高槻泉、という大人でも難解なアングラ作家の名前が、つい先日からルームメイトになった美少女の口から出たことにまず驚いた。それから、私は彼女の年齢を大きく誤解していたのかもしれない、とも思った。
「お姉ちゃんも好きなの!?」
ヒナミちゃんは高揚した様子で私の手元の本を覗き込んでくる。たまたま手に取っただけで、基本的にこの著者の作品を悪趣味だと感じている私は曖昧に笑って誤魔化した。帯には「命をください。だいじにしますから」と銘打たれている。待望の新刊!と書店で大きく宣伝されていたので、つい購入してしまったが、冒頭を読んで買ったことを後悔し始めているのが本音だった。
「読む?」
読みかけていた本を閉じて渡してやれば、少女は花が綻ぶような笑顔を見せて目を輝かせた。
「い、いいの!?」
喰種にはよくあることだが、ヒナミちゃんはそれなりに複雑な境遇にあり、気軽に外出できない。そうでなくても人間社会は我々に厳しいのだ。しかも、彼女がお兄ちゃんと呼ぶ青年を中心としたこの共同生活はつい先日始まったばかりで心許なく、こういった娯楽にまで皆の意識が回っていないのが現状だった。子供扱いする訳ではないが、ヒナミちゃんにとっては退屈だと感じても可笑しくない状況だ。現に、私だって暇をもて余して書店に行ったのだから。
「いいよ、気に入ったら返さなくてもいいし…」
他の本も勝手に読んでいいよ。そう言って寝台の横に平積みにしてある書籍を示せば、ヒナミちゃんはますます嬉しそうな表情を見せる。なんだか私まで嬉しくなった。
妹ができた気分、とでもいうのだろうか。読書という共通の趣味を通じてヒナミちゃんと打ち解けた私は、たまに万丈さんたちの手伝いをしながらも、のんびりとした日々を送っていた。
「ありがとうございます。ヒナミちゃんによくしていただいてるみたいで…」
この集団を取り仕切る半喰種の男の子、カネキからそう声を掛けられたのは、それこそ散歩のついでに書店に寄ろうとアジトを出ようとした、まさにその時だった。年の頃は同じくらいだと思うが、カネキはとても丁寧に話す。
「仲良くして貰ってるのはこっちの方だよ」
私は元々11区にいた。だからという訳ではないが、彼のもつリゼの気配に、どうしても警戒してしまう。
「お出掛けですか?」
何気無く、それでいて礼儀正しくカネキが問う。こんなの、ただの世間話だ。わかっているのに、外に出ることに対して咎められているような気がするのは、私自身が外を歩くことを内心で怖れているからだ。誰にも会わずに引き籠っていれば死なずに済んだかもしれない同族ならいくらでも知っている。
「うん、ちょっと…本屋に」
無意味な愛想笑いを添えてしまうのは、目の前の彼がとても強い力を持った個体だからだ。喰種の世界はとてもシンプル。戦闘能力の高さが、そのまま価値になる。
「それなら僕もご一緒していいですか?」
カネキの思いがけない申し出を、断る理由は特になかった。
幸いなことに、互いに趣味が読書であるため、作家とその著作を上げているうちに最寄りの書店に着いていた。カネキは博識だった。本を選んでいる間は、自然と別行動になる。その距離感も心地好かった。
「私、一回やってみたかったんだよね…本屋デート」
帰り道、揃いの紙袋に全く異なるジャンルの書物を抱えて。冗談のつもりで言ったのに、カネキはハッとして私を見詰めた。白髪に眼帯というロックな風貌をしている癖に、こちらを見詰める双眸は怯んでしまう程に誠実なものである。
「僕もです…」
寂しげに口の端に上せたその同意が、ただの雑談とは思えなくて、私は息を飲んだ。
「僕も以前はそう思ってた」
以前…というのが彼が人間だった頃のことを指すのだということはニュアンスで察せられた。本人が何も語らないので、彼の境遇について詳しいことは知らないが、憶測まじりの噂ならいくつも飛び交っている。人間だった男の子。実験的に創られた喰種。悲劇的なフレーズだと思う。とても。だって、私は喰種に生まれてそれなりに大変だったけれど、ある日突然人間にされても、きっと嬉しくなんてない。

はっきり言って、今この集団でCCGや他の陣営の喰種と戦闘になったと仮定して、脅威に成り得るのはリーダーであるカネキと、あとは精々そうなったら敵か味方かも微妙な美食家くらいなもので、残りは私を含めて雑魚ばかりだと言っていい。潜在能力値でならヒナミちゃんも好い線まで行くかもしれないが、今はまだ誰かの庇護が必要なことは間違いない。彼女の側にいることで、その身に降りかかる危険を少しでも減らすことが出来れば…と思った。足手まといにはなりたくない、とも。
「このところ熱心ですね」
私の師範代とも言うべきカネキが、アオギリの構成員を模したマスクを外しながら声をかけてきた。細い顎を流れた汗が伝う。
「…自分の身くらい、守れないとね」
こてんぱんにやられて地面に突っ伏した私は、なんとか首だけ持ち上げて彼を見上げた。
「僕が守りますよ?」
タオルで丁寧に拭った清潔な掌を、カネキは這いつくばる私に差し伸べた。僕がみんなを守る、というのは最早彼の口癖のようなものなので、私は変に意識することなくその手をとった。
「ありがとう、私は幸せ者ね」
軽快な受け答えのつもりだったが、皮肉に聞こえたかもしれない。私が手を払う労すら惜しんだせいで、付着したままになっていた些末な小石が二人の掌に食い込む。カネキの手を汚すことになってしまったことを、今更になって後悔した。
「幸せ、ですか…?」
カネキはまるで世界にそんな単語が存在することすら信じられないとでも言いたげに、まじまじと私を見詰めた。見開かれた両眼の、虚の向こうに身を切るような哀しみがある。
「幸せだよ、生きているだけで儲けものって言うしね」
「…僕はそうは思わない」
囁いたカネキの声は地を這う程に低かった。沸き上がる憐憫に任せて、口を開く。
「私ね、本当は高槻泉の作品が苦手なの…」
手を離す。足許に落ちた小石が小さく跳ねた。私は不思議そうにしているカネキの返事を待たなかった。
「小さな生き物たちがたくさんしあわせにくらしていて、大きな木が青々としげっていました…みたいな物語の方がずっと素敵でしょう?」
風が吹いた。小さな生き物に例えるにはあまりにも凶暴な私たちと、大きな木なんて一本も生えていない都会の夜を嘲笑うように。
「いつか、カネキもそう思えるといいね」
嘘でも、幸せだって言えるといいね。
沈黙が、彼の出した答えだった。人間でも喰種でもない、孤独な怪物。彼の物語はまだ、始まったばかりだ。


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