いつまでも避けているわけにはいかないことは解っている。こんな不毛なことをいつまでも続けていたいとも思わない。ならば、どうすれば良いのだろう。
ヒナホホさんと別れ、海岸線沿いにシンドリアの上空を一周してみても、気持ちは晴れないままだ。翳りの見えない空がいっそ腹立たしく思えてくる。こうしてただ空を飛んでいても全くなんにもならないことを、私はいい加減認めなければならなかった。
──やめよう。考えるのは。
溜息と一緒に、このもやもやしたものも記憶ごと吐き出してしまえたら、どんなに楽だろうか。そんなことを考えながら、地面を踏んだ。きっと静かなところにいるから、いつまでも同じことばかり考えて滅入ってしまうのだ。私は街へと足を向けた。
考えてみれば、目的もなく一人で街を歩くのは初めてのことである。相も変わらず明るくて、活気があって。今の私にも、やはりここは不釣り合いに思えた。それでも、私は天命の限り生きていくと決めたのだし、ここで、生きていたいと思ったのだから、眩しさに目を細めてばかりではいられない。
すれ違う人々の中には、私に声をかけてくれる人もいた。つい先日の宴のお陰で、私の顔は記憶に新しかったのだろう。彼らは当然のように私を受け入れている。こそばゆい気持ちになりつつも、会釈を返しながらあてもなく歩いていれば、見覚えのある顔を見つけた。どうやら店番をしているらしい彼女は、やはりあの凛とした様子でそこにいた。商人としては少々愛想に欠けるけれども、不思議と人目を惹く。
あまりにじっと見つめすぎたのか、彼女がふとこちらを見、目を丸くした。
「エルハーム様! 何故こちらへ?」
「気分転換のつもりで街へ出てみたら、偶然貴女を見つけまして」
「お一人ですか?」
「ええ、まあ」
彼女は武器商人であったようで、店先には槍やら短剣やら様々な武器が並んでいた。シンドリアという国には些か似つかわしくない。実際、売れ行きはあまり良いようには見えなかったけれども、私の視線に気づいた彼女が、「王宮の武官の方々にご贔屓にして頂いているんですよ」と答えた。
「銛なんかは、漁師の方にもお買い頂けますから。ひとつも売れない日もありますが、食いっぱぐれることはないんですよ。有り難いものです。それにしても、お一人での外出なんてよく王様がお許しになりましたね」
「え?」
「随分と貴女を大切にしておられるように見えました。あんなことがあった後ですから、余計にそうなのかと思ったのですが……」
せいぜい二度ほど顔を合わせたことがあるにすぎない彼女から、そんなことを言われるとは露ほども思っていなかった。それだけ彼女の勘が鋭いのか、はたまた私の知らぬところで何か噂でも流れているのか。尋ねる気にはなれない。自分の表情など見えやしないけれども、きっとひきつった顔をしているに違いなかった。
「昔馴染みだからと、少々特別扱いはされているかもしれませんが。そこまで過保護ではありませんよ」
「おや。王様の好い人ではないかという噂を小耳に挟みましたが……所詮噂は噂でしたか」
彼女はそう言って、少し笑った。私はといえば、やはり妙な噂がたっていたらしいことに正直泣きたい気持ちになって、愛想笑いのひとつもできやしない。それに気づいた彼女が「小さな島国ゆえ噂が広まるのも早いのです。とはいえ根も葉もない噂なら、飽きられるのも早いでしょう」と励ますように言ってくれたけれども、果たしてどうだろう、本当に根も葉もないのだろうか。
結局のところ、私の思考が行き着く先は同じだった。静かなところから賑やかなところへ移動してみても、私の思惟が一所に留まってしまっていては、堂々巡りはやめられないのだ。
***
それから、彼女──サハルが、自分の生い立ちや今の暮らしなどを当たり障りのない程度に話してくれ、私も自分のことを少しだけ話した。シンドバッドとのことに何も言わなかったあたり、気を遣わせてしまったのだろうと思う。
太陽が海の向こうに沈み始める頃、私は王宮へ戻った。
誰にも会いたくなかったからわざと人気の少ない廊下を選んだというのに、部屋の前には、扉に背を預けるようにしてシンドバッドが立っていた。しかと目が合って、安堵としたような表情を浮かべられては、踵を返すこともできない。渋々シンドバッドの前に歩み寄れば、彼はふっと息を吐いた。
「また逃げられるかと思った」
「……ごめん」
「いや、悪いのは俺なんだ。謝らなくていい……そんな顔をしないでくれ」
お互いに距離を測りかねている。気まずい沈黙が下りて、ますますどうしていいかわからない。扉はシンドバッドに塞がれていて、かといってここを立ち去るのも不自然だ。どういうつもりでシンドバッドがここに来たのかも判然としない。
先に沈黙に耐え兼ねたのは私だった。
「あの……とりあえず、そこを退いてくれないかな。話なら、部屋で聞くから」
「わかった」と頷いて、シンドバッドは横に退いた。気まずさを噛み締めたまま、扉を開け、シンドバッドを招き入れる。来客用の椅子を用意しようとすると断られてしまい、私は部屋の中で立ち尽くした。自分の部屋のはずなのに居心地が悪くて仕方がない。
「嫌いになったか」
シンドバッドが私の顔を覗きこむようにして言った。
「……悪いのは俺だとわかってるんだ。それでも、お前に避けられるのは堪える。仕事は手につかないし、上の空もいい加減にしろとジャーファルには叱られるし、散々だ」
「……それって、いつもと大して変わらないんじゃないの」
「全然違うさ。……ずっとエルのことばかり考えてる」
「……」
「俺は……あのとき、正直にいうと、その……嫉妬したんだ。俺の前では固い表情ばかりのお前が、あいつらの前では違ったから」
「は、」
「馬鹿なことを、と思うだろ? でも本当なんだ」
シンドバッドが一歩分距離を詰め、私は思わず後ずさった。ヒナホホさんの言葉を思い出したけれども、やはり、私にはわからない。
「なに、それ」
「そのままの意味さ。未だにエルは俺と話すときは強張った表情をして、張りつめた声をしている。俺が一番お前の近くにいたはずだったのに、今は……一番遠い」
伸びてきた手がそっと頬に触れ、ゆっくりと撫でる。目を見るのが怖くなって視線を落としても、シンドバッドはすぐそこにいる。
「避けないでくれ。昔みたいに、一番近くで、笑っていてほしかっただけなんだ」
「……勝手なこと言わないでよ」
気がつけば私はシンドバッドの手を振り払っていた。
「あんなことされたって、私、笑えないし、昔みたいにって、そんなの、したくてもできないでしょ?」
昔みたいに対等でいようと、いくら言葉でそう言ったところで、昔と今とでは違うものが多すぎる。目に見えるものも、そうでないものも、全てだ。
「シンはもう、貧しい漁村の少年じゃない。この国の王様なんでしょ? 先に、勝手に遠い人になったのはシンだよ。立場も何もかも違うのに、それでも丸っきり昔と同じようになんて、できるはずなかった……!」
どうしたって、王様と平民は対等にはなれない。肩を並べて歩いていた少年が、高く遠い人になってしまって、それでも子どもの頃の距離感を保てるほど、私の面の皮は厚くはない。いっそ知らない人ならば良かったのだ。なまじ昔を知っているだけに、劣等感も膨らむし、戸惑いも大きくなる。昔と比べてしまうから、行動の一つ一つに驚いて、余計に気を揉んでしまう。
「私だってこの数日散々だった、何をしていてもシンのことを思い出して、どれだけ悩んだと──」
無意識だった。
つい顔を上げてシンドバッドを睨むように見上げたとき、自分の失態と失言に気がついたけれども、もう遅かった。一度吐き出した言葉は引っ込みがつかない。次の瞬間には、私はシンドバッドの腕に閉じこめられていた。耳に吐息がかかって身動ぎすれば、ますます腕の力が強くなる。
「ちょっ……!」
「もう少しこのままでいさせてくれ」
「い……いやだ!」
「あんな殺し文句を言われて、抱き締めるなという方が無理だ」
「……馬鹿じゃないの!」
無駄を承知でもがけば、耳元で笑い声がする。近すぎる距離で聞こえる声も、いちいち耳を擽っていく息も、とにかく心臓に悪い。
「やっとエルらしくなった」
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