
耐えきれずに駄目元で告白した。断られたらいま以上に野球に打ち込めばいいだけの話しだ。そう思ったら少しだけ気が楽になった。
予想に反していい返事をもらえた。あの時の自分は一体どんな顔をしていただろう。返事を聞いた時全身の力が抜けた。野球に打ち込めばいいと頭では考えていたけど、やはり相当のめり込んでいるらしい。緊張からの解放と、湧き上がる喜びに完全に心は浮き立ち、その後の記憶があまりない。
あぁ、名字さんの前で変なことはできないな。

◇◇◇

「あ、原田くん」
「……」
「名字だよ」
「どうも」

どういうわけか、この人と話しをする機会が多い。
落とし物を拾ったのがきっかけだった。いつもなら素通りしてた。だけど生徒手帳の隙間から見覚えのある顔が見えて、好奇心から手が伸ばした。
それからよく声をかけられる。先輩ぶらない、というかこの人と話してると自分の方が歳上な気がしてくる。上下関係みたいなものは面倒臭いし嫌いだから、そういうのを気にせずに喋れるこの人はまぁ嫌いじゃない。いまだに名前も覚えないけど。

「あのねあのね、聞いてくれる?」
「はぁ」

やけに勿体振るなと思った。上目遣いに見上げる顔はやけに嬉しそうだ。これはきっと海音寺さん絡みだとすぐに分かった。

「なんと海音寺くんと付き合うことになりましたっ」

きゃっ、なんて効果音が付きそうな動きだった。
なんかひとりで盛り上がっちゃってるけど、両思いなことを知っていたこっちからしたらへぇって感じ。

「海音寺さんのどこが好きですか」

他人の恋愛に興味はないけどせっかくどっちも知っている人だし、参考までに聞いてみる。
名字さんは頬を染めて俯いた。恋する乙女そのものだった。

「なんじゃろ、なんかな、野球に本気なところ。野球してる海音寺くん、凄く綺麗なんじゃ」

女子から見たらかっこいいんだろう。周りの女子が騒いでいるのをよく耳にする。だけどきれいだと言うのは初めて聞いた気がした。
うっとりとした表情は、どこか遠い夢でも見ているみたいだ。
自分でも眉が寄ったのが分かった。

「海音寺さん、確かにかっこいいけど、きれいなだけの人じゃないですよ」

こっちを見る名字さんの顔には困惑と不安の色が見てとれた。
そういえば、海音寺さんも似たようなこと言ってたな――。

「名字さんと知り合いなんか?」
「は?」

唐突に聞かれ、誰だそれと思った。

「この前話してたじゃろ、美術部の」
「……あぁ」

海音寺さんと共通の知り合いなんて野球部しかいないから、その人物にたどり着くのに時間がかかった。しかも海音寺さんの顔は強張っていたから、なんとなくその人とは結び付かなかった。
別に、顔見知り程度です。そう答えれば安心したように表情は緩んだ。
すぐに合点がいった。きっと意地の悪い笑みを浮かべてるんだろうな、俺。

「好きなんですか、名字さん」

海音寺さんは視線を逸らして答えなかった。けど、沈黙は肯定。
せっかく手に入れたとっておきのネタを簡単に手放すわけもない。

「どこが」

半ば追い詰めるように質問すれば、観念したのか海音寺さんはふっと笑った。

「背筋がまっすぐなとこ。なんや凜としてて綺麗じゃろ」

首を傾げた。見た目の話しじゃないことは分かってる。だけど俺にはこの人は子ウサギにしか見えない。
海音寺さんの言う、"凛としてる"とは、どの部分だろうか。まぁ俺もこの人のほんの一部分しか知らないし、海音寺さんの全てを知ってるわけでもないけど。
それにしてもこの人たち、

「きれいなところしか、見てないんですね」

ただ、見えてないのか。
あぁ、それとも、お互い理想を押し付けてるのか。何を追いかけているのか知らないけど、酷く滑稽に思えた。
まぁ別に、俺には関係のないことだけれど。
色を失い固く強張らせたその顔も、きっとすぐに忘れるだろう。


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -