唯一を望んでいる


side シンドバッド


 廊下の角を曲がって見えなくなっていく後ろ姿を追いかけることは、ついぞ出来なかった。そうしようと思えば追いつくことは簡単だっただろうに、脚が動かなかったのだ。俺はただその場に立ち尽くして、遠ざかる後ろ姿を見つめていた。

「……逃げられた、よなぁ」
「そうでしょうね。彼女が貴方の気配に気づかないはずがありませんし」

 近寄ってきたジャーファルは静かな声で淡々と答える。その声色は決して冷たくはないが、温かくもない。

「でも、自業自得でしょう」
「わかってるさ」
「寝不足になる程、彼女が気に病んでいることも?」
「…………」
「青白い顔をして、目の下には隈が出来ていました」
「……そうか」

 ぽつりと返す俺に、ジャーファルは何も言わない。ただ射抜くような視線だけを寄越した。ひょっとすると、ジャーファルは気づいているのかもしれない。昨日の俺が、それほど酔ってはいなかったことに。
 酒は確かに飲んでいた。しかし、だからといって──記憶がなくなるほど、見境がつかなくなるほど、飲んだわけではない。女性たちに愛想良く応じつつ、いつの間にか人混みに消えてしまったエルハームを目だけで捜す俺は至って平静だった。エルのために執り行う宴であるから、元より羽目を外し過ぎる程飲むつもりはなかったし、何よりエルの姿が見えないというだけで、目の前にどれだけ美味い酒があろうと気乗りしなかったのだ。
 とはいえ、近くに見えなくともそう遠くへは行っていまい。挙動を不審に思われない程度に目線を動かし、ようやく彼女の姿を見つけた時、彼女は一人ではなかった。それは当然喜ぶべきことのはずで、俺はエルが無事に打ち解けられたことに安堵するべきだった。しかし、何かが胸につかえてそれを阻んだのを、一晩経った今もはっきりと覚えている。
 思い返してみれば──嗚呼やはりあの時、酔ってはいたのだろう、間違いなく。
 近寄っていって、あいつの顔を覗きこむ。酔いからかほんのりと赤く色づいた頬。丸い目がまっすぐにこちらを見る。その瞬間、揺らいでしまったのだ。
 例えばあと一杯でも、いや、一口でも多く酒を飲んでいたとしたら。自分が何をしているかもわからないままに、ただあの一瞬の感情に任せて唇を重ねていただろう。

「どうしたら良いと思う」
「貴方の失態でしょう、ご自分で考えてください」
「考えてもわからないから、優秀な部下に意見を求めてるんだ」
「……まったく」

 ジャーファルはすっと目を細めた。

「酔っていただけで深い意味はなかった、とでも言ってくればいかがですか。貴方の性質は既に彼女も知っているでしょうし、納得はしてくれると思いますよ」
「だがなぁ……」
「何にせよ、ここでぐずぐずしていても仕方ないでしょう。ほら……」

 手に持った小瓶を押しつけたジャーファルの表情は、とても分かりにくかった。しかし、その代わりには十分過ぎる程に彼の目は雄弁である。

「これを飲んだら、さっさと行ってください。お礼を言うのも忘れずに」

***

 半ば追いたてられるようにその場を後にして、エルハームを捜した。王宮の中にいるに違いないが、足音を忍ばせ気配を殺すのが殆ど癖になっているようなあいつを捜すのは決して楽ではない。いっそのことマスルールを頼る方が早いのではないかと思い始めた頃に、微かな声が鼓膜を揺らした。声が聞こえる方へ視線を走らせる。そこにエルハームを見つけて高揚したのはほんの一瞬のことで、その隣に立つマスルールの姿にえもいわれぬ感情が首をもたげた。
 風に乗って、声が届く。

「……あれからずっと飛んでたのか」
「ううん、ずっとじゃないけど……」
「片付けが終わってからエルの部屋の前まで行ったときは気配がなかった」
「え、来たの? どうして」
「ジャーファルさんに見張りを頼まれた。たぶん、シンさんが酔ってたから」
「……なるほど。私がいなかったこと、ジャーファルさんに言った?」
「いや」
「良かった……ありがとう」
「で、いつまで飛んでた」
「いつまでっていうか──島を一周して、それから森に行って薬草を摘んで部屋に戻ったよ」
「…………」
「そう睨まないで。そんなに顔色悪い?」
「あの時みたいだ」

 エルの表情が、今はマスルールの一言で僅かに強張った。やや間を置いて、エルは「ごめん」と溢した。

「……何が」
「余計な心配をかけてしまって」
「……別に。でも、今日はちゃんと休め」
「うん、ありがとう」

 それきり会話は途切れたが、俺はやはりどうすることも出来ず、根の生えたように立ち尽くした。
 この二人はいつの間にここまで近しい仲になっていたのだろう。あの寡黙なマスルールがこうも口を利くというのはそれだけで十分に珍しかったし、エルの穏やかな柔らかい声音を聴くのも、俺にとっては随分と久しいことで、やけに衝撃的だった。
 あの再会の日から今日まで、大きな心境の変化はあれど、相変わらず俺と話すエルの声にはどこか固い響きがある。誰も──本人さえも気がついていないかもしれない微々たる違いではあったが、今ならばはっきりと分かる。
 そして、その違いが──なぜだろうか、どうしようもなく悔しい。もどかしい。先に手を離したのは自分の方であったのに。

 ──もう俺はあいつが慕う兄ではないのだと、今更ながらに痛感する。
 エルの提示した条件を飲んだ時からではなく、もっと前から、とっくに兄などではなくなっていたのだろう。お互いが誰より気を許せる家族のような存在だったのは、最早手の届かない過去の話でしかない。
 離れていた時間が長過ぎたし、生きてきた道も違い過ぎたのだ。
 それでも、エルには俺の傍に居てほしい。昔のように顔を綻ばせ、声をあげて笑うのをいつだって見たいと思うし、その双眸で俺を見て、あの柔らかな声で名前を呼んでほしいと思う。
 再会して、同じ国に居て、同じ場所に住んでいるというのに、時間によって否応なしに刻まれてしまった溝は未だそこにあって、薄れはすれど埋まる気配がない。いつしかエルの周りには人が増え、俺ではない別の誰かとの距離ばかりが縮んでいく。喜ばしいことだと解っていながら、素直に喜ぶことが出来ない。
 それはあまりに子供染みた、それでいて、今や目を背けることの出来ない事実だった。 
 かつて、エルの一番近くにいたのが 俺だったように。エルの祖母が亡くなり、エルを我が子同然に気にかけていた自分の母が病に倒れてからは、尚のことそうだったように。
 エルの一番近くにいるのは、他の誰でもなく俺でありたかったのだ。

160211 
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