やさしい夜であれ


side マスルール


 はたと、足を止める。
 森の一番大きな木の根元に寄りかかるようにして、エルが眠っていた。既に日は暮れていて、普段であればエルも自室へと戻っている頃のはずだったが、俺が近づいた気配に気づくこともなく、身動ぎの一つもせずに、杖を抱きかかえて眠っている。何か植物の採集に来て、一休みでもしていたのだろうか。いやしかし、それにしては、その近くには籠の一つも見当たらないから、違うのかもしれない。
 昇り始めた月の明かりに照らされた顔は、いつかのように青白かった。月光のせいでそう見えるのかもともと顔色がよくないのかはわからなかったが、その顔を見ているのはあまり良い気分ではなかった。あの時の、体の芯が冷えていく感覚がちらつく。
 静かに近づいていってそばに屈めば、きちんと息をしているのが目と耳のどちらもではっきりとわかった。ただ、ジャーファルさんのように眉間に皺が寄っていてあまり夢見は良さそうではない。起こしたほうがいいのだろうかと少しばかり考えて、結局やめることにした。どうせもう夜だ。今起こしたところで、また眠るだけ。自室で眠るか、外で眠るか、それだけの違いだ。シンドリアの気候なら外で眠っても問題ないし、目の下に隈を刻んだ人間の眠りを邪魔するのも、きっと良くないだろう。例えばこういう時のシンさんは、起こしたところでもう少し寝かせてくれと半分寝ながら抗議するに違いない。
 隣に腰を下ろして、横になる前にもう一度エルの顔を見た。さっきよりも心なしか眉間の皺が深くなっているような気がする。無意識に手を伸ばしてぐりぐりと指で押してやると、ぴくりともせずに眠っていたエルはくぐもった唸り声と共に薄らと目を開けた。

「……マスルール?」

 余程眠いらしく、開いたばかりの目は今にも閉じてしまいそうだったし、声も今まで聞いたことがない程ぼんやりしていた。起こしてしまったついでに、一応、「部屋に戻らなくていいのか」と声をかけてみる。そうしなければ、あとでジャーファルさんに怒られるような気がした。
 だが、エルは相当寝ぼけているようで、「部屋……?」と一言、まるで小さな子どものような辿々しさで繰り返した後に、よくわからない言葉を幾つか、もごもごと呟いた。なんと言ったのか聞き取れない。

「いい、今日は」

 しばらくしてそんな片言の返事が聞こえて、すぐ規則正しい寝息に変わった。声をかけてみても頬に指を突き立ててみても返事がないところを見ると、どうやらまた眠ったらしい。今度は眉間に皺はなかったし、何より本人が良いと言ったのだから、何も問題ないだろう。
 人一人分の隙間を開けて寝転ぶと、自分にも直ぐに眠気がやってくる。珍しいものを見たと片隅に思いながら眠りについた。

***

「どういうことです?」

 ジャーファルさんの気配と声で目を覚ました。のそのそと起き上がれば、すぐ横で丸くなってまだ眠りこけているエルの横顔が目に入る。日の光が葉の間をすり抜けて、その顔を斑に照らしていた。……はて、昨晩眠りについた時、こんなに近くにいただろうか。

「……おはようございます」
「はい、おはようございます。どうして二人してこんなところで眠っているんですか」
「俺が寝に来たら、先にここで寝てました」

 横顔に視線を落としながら答える。すぐに、呆れた溜め息が聞こえた。

「ちゃんと部屋で寝るように言っているでしょうに。それに、こんなところで寝ていたエルハームさんもエルハームさんですが、マスルールもマスルールですよ。どうして起こさなかったんです」
「起こしましたよ。そしたら、ここで寝るって言うんで」
「まったく……」

 二度目の溜め息だ。

「もしもまたこういうことがあったら、彼女がなんと言おうと部屋に連れ戻すこと。いいね?」

 頷き返すと、腕を組んだジャーファルさんは困ったように眉を下げて、エルを見下ろした。その目が以前と比べると随分変わったことに気がついたが、何がどう変わったのかと尋ねられても俺には上手いこと説明できない。ただ、目つきの鋭さだとか、あたたかさだとか、たぶんそういった何かしらが変わったのだろうということが感じられた。

「それにしても、これだけ近づいて話をしているにも関わらず目を覚まさないなんて。もっと敏感な人だと思っていたんですが……今まで余程眠れていなかったんですね」

 エルの傍らにしゃがみこんだジャーファルさんは、顔にかかった髪の毛を指先でそっと払った。明るさのお陰か、昨晩暗がりで見たときと比べればずっとマシな顔色に見えるが、目の下にはまだ薄く隈が残っている。ジャーファルさんはその隈をじっと見た後、「もう朝ですよ、起きてください」とエルの肩を揺すった。
 途端にびくりと大きく体を揺らして跳ね起きたエルは、目を丸く見開いたまま、ぴたりと動きを止めた。比べようもなく俺よりずっと頭がいいはずの彼女でも、起き抜けの頭では状況を上手く飲み込むことが出来ないのか、これでもかと大きく見開いた目でジャーファルさんを見つめ返し、ゆっくりと俺を見て、それからまたジャーファルさんを見た。

「……お、おはようございます」
「おはようございます。今朝の気分はどうですか」
「え……あぁ、ええと……昨日よりはマシです」
「なるほど、それは良かったですね」
「……怒ってます?」
「呆れているんですよ。部屋があるのに、こんな所で野宿だなんて」
「なんだか部屋に居たくなくて……」
「だとしても、せめて室内で寝てくださいよ。仮眠室を借りるとか、街で宿を取るとか……。ヤムライハやピスティに頼めば、一晩くらい部屋を貸してくれたでしょうに。どうしてよりにもよって、野宿なんか選んだんですか」
「……選んだと言うよりは……その、そこまで頭が回らず……」

 決まり悪そうにエルが答える。それはどんどん尻すぼみになっていき、「ご迷惑を」だの「お恥ずかしい」だの、もごもごと幾つか言葉を並べた。最後に小さく「すみません」が付け加えられると、ジャーファルさんは三度目の溜息をついた。

「確かに昨日、私は貴女に、きちんと眠るように言いましたよ。今日は顔色も幾らかマシになっていますし、よく眠れたようで何よりだとも思います。ですが、貴女は女性なんですから。いくらここがシンドリアでも、野宿なんて……何が起こるか解りません。二度とこのようなことの無いように頼みますよ」

 エルは杖を握り締めて何か言いたそうに口を開きかけたが、ジャーファルさんが淡々と「肩を揺すられるまで目を覚まさなかった人が何を言っても、説得力はまるでありませんからね」と言えば返す言葉も無いらしく、大人しく口をつぐんだ。

「さあ、解ったらさっさと部屋に戻って身支度をしてください」

 エルがエルらしくない鈍い動作で、服についた草やら土やらを払い落とし、雑に髪を整えるのを、ジャーファルさんはただ見守っていた。

「ほら、マスルールも戻りますよ」
「ジャーファルさん、なんだか母親みたいですね」
「野宿する不良娘と不良息子を持った覚えはありません」

 王宮の中に入り、それぞれの部屋へ戻るために途中でエルと別れる時も、ジャーファルさんはエルが先の角を曲がって見えなくなってしまうまで、寝癖の揺れる後ろ姿を見つめていた。珍しい。そう思ってジャーファルさんを見れば、視線に気づいたジャーファルさんは振り向いて疲れたような苦笑いを浮かべた。

「いや、本当はね。昨夜ばかりは、彼女が君と野宿していてくれて良かったのかもしれない」
「どういう……?」
「……マスルールも知っての通りの、シンの悪い癖が出てね」

 ジャーファルさんはそれしか答えなかったが、ジャーファルさんともシンさんともそれなりに長い付き合いだ。シンさんの悪い癖と聞けば幾つかの心当たりはある。今ジャーファルさんがどれのことを指したのかはっきりとは解らなくても、どれであるにせよ、エルが関わればより面倒なことになっていたかもしれないことは理解できた。近頃のエルの様子を思い出せば、そんな面倒事が起こらずに済んだことは、きっと幸いと呼ぶべきなのだろう。

170412 
- ナノ -