主役に後片付けをさせるわけにはいかないでしょう、疲れたでしょうしゆっくりお休みなさい。そんなジャーファルさんの言葉に甘えて、私は一人足早に部屋へ戻った。あの散らかり様を思えば、何もしないのは申し訳なくもある。しかし、疲れたのは事実だったし、何より一刻もあそこから早く立ち去りたかったのだ。
どうしてこうも動揺しているのだろう。自分のことであるというのに、私にはよく分からなかった。やはり、きっと、酒のせいだ。何もかも、酒のせいに違いない。
部屋に入るなりベッドに身を投げたけれども、すっかり染み着いてしまった酒の匂いがいつまでも鼻をついて、それがいやに気に障った。
「ああ、もう」
やはり一度海に飛び込んでくるべきだったのかもしれない。そうすればきっと、頭だって少しはすっきりしていただろう。
私は溜息とともに起き上がって、服を替え、杖を手に取った。
確かに疲れてはいる、しかしどうせこのままでは寝つけやしまい。私はそう結論付けると、マスルールがよくそうして呆れられているように、部屋の一番大きな窓から外に出た。夜風にあたりながら空中散歩でもしていれば、幾らか気も紛れるはずだ。上へ上へと向かって飛んでいく。残念ながらシンドリアの夜風はそれほど冷たくはないけれども、自分の部屋やあの喧騒と比べれば余程冴え渡っていた。
下を見下ろせば、宴の後片付けに追われる人々が忙しなく動き回っているのが見える。中でも、皿を山ほど重ねて抱えている赤い頭が目に留まった。思えば、マスルールをこんな風に見下ろすことなど初めてである。随分小さく見えるものだとじっと見ていると、その視線を感じ取ったのか、マスルールも足を止めて私を見上げた。上空と地上とではそれなりの距離があるというのに、恐らくマスルールにははっきりと私の顔が見えているのだろう。私にはそれだけの視力はないけれども、確かに目が合っていると感じていた。
三秒程そうして見つめあった後、私は口許で人差し指を立てた。マスルールは頷いた──ような気がする。彼は再び前を向いて歩き始め、私にはまた赤い頭しか見えなくなる。不意に紫の長い髪が視界にちらついたので、私も下を見下ろすのをやめた。
星が散りばめられた空を眺めながら、長く息を吐き出した。たとえこのまま寝つけないとしても、夜明けにはまだ遠い。島の上空をぐるりと一周した後で、それでも眠れそうになければ、これから二日酔いに悩まされるだろう人々のために薬でも作るとしよう。
***
空の端が明るくなり始める頃、私は浅い眠りについた。それもやがて太陽の光によって妨げられ、迎えた朝はあまり気分の良いものではない。
いつもよりのろのろと身支度を済ませ、手に籠を持って部屋を出た。入っているのは、どうせ眠れないならと夜を徹して作っていた薬である。やはりというべきか、清々しい朝を迎えられた者はこの王宮には少ないようで、それは私が考えていた以上に喜ばれた。
私の立場が公にされたのはつい昨晩のことだけれども──初仕事がこれとは些か複雑である。すれ違う顔色の悪い役人達に薬の小瓶を配っていると、「おはようございます」と背後から声がした。振り返ればジャーファルさんが立っている。朝だというのに、既に疲れきった顔をしていた。
「おはようございます、ジャーファルさん。お疲れのようですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。ただ、あまりにも皆の体調が優れないようなので、少し気が滅入ってしまいまして。……エルハームさんこそ、昨晩は随分飲んだようでしたが大丈夫なんですか? 顔色が良くないのでは?」
「いえ、二日酔いは全く……ですが、なかなか寝つけなかったもので……少々寝不足であるのは否定できません」
簡潔な言葉でも、ジャーファルさんは察しがついたらしい。眉を寄せ、困ったような顔をした。「ああ、」と相槌を打ち、さっと辺りに視線を走らせる。ちょうど向こうから侍女がやって来るところだった。
「くれぐれも無理はしないようにしてくださいね」
結局、ジャーファルさんはその話題に言及することはやめたようだった。こんな廊下の真ん中で話してしまえば、誰に聞かれても文句は言えない。あの瞬間を見ていた者は多くはなかったのだ。わざわざ話が広まるようなことは避けるべきだと思ったのだろうし、私としてもその配慮は有り難かった。人の口に戸は立てられぬから、どうしたっていずれは噂になってしまうものだとしても、だ。
「お気遣いありがとうございます。それにしても、宴の翌日はいつもこうなのですか?」
「ええ、恥ずかしながら……。特にも今回は久々の宴ということもあって、皆 羽目を外しすぎたようです」
「そうなんですね。多めに作っておいて良かった」
「何をです?」
「二日酔いに効く薬ですよ。今、皆さんに配っていたところで……特効薬とまではいいませんが、そこそこ効きます」
「……ああ、貴女は間違いなく優秀な薬師殿です」
そう言うなりがっしりと私の肩を掴んだジャーファルさんに、私は面食らった。喜色を滲ませ、目にはうっすらと涙さえ浮かべているように見える。よほど宴の翌日二日酔いになる役人達のことで頭を悩ませてきたのだろう、しかし、それにしても大袈裟な。そう思い、それを口にしかけたところで、ジャーファルさんは一転して表情を曇らせるので、私は出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。
「まさか寝つけないからと開き直って、徹夜で作っていたんじゃないでしょうね?」
「…………少しは寝ましたよ」
本当に少しだけではあるけれども、嘘ではない。ジャーファルさんはじっと私の顔を見、それから溜息をついた。
「気を利かせて下さったのは本当にありがたいですし、咎めるようなことでもありませんが……今後は睡眠を優先させて下さいね」
「善処します
胡乱気に見つめるその目を誤魔化すように苦笑を浮かべる。勿論そんなことでジャーファルさんが誤魔化されるはずもない。肩を掴んでいた手が離れていったかわりに、ひどく呆れたような溜息を頂戴することになった。
「さて。残りの薬も、二日酔いの皆さんに配ってきますね」
居たたまれなくなってわざとらしく呟けば、ジャーファルさんは未だ呆れ顔ではあったけれども、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「とても助かりますよ」
「それなら良かったです。……ああ、そうだ、シンにも渡してもらえますか? 王が二日酔いじゃあ威厳がないでしょう」
返答を待たず、小瓶を一つジャーファルさんに押しつける。廊下の先に、会いたくない顔が見えたからだ。
彼もこちらに気がついているに違いないけれども、今日は、出来る限り顔を合わせたくない
「では、失礼しますね」
逃げるように立ち去った私の後ろで、彼がどんな表情をしているかなど、私は知りようもなかった。
160114