苦し紛れに強く脛を蹴飛ばしてやれば、流石に少しは効いたらしい。小さく呻いてシンドバッドが腕の力を緩めたので、その隙にすかさず腕の中からすり抜けて距離を取った。離れてから見上げたシンドバッドは僅かにしかめ面をして見せたけれども、私と目が合えば途端に眉を下げた。
「やっぱり嫌われてるのか、俺は」
「……嫌いではないけれど。でも、それとこれとは話が違うよね」
「そうか」
嬉しいのか困っているのかわからないような顔でシンドバッドは笑った。
「安心した」
正直なことをいえば、嫌いにはなれない。恐らく、一生、嫌いになんてなれるはずがない。そんな確信がある。けれども馬鹿正直にそれを言ってしまえば、シンドバッドがどんな反応をするかは想像に難くないし、わざわざ言うほどの素直さを持ち合わせるような私ではなかったから、口を固く結んだ。それでもシンドバッドはどこか上機嫌で、「なあ、エル」と柔らかな声で私を呼ぶ。
「俺は、お前が好きだよ」
「……友人としてってことでしょう?」
精一杯聞き返せば、シンドバッドは問いかけに答えないかわりに私の腕を掴んで引き寄せ、頬に顔を寄せようとする。咄嗟に杖を構えると、考えるよりも早く杖先に小さな電流が迸った。
困惑。そればかりが私を覆い尽くす。しかし声だけは冷静さを保とうと、どうにか取り繕った声を出した。「どういうつもりなの」震えてこそいないものの、どこか頼りなく鼓膜を揺らした。
「まさか、また酔ってるの?」
「いいや、ちっとも酔ってない」
「だったら、」
「さっきの殺し文句があまりに効いて、つい、な。気にするな」
「気にするなって言われても……」
反論しようとして、口をつぐんだ。
……嗚呼、この人は。きっとわかった上で、わざと、しているのだ。そう思った。なんてたちが悪いのだろう。
「……貴方がそんなだから、妙な噂も尤もらしく、あっという間に広まるんだね」
***
翌日になって、鏡に映る自分の目の下に隈が居座っているのを見、重い息を吐き出した。気にするなと言われても、気にしてしまう。それこそがまさに彼の思惑であると気がついていても、である。我ながら難儀な性格だと思うけれども、子供の頃ならいざ知らず、この歳にもなってしまえば性格などというものはそうそう変わらない。
既に三、四日、浅い眠りにつくのがやっとという夜が続いていたところに、昨日の其れである。……嗚呼。
せめて目敏いジャーファルさんに見つからないように、と思っていたのだけれども、あの人の目敏さは他の追随を許さない。恐らくはこの国随一である。隠れる間もなく見つかり、眉間に深く皺を刻んだ彼に半ば引き摺られるようにして簡素な部屋──どうやら彼の私室らしいけれども、それにしても物が少ない──に通された。
「王が急に上機嫌になったかと思えば、貴女はまた随分と酷い隈をこしらえて」
「そんなに酷いですか」
「ええ。何があったのですか……と訊きたいところですが、野暮でしょうかねぇ」
「……もしや街に流れる噂を存知で?」
「ピスティが話してくれました」
「……あの子は好きそうですもんね、そういう話」
淹れてもらったコーヒーを手に、陰鬱とした溜息を吐き出す。溜息をつく度に幸せが逃げるのだという、いつかどこかで耳にした話が本当であるならば、ここのところの私は幸せを自ら溝に捨てているようなものなのだろう。もう何度目になるのか分からない溜息をどうにか呑み込んで、手元のコーヒーを見つめた。
「……街で広まってる噂は事実ではありませんし、寝不足の直接的な原因でもないのですが、」
ぽつぽつと事の次第を話し始めると、ジャーファルさんは時折相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。誰かに洗いざらい話してしまいたかったのだと、ようやく気がついた。事はもう、私の手には余る。例えばピスティならば、このくらいのことは笑い話で済むのかもしれない。黄色い声をあげながら私の話を聞くのかもしれない。けれども、色恋と縁のない生き方をしてきた私には、ちっとも“このくらいのこと”では済まなかった。況してや、それが兄のような人とあっては。
一通り話終えると、ジャーファルさんは難しい顔で唸った。
「何を考えてるんだあの人は……」
「すみません、こんな話」
「いえ、悪いのは全面的にシンですから……」
「あの人、いつもああなんですか?」
「まあ……そうですね、酔うと特に酷いです。といっても、素面のときはそこまで酷くはないと思っていたんですが……、こうなると認識を改めなければならないのかもしれません」
まるで私の代わりのように、ジャーファルさんが重い溜息を吐き出した。とんとん、と白い指がテーブルを叩く。窓越しに小鳥の囀りが聞こえてくるこの爽やかな朝にはどこまでも似つかわしくない空気が、この部屋には立ち込めているようだった。
「しかしまあ、……紛れもない本心ではあるのでしょうけれど」
「……きっと、そうなんでしょうね」
どんな真意が隠されているにせよ、あの言葉は嘘ではなかった。それには頷かざるを得ない。けれども、真意を隠された曖昧な言葉が恐ろしく感じられるのもまた事実なのである。
私だって、元来彼のことは好きだった。兄として。家族として。幼馴染として。──好き“だった”のだ。
では今は、どうなのだろう。
「私だって、嫌いではないんです。きっと……そう、たぶん、好き、なんでしょう。でも、だからといって……その……」
「ええ、言いたいことはなんとなく分かります」
「……あの人、何を考えているんでしょう」
思わず吐き出すように言ってしまったあとで、ジャーファルさんに尋ねたところで詮無いことであったと気がついた。少し前に彼だって同じ事を呟いたばかりなのだし、そもそもこんなことは、当人のみぞ知ることである。
ジャーファルさんは、僅かに眉を寄せた険しい顔をしたまま、視線を揺らした。
「シンがはっきりさせないなら、敢えて答えを探すのは保留にして、曖昧なままにしておくのもひとつではありますよね」
「え?」
「その上でシンが何か求める素振りを見せるのであれば、曖昧に濁して交わしまえばいい」
「……ジャーファルさん、この前は暗に逃げるなと仰っていませんでしたか」
怪訝そうな顔つきになるのも隠さずに見上げれば、ジャーファルさんは「この場合はしっぺ返しですよ」と答えた。
「何も無理をしてまで全ての事柄に白黒つける必要はないでしょう──ああ、勿論王の仕出かしたことについては、濁さず反省してもらわなければいけませんが。私からもきつく言っておきますし、他の八人将にも言い含めて当面は王を監視させますので」
「八人将の皆様の手を煩わせるのは流石に申し訳ないのですが……」
「いえ、王の過ちは我々の過ちですから」
きっぱりと言ってみせたジャーファルさんは、それから僅かに眉を下げた。不思議とそれが誰かの仕草とよく似ているものだから、思わず視線を逸らしたくなる。それでも、ジャーファルさんのその仕草を眺めていれば、彼は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「こんなことを私が言うのは可笑しなことだというのは承知の上です、オラミーに引っ掻かれたとでも思って、一先ず今回のことは目を瞑っては頂けませんか」
「……オラミー、ですか」
「ええ、オラミーです。あるいは──そうですね、パパゴラス鳥につつかれたとか……」
「それは……なんというか、無傷で済んだのが奇跡のように思えてきますね」
以前森で見かけたパパゴラス鳥を思い浮かべながら、私は苦笑いで答えた。シンドバッドとオラミーとパパゴラス鳥。それらに似通ったところなど一つも見つけられないけれども、ジャーファルさんなりに気を遣ってくれているということは勿論わかっているし、私としても、もうこれ以上頭を悩ますのは御免であった。というより、ここ連日続いていた睡眠不足のせいか、私の頭はいつものように回ってもくれない。
提案したジャーファルさんが気の毒そうな顔をした。
「とにかく今夜はきちんと眠りましょう、エルハームさん。落ち着くまで、仕事も休んで構いません。どうしても眠れないのなら、魔導士の誰かに頼んで強制的に眠らせてもらったほうがいいですよ」
「……そんなに疲れて見えますか、私」
「ええ、とても」
「それならいっそ、眠らせてもらうついでに記憶操作も頼んでみましょうか……」
「…………それは、」
「冗談ですよ」
嗚呼、心も頭も重くて仕方がない。ヒナホホさんの言ったように、やはり一度殴っておけば良かったのだろうか。
漸く口をつけたコーヒーは話し込んでいる間にすっかり熱をなくしていた。折角ジャーファルさんに淹れてもらったというのに。勿体無いことをしたと悔やみながら、せめてすっかり冷めきってしまう前にと一息に苦いそれを飲み干した。
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