なにも知らずに息をしたい


 ただ一言、「酒の勢いでつい」とでも言って、ばつが悪そうに笑ってくれれば良かった。それならば私も、仕方のない人だと笑って、嗜めて、それで水に流せただろう。けれども、彼があまりに真面目な顔で、思いがけない態度をとるものだから、私はすっかり動揺してしまったのである。
 避け続けていても仕方がないと、そう思ったはずだったのに、これでは何も進展しない。溜息を吐き出すと、呆れ顔のジャーファルさんが脳裏をよぎった。
 暫しあてもなくシンドリアの上空を漂っていれば、地上から「おーい」と声がする。どうやら私を呼んでいるらしいと気がついて、視線を下へ向ければ、海辺にヒナホホさんの姿が見えた。彼の子どもだろうか、同じ色の髪を揺らす少年たちもいる。少年といっても、その背丈は私よりずっと大きそうだった。
 やや思案して、私はゆっくりと下降していった。地面に降りるかどうか悩んだけれども、お互いの体格差を考えれば飛んでいるほうが話しやすかろうと結論付け、彼の目線の高さで止まった

「こんにちは、ヒナホホさん。今日は非番ですか」
「おう、久々にな」

 ヒナホホさんがにかりと笑う。その傍らに立って、じっとこちらを見つめる大きな少年が、「エルなんとかさんだ」と呟いた。

「こら、エルハームだ。悪いな、エル。こいつは俺の息子のキキリクだ」
「初めまして、エルハーム……さま?」
「初めまして、キキリクくん。そんな大層な者じゃないから、もっと気楽に呼んでちょうだいな」

 大の男より背丈が有りそうに見えるけれども、やはりその表情にはまだ幼さが残る。彼は首を傾げ、その大きな目をきょろりと動かした。

「でも、王さまの恋人なんじゃないんですか?」
「えっ?」
「あれ? だってこの前の宴のときチューして……」

 言葉が終わるのを待たずに、ごん、とヒナホホさんの拳が落ちた。

「痛い!」
「ガキがそういうこと言うんじゃねえの」
「でも父ちゃん、王さまは女たらしだけど誰かとチューしてるのは初めて見たよ!」
「うるせえ」

 ヒナホホさんはちらりと私を見やると、キキリクくんに何やらお使いを言いつけた。気を遣わせてしまったようである。
 私は、あの場に彼ら親子は居なかったと記憶していた。けれども、どうやらどこかから見られていたらしい。私が思うよりもずっと多くの人があの出来事を知っているのかもしれないと思うと、頭を抱えたくなる(しかし、子どもにまで悪癖が知られているのは、一国の王として如何なものだろう)。
 キキリクくんがぶつくさ言いながら行ってしまうと、ヒナホホさんがばつの悪そうな顔で頬を掻いた。

「すまん、悪気があったわけじゃないと思うんだが」
「大丈夫ですよ、気にしてないです」
「嘘つけ、思いっきり気にしてる顔してたぞ」

 思わず閉口すれば、ヒナホホさんの大きな手が頭に乗せられる。ぎょっとして目を上げると、彼は笑っていた。

「兄だと思ってたやつから突然あんなことされたらそりゃ戸惑うよな」
「……はい」
「でも、あいつもきっと戸惑ってるだろうから、出来るだけいつも通りにしてやってくれ」
「……さっき、少しだけ話をしたんです」
「そうか! どうだった?」
「なんだか、想像以上に真面目に謝られて……。歯切れも悪いし」
「だろうなあ。俺にも妹がいるから、あいつの気まずさはなんとなく想像できる」

 「まあ、俺と妹の場合は、その場で俺がぶん殴られて終わるだろうが」と苦笑する。「……私も、殴っておけば良かったかな」と呟けば、笑いと共に肯定が返ってきた。

「そうだな、殴っちまえ。そうすりゃ懲りて、酒癖の悪さも少しはマシになるかもしれないぞ」
「そうでしょうか」
「おう。あいつも漸く再会できた『故郷に残してきた大事な女の子』に嫌われたくないだろ」

 なんと言えばいいものか分からずに押し黙る。ヒナホホさんも黙ってしまったので、この場には今波の音しか聞こえない。全く似ていないのに、故郷の海を思い出した。

「あいつにとってエルは、妹だとか家族だとかそういうのを抜きにしてもやっぱり特別なんだろうよ。たった一人の幼馴染みなんだ。それがいつの間にかほかの野郎共と仲良くなってて、ガキみたいなヤキモチやいたってとこさ」

 ポンポンと励ますように頭を撫でられても、言葉が出てこなかった。
 私にとってもシンドバッドは大事な人だ。それは、今も昔も変わらず、胸を張っていえる。けれども、今も昔も、シンドバッドが誰と仲良くしていようと嫉妬を覚えたことはなかった。といっても、村には年の近い子どもはシンドバッドくらいのもので、あとはずっと年下の子どもが何人かいるだけだ。単にヤキモチだのなんだのというような機会がなかったのだと言われれば、確かにその通りではある。

「私には、分からないです」

 小さな呟きは、波の音に飲み込まれてヒナホホさんには届かなかったのかもしれない。彼はそれには何も言わなかった。潮風と波の音だけが響いている。それらは私に答えをくれるわけもなく、ただ気紛れに私たちの鼓膜を揺らしていくだけである。
 ややあって、ヒナホホさんが「話くらい、いつでも聞いてやるからよ」と小さく笑った。その表情が、いつか見た兄のようなそれに、よく似ていたものだから。私は礼を言いながら、思わずそっと目を伏せた。

160704 
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