臆するな


 森で一晩過ごした翌朝は、目覚めて一番に視界に飛び込んできたものが呆れを顔一杯に浮かべたジャーファルさんで、どうにもばつの悪い思いをしたという点を除きさえすれば、実にここ数日振りの良い朝であった。というのも、近頃はあの些細な──しかし私にとっては十分に厄介で大変な──一夜のせいで、あまり眠れぬ夜が続いていたのだけれども、昨夜ばかりは随分よく眠れたのである。
部屋を離れたのが良かったのか、自然の爽やかな空気の中に身を置いたのが良かったのか、どちらだかは判らない。それでも、森で夜を過ごしたのは間違いではなかったのだろう。
ジャーファルさんには再三釘を刺されてしまったけれども、王宮に戻って身支度を整える私の頭は、きちんと睡眠を取れたお陰で心なしかすっきりとしていた。部屋へ戻って来ると同時に厄介な出来事やら誰かさんの顔やらを思い出してしまい、鬱々たる感情が鎌首をもたげはしたものの、昨夜以前と比べればましなものであったし、いい加減に仕事に専念せねばと思えば幾分か押し込めることが出来た。落ち着くまで仕事も休んで構わないとジャーファルさんは言ってくれたけれども、流石にそういうわけにはいくまい。何しろ私は薬草師という職を与えられてまだまだ日が浅く、ろくに成果も出していないのだ。働かざる者食うべからず。それは世界の何処で何をなりわいとしていようとも変わらぬ事である。
 支度を済ませて部屋を出ると、若い武官が驚いた顔で私を見た。私の部屋の真正面に居たことから察するに、彼は私を訪ねて来て、扉を叩こうとする矢先に内側から扉が開いて驚いたといったところなのだろう。その若い武官には、どこか見覚えがあるような気がした。

「どうされました?」
「ハッ、あの、言伝てを」

 若者は動揺したのか、目を泳がせながら些か辿々しく答えた。

「どなたからですか?」
「はい、ええと、ジャーファル様からです。エルハーム様は、今日一日を休養に充てるようにと」
「……休養に」
「はい、そう、休養に、です。その上で明日からは、浜辺に自生している植物の調査に当たってほしいとのことでした」

 まるで私の胸中を見透かしたかのような言伝てに私は閉口するしかない。私が黙りこくったことで、若い武官はまた落ち着きなく視線を泳がせ、そわそわと体を揺らした。どうやら彼は随分な緊張しいであるか、あるいは私に苦手意識があるらしいなと思いながら、努めて穏やかに口を開いた。

「ありがとうございます。ジャーファルさんに、畏まりましたとお伝え頂けますか?」
「はっはい、勿論であります!」

 初々しさの残る敬礼をして見せた彼が去っていく後ろ姿を見送り、さて、と考えて、私は立ち尽くした。仕事をせねばと思って部屋を出ようとしていたのに、その仕事がたった今無くなってしまったのである。どうしたものだろう、すっかり手持ち無沙汰の私は部屋の前で立ち尽くしたまま腕を組んだ。端から見れば少々滑稽に見えたかもしれないけれども、幸いとでも言うべきか、周りに人の姿はない。
 ややあって鍛練でもしようと思い立ち、赤蟹塔へ歩を進めた。擦れ違う役人がちらちらと視線を寄越す。それがどんな意味合いのものであるかは、恐らく考えるだけ不毛で、ただ疲れるだけだろう。
 溜息を飲み込んで角を曲がる。途端に、飲み込んだばかりの溜息を吐き出しそうになった。

「……仕事は?」
「言っておくがサボりじゃないぞ。ジャーファルには断ってきたし、許可も得てここにいるからな」
「部下に許可を得ないと執務室から出られない王様っていうのもどうなんでしょうね」
「部下の意見を聞き入れているんだ、横暴で独裁的な王様より遥かに良いだろう?」

 シンドバッドは朗らかに笑った。ものは言い様である。
 それにしても、果たして彼は己のしたこと、言ったことを覚えているのだろうか。思わず疑問に感じてしまう程、彼はまるでいつも通りであった。私がいつまでも悶々と考えていたことが馬鹿馬鹿しく思える程に、彼は微塵も気にした様子が無く、どこまでも平然としている 。たとえば今ここで話を蒸し返したとしても、心証が悪くなるのは私だけに違いなかった。

「そんなことより、エル。聞いたよ、森で野宿したんだってな?」

 私が黙っていると、一歩距離を詰めたシンドバッドが言った。

「シンドリアは確かに平和な国だ、俺はそう自負している。……が、だからといって必ずしも安全なわけじゃない。俺としても悔しいことだがな。あんなことがあったあとだ、もう少し危機感を持ってくれよ」
「……善処する。ジャーファルさんにも釘を刺されたし……」

 危機感が無いわけではないのだいうと反論は喉の奥に引っ掛かったまま、飛び出しては来なかった。存外にシンドバッドの顔が真剣であったからかもしれないし、軽い口調と裏腹に真面目な声色をしていたかもしれない。

「いや、約束してくれ」

 逡巡した。しかし、有無を言わせないその声色に、私に与えられている答えが一つしかないことを悟った。

「…………わかった、この杖に誓って」
「よし、いい子だ」
「いい子だ、って……一体私を幾つだと思ってるの」
「心配しなくとも、お前を子どもとは思っていないよ」

 シンドバッドが目を細める。むずむずとした居心地の悪さを感じて目を逸らせば──それでも彼は笑っていた。その上、「でも、こういうところは子どもみたいだな」とからかい混じりに私の髪に触れる。「寝癖、直さなくていいのか?」
 ぴょんと跳ねているのだろう毛先をつついて面白そうに笑うせいで、私はますます居心地が悪くなった。

「……勿論直すけれど」
「そうか。これはこれで可愛いよ」
「そういうの、要らないから……」

 どうせ昔から調子の良いことばかり飛び出す口なのだ、今更気にすることではない。私ばかりが動揺してまた眠れぬ日々を過ごすなど──馬鹿げている。
 自分自身にそう言い聞かせて、深く溜息を吐き出した。

「用が済んだなら、仕事に戻ったほうが良いんじゃないのかな。いつまでも王がふらふらしていたんじゃ、ジャーファルさんも困るでしょう」

 手を振り払って歩を進めれば、シンドバッドは勝手に隣に並んで歩き始めた。自ずと二度目の溜息が口をつく。いっそのことこのまま何も言わずにジャーファルさんのところへ直行してやれば良いのだろうか等と考えていたものだから、傍らで「随分打ち解けたんだなあ」と呟いたその声色にはついぞ気がつかなかった。

170616 
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