冷たい春先の朝に屯所の門前で倒れていたのは白い着流しを着た幽霊のような女。片手で掴めるほどの細い肩を引っ張ってみたら呻き声も洩らさずに薄く目を開けた。どうやら生きているらしい。俺は朝一の市中見廻りを別の隊士に任せて女を背負い屯所の中へ戻った。廊下を進むなり総悟が喧しく訊いてきたがこの女の事情なんて俺が知るはずもない。ひどく弱っているようだが生きている。判ることはそれだけだった。俺は女中に粥を一つ用意して自室へ持ってくるよう頼んだ。事情を聞くにも、まずは話せる状態にならなければならない。背中に負うた時の女の体は冷えきっていたが、目立った外傷はないから食って寝りゃ何とかなるだろう。布団を被せて押し入れから毛布を取り出してその上に重ねる。他人の看病は慣れていなかったが何となくしなければならないことは判った。俺は女中の持ってきた粥を食わせ薬を飲ませ、昼時までずっと傍にいた。女は、一言も話さなかった。


こいつはほんとうに、にんげんなのだろうか。


何本目かの煙草に火を着けたところでふと思った。我ながら小心臭いことだ。こんなに何度も幽霊騒ぎがあってたまるか。きっと夜逃げか浮浪か、ろくでもない理由で行き倒れていただけだろう。
確かに、屯所の前で倒れていれば助けてはもらえる。しかし保護したからには事情を洗いざらい吐いてもらう職権がある。法に触れることをしていれば逮捕もできる。果たしてこの女は幸運だったか不運だったか。それは口を開いてから判断することにする。


”なぁ、副長の部屋に女が居るらしいぜ”
”誰から聞いたんだよ”
”沖田隊長が言い触らしてた”
”へぇ、見に行ってみようかな”
”やめとけやめとけ、ばれたら事だぜ”
”それもそうだな”


薬が効いたのか、女は夕暮れ時までぐっすり眠り、俺が晩飯を終えて戻ってきた頃には布団から体を起こしてぼんやりと部屋を眺めていた。俺は再度作ってもらった粥の盆を畳の上に置き白い横顔に話し掛ける。女は素直にこちらを向いた。均整のとれた目鼻立ちに、夜露のような黒い瞳、薄く色づいた紅い唇。一瞬言葉を呑むほど、女は綺麗な顔をしていた。

「名は」

尋ねた後に、少し瞳が翳った。
言葉は通じるのだな、なんて非現実的なことを頭の隅で考えてから俺は粥が冷めないうちにとれんげを手渡した。女はやはり何も言わずに一口二口と粥を咀嚼して飲み込む。それをただ眺めていた。夜は静かに更けていく。



さて、困ったのは今夜の寝床である。明日こそ早番で見廻りをしなければならないから出来れば布団でしっかり寝たい。しかしそこには女がいる。どうしたものか。時刻はすでに日を跨いでいる。俺は寝間着に着替え机で煙草を吸いながら考えていた。
ああ、考えていたって時間の無駄か。こうしているうちに貴重な睡眠時間が削られていく。俺は意を決して煙草を揉み消し咳払いをした。振り向いた先には自分の布団。
女は俺の躊躇を察してか、敷布団の端まで身をずらしてもう一人入れる分のスペースを作っていた。起きているのだろう。わざとこちらに背を向けている。俺は女と同様、何も言わずに布団へ滑り込み仰向けに寝そべった。右肩に軽く女の背中が当たっている。その体温が今朝のものより随分高くなっていて安心した。

そうか、やはりにんげんなのだな。

性懲りもない確認をして俺は目を閉じる。すると静寂の中で小さな声がした。


「なまえはないの」


名前は無いの。それが初めて聴いた女の言葉だった。
そう言えば俺の方も、名を尋ねただけだったな。

確かな体温を感じながら俺達は眠った。珍しく夢を見て、枇杷ほどの大きさの種から鮮やかな芽が出る夢だった。



△▼△



朝起きると、隣に女はいなかった。出ていったのかと思い慌てて障子を開けてみると、女は縁側に座って庭先の雀を見ていた。顔色は幾分良くなり、肩には誰かの羽織が掛かっている。横に腰を下ろし瞳を覗き込んでみると意外にも柔く微笑んできてどきりとした。

「土方?」

言葉尻を少し上げて首を傾ける。不意に呼ばれた自分の名に今度こそ驚いた。

「そうだ。誰から聞いた?」
「総悟様、っていう人です」
「…合ってるけど違う。”様”はいらねぇ」
「ふぅん、わかりました。あなたの下の名前は?」
「十四郎」
「”クソヤロー”じゃないんですか?」
「それも違う。総悟の言うことは真に受けるな。アイツはものすごく悪い奴だから」
「でも、羽織を掛けてくれましたよ」

そう言って女は朝日の中で緩くまばたきをした。透けるような素肌に細やかな影を落とす長い睫毛。俺はまた一瞬言葉を呑んで、誤魔化すために寝癖の頭をかいた。
ああ、本当は聞かなければならないことがたくさんあるのに。無粋な言葉を吐くのが躊躇われて仕方ない。彼女に相応しくない下世話な問いや眼差しを厭う自分がいるのだ。鬼の副長が聞いて呆れる。朝っぱらからこんな体たらくでは部下に示しがつかないな。
手強い寝癖を直しながらも、俺は次の言葉が見当たらなかった。女は相も変わらず柔らかな表情で庭先の緑を見つめ陽の光を浴びていた。


”結局あのべっぴんさん、何者なんだろう?”
”さぁ。さっき沖田隊長と話してるところは見たけど、素性はさっぱり判らんな”
”俺も話し掛けてみようかな”
”やめとけって。副長に目ェ付けられちまうぜ”
”それもそうか”


さすがに今夜は布団をもう一組用意した。女はぽつりぽつりと話すようにはなったが、内容は総悟に吹き込まれた知恵や庭先へやってくる鳥猫のことなど、当たり障りのないことばかりだった。核心へ触れるものがないのだ。俺は灯りを落とした部屋の中で言った。

「お前はどこから来たんだ」

天井へ投げ掛けたかのような問いはそれでも女の元へ届いた。昨夜より離れたところで横たわる女はすう、と呼吸を置いて答えた。

「遠いところ」

「遠いところ?」

「うん。そうしてまた遠いところへ行くんです」

女は両手を真上へ伸ばして、伸ばした先で十本の指を互いに絡めた。着物の袖から覗く白い腕が月明かりに浮かんでいる。女の言う通り、このままどこか遠くへ行ってしまいそうなほど寂漠を感じさせる眺めだった。

こいつはいったいどこからきて、どこへいくのだろう。

問い質したい気持ちはあったが、それすら寝かし付けて俺は目を閉じた。今度もまた夢を見て、伸びた芽が大きく育ち白い花を咲かせる夢だった。
その一輪の花があまりにも綺麗で、長いこと見とれていた。

そして、ああきっと、明日には女は居なくなるのだ、と悟った。



△▼△



翌朝、目が覚めたらやはり女は居なかった。
きちんと畳まれた布団にはもう欠片も体温が残っていない。もしかしたらと屯所の門前に出てみたがどこにも居ない。不寝番に確かめてみても姿を見ていないと言う。女を拾った場所には今朝も変わらず朝日が差している。


かのじょは、いったい、なにものだったのだろうか。


不思議な夢と共に、あの確かな体温が胸の内に残っている。俺はまた寝癖のついた頭をかいて、深く息を吸った。
わずかに季節の進んだ往来は人知れず春めいている。