早くさめてしまえ


 宴もたけなわという頃になると、いよいよ酒に飲まれた者とそうでない者との差が歴然となり、突っ伏したまま動かなくなる者や青い顔をしてどこかへ席を立つ者が目立ち始めた。その中でマスルールやピスティは変わらずけろりとしているのだから、とんでもないと思う。

「全く……飲みすぎは明日の職務にも響くっていうのに」

 呆れ声に顔を上げれば、予想に違わずジャーファルさんが立っていた。顔色も言動も普段と何ら変わりないけれども、疲れが滲んでいるようにも見える。

「ジャーファルさんもお酒強いんですね」
「いえ、その逆です」
「え? でも……」
「弱いとわかっているので、一滴も飲んでないんですよ。今も素面です」

 溜息混じりに答えたジャーファルさんは、手近な席に腰をおろして周りを見渡した。空の酒樽、酔い潰れたシャルルカンとヤムライハ、それから、平気な顔のマスルールとピスティを見やる。最後に私に視線を戻し、まじまじと私の顔を見つめたかと思うと、小さな唸り声とともに苦笑した。

「エルハームさんこそお強いようで」
「そうなんでしょうか……。お酒自体今日が初めてで、酔うというのもあまりよくわからないのですが、少し眠くなってきた気がしますよ」
「それだけ飲んで少し眠くなるだけなら、十分強いって!」

 ピスティがけらけらと笑った。

「次はマスルールくんとどっちが最強の酒豪か競争してみない? 絶対盛り上がると思うんだよね」
「絶対いやだよ……ねえ、マスルール?」
「……面倒くさい」
「ほら、マスルールもこう言ってるし」
「えー」
「私としてもやめてほしいですね。この二人にそんなことをさせたら、国中の酒を出して足りませんよ」
「私そんなに飲みませんってば」
「どうでしょうね」
「……もう」

 大袈裟に肩を竦めて見せれば、ピスティだけでなくジャーファルさんもクスクスと笑った。
 自分でも驚くほど穏やかな時間が流れている。改めて考えてみれば、心底不思議なものだと思う。初めてこの国に足を踏み入れた時は、本気で死ぬつもりだった。当然こんな日が来ることなど思ってもみなかったし、あの日のままの私なら、こんな日が来るはずもなかった。
 そしてそれは、ジャーファルさんにしても同じだろう。あのとき誰よりも冷ややかな目をしていのは、他でもないジャーファルさんだったのだから。
 一人感慨に浸る私の視界の隅に、ジャーファルさんが何かに気づいて小さく驚いたのが見えたのと、肩を誰かに掴まれるのとは、ほぼ同時のことだった。ぐいと後ろに引き寄せられ、背後に立つその人に背中がぶつかる。辺りに立ち込めるのと同じ酒の匂いと、とにかくたくさんの香の匂いが鼻をかすめた。近づく気配に気づかなかったのは、少なからず酔っている証拠だろうか。嗅覚も気配察知も並みの人間よりは優れている自負があっただけに、ほんの少し動揺しながら顔を上げた。

「……シン」
「やあ、エル」

 シンドバッドは背中を丸めて私の顔を覗き込んでくる。近くなった顔に、心臓が妙な音をたてた。

「気づいたら居なくなっていたから驚いた」
「そう? 気づいたらシンは綺麗な女性に囲まれて楽しそうだったから、放っておいたほうが良いかと思ったのだけど」
「……見てたのか」
「見えてたの」

 肩に置かれていたはずの手が、いつの間にか両頬に添えられている。私はなぜかその手を払い落とせず、シンドバッドから目を逸らすこともできないまま身を固くした。

「本当はエルの隣に居たかった」
「……それはどうもありがとう」
「信じてないな」
「その手の台詞、シンなら呼吸するように言うって知っているからね」
「そんなことはないんだがなあ」

 途端にぐっと顔が近づいた。その意味を理解する間もなく、鼻先にキスが降ってきて、続けざまに頬へとキスが落とされる。一瞬、時間が止まったような気がした。何が起きたのかわからない。もう一度、今度は唇すれすれのところにそれをされた時、かっと全身が熱くなった。
 触れた箇所から一瞬で熱が生まれて、あっという間に身体中を駆け巡っていくようだった。心臓が悲鳴をあげ、ピスティがきゃあと叫ぶのも随分遠くに聴こえる。

「な、」
「マスルール、止めて」
「はい」

 ジャーファルさんの声のあと、マスルールの大きな手がシンドバッドの顔を押しのけるのが見えたけれども、生まれてしまった熱はすぐには消えないし、騒ぎ立てる心臓もどうにもならない。
 ──全部、酔っているせいだ。
 ろくに回らない頭で弾き出した答えはそれだった。シンドバッドが突然こんなことをしたのは、彼が酔っているからだ。そして、私が彼の行動に動揺しているのも、避けられなかったのも、そもそも近づくシンドバッドに気がつくことができなかったのも、すべて、酒のせいなのだ。そうに違いない。そうに、決まっている。そうでなければ、妹分の私にこんなことをするはずがない。
 そう思う一方で、私自身が、妹という関係を否定したのだと思い出す。しかし、だからといって、シンドバッドの行動に納得がいくわけでもない。
 説教をしているらしいジャーファルさんの声もはしゃいだようなピスティの声も、今の私にはただの音だ。いっそ目眩さえ感じながら、すぐにでも夜の海に飛び込んで早く熱を冷ましてしまいたいと、そんなことばかり考えていた。

151129 
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