あの日を追えば追うほど遠くなる


 結論から言えば、あの宴の翌日から二日間、私はシンドバッドを避け続けた。いつも辺りに注意を払い、声が聞こえれば息を殺して身を隠し、足音が聞こえれば気配を消して踵を返した。そして、それらの行動が明らさまに見えないよう、あくまでも自然に振る舞った。シンドバッドと鉢合わせないことがさも偶然の重なった結果であるかのように。隠密行動はいわば私の得意分野であったから、私の行動に気づいた数少ない何人かが苦い顔をしつつも黙認してくれる限り、そんな日々が延々と続いていくはずだった。
 けれども、それを許そうとしない人がいた。ジャーファルさんである。
 三日目の朝、廊下で私を呼び止めた彼は「わかっているとは思いますが、先延ばしにしたところでどうにもなりませんよ」と苦い顔で私を諭した。

「そうなんですけどね……なんだか、気まずくて」
「あまり、深く考えないことですよ。何せシンは──」
「ええ、あのたらしぶりは存じています。ただ、だからこそ戸惑うというか」

 子供の頃は、シンの悪癖が私に向かって発揮されたことなどただの一度もなかったし、お互いが大人になったとはいえ、やはり自分がその対象になることがあろうとは考えたこともなかった。
 全て彼が酔っていたせいだとは思う。しかし、酔っていたからといって、軽々しくあんなことをされるのも複雑な気持ちになる。気恥ずかしいのか、腹立たしいのか、自分でもよくわからない感情がぐずぐずと腹の中に蠢いていて、どんな顔をして会えば良いのやらまるでわからない。
 思わず眉を寄せると、ジャーファルさんも困ったように額に手をやった。

「非は全面的にシンにあるので、貴女にこんなことを言うのもどうかと思うのですが……シンは貴女を大切に思っていますから、そろそろ顔くらいは見せてあげてください」

 最後に「すみません」と付け加える彼は一切悪くないのだけれども、本当にすまなそうに言うものだから、私は慌てて首を振った。

「ジャーファルさんが謝る必要なんてありませんよ」
「そうはいっても、我が主の仕出かしたことですからね……」

 ジャーファルさんはそこで言葉を切った。視線が私を通りすぎ遥か後方を見ている。その視線の先が想像できて、表情がひきつった。
 いっそのことこの場から駆け出してしまいたかったけれども、それを許してくれるようなジャーファルさんではない。

「……意地悪ですね」
「偶々ですよ。でもまあ、こうでもしないと、また先延ばしにして逃げていたでしょう?」

 困ったように眉を下げる。日々気苦労を重ねる彼の、よく見慣れた顔だった。

「エル──今、少し良いか」

 背中から聞こえた声に、残念ながら断る文句など持ち合わせていない。私は小さく首肯して振り返った。

***

 二人並んでゆったりとした足取りで廊下を歩く。当てはない。シンドバッドにはあるのかもしれなかったけれども、私はただシンドバッドの横を歩くだけだった。会話は無い。人通りのない廊下に聴こえるのは、シンドバッドの足音と、耳を澄まさなければ聞こえない小さな私の足音だけだ。
 少しして、先に口を開いたのはシンドバッドだった。

「あー……その、薬、ありがとう」
「薬?」
「ほら、あの……二日酔いの」
「ああ、うん」
「それと……すまなかった」
「うん」
「……俺も酔っていたし、エルがいる宴なんて嬉しくて……つい浮かれていて」
「うん」
「………本当に悪かった」
「うん」

 到底返事ともいえないような返事ばかりの私に、シンドバッドが閉口した。遠くの方から微かに人の話し声が聞こえるのが、妙に耳についた。

「……別に、怒っているわけではないよ。シンが女たらしなのは今に始まったことじゃあないから」
「…………」
「ただ、私にまでそうだとは思わなかったから驚いた」

 シンドバッドは何も言わず、ただじっと私を見る。その気まずさから逃げるように言葉を繋げた。

「酔っているからって、誰彼構わずそういうことをするのはどうかと──」
「違う」

 シンドバッドの足が止まる。一歩遅れて私も止まった。

「違うって、何が」
「俺だって分別はある、誰にでもキスするわけじゃないさ。あの時だって、エルじゃなかったら俺は──」
「待ってよ」

 シンドバッドの言葉を遮り、「それ、どういう意味で受け取れば良いの」とやっとのことで絞り出した声は、思いの外震えていて、情けない声だった。

「あ、いや……」

 口元を手で覆うシンドバッドを見つめる。人気のない廊下で見つめ合うなど、端から見れば妙な勘違いをされても仕方がない光景だろう。幸い、この辺りの廊下を通る者はない。
 いつもならば真っ直ぐにこちらを捉えて離さないはずのシンドバッドの瞳がゆらゆらと揺れて、行く宛をなくした視線が足元に落ちた。

「その……」
「……ごめん。深く考えないほうが良いみたいだね」

 先刻聴いたばかりの言葉を繰り返すと、シンドバッドが再び目を上げた。

「誰彼構わず、は言い過ぎたね。流石に、初対面の人や嫌いな人には何もしないのだろうし」

 きっと、その程度の意味だったのだろう。ねえ、そうなんでしょうと私は目で訴えかけた。自然と私自身に、そして彼に言い聞かせるような声色になる。

「ごめんなさい、避けたりして。大人気なかった」

 あまり慣れていなかったものだからと言い訳のように口にし、シンドバッドが口を開く前に、私はその場を立ち去った。適当な窓からひらりと空へ飛び上がれば、彼も追いかけては来るまい。
 ──嗚呼、結局、逃げてしまった。

160507 
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