黄昏に乾杯を


 波となって押し寄せてくる人々にどうにか挨拶を済ませた頃には、すっかりくたくたになってしまっていた。どうも王の周りには自然と人が集まってしまうようで、こっそりその場を離れてから漸くほっと一息つくことが出来た。
 見渡す限りどこもかしこも陽気な人ばかりである。話し声、笑い声、歌声に楽器の音。その余りの賑やかさには圧倒されるけれども、しかし、宴とはまさにこういうものなのだろう。

「エルさーん! こっちこっち!」

 不意に、可愛らしい高い声が私を呼ぶのが聞こえた。辺りを見渡せば、「こっちだよ!」とまた声がする。
 宴のために用意された椅子や机のそのひとつで、大きな杯を手にしたピスティがもう片方の手をぶんぶんと振っていた。見れば、マスルールやヤムライハ、シャルルカンといった馴染みの顔触れに加え、スパルトス様やドラコーン将軍もいる。私は一度だけシンドバッドのほうを振り返ってから、彼らの方へ足を進めた。
 マスルールが口一杯に食事を詰めこんでいて、その向かいではシャルルカンが上機嫌に笑っている。相変わらずよく笑う人だと思いながら視線をずらすと、ヤムライハの少し赤い顔が見えた。早くも酔いが回ってきているのだろうか。

「どう? 楽しんでる?」
「せっかくだからここで一緒に飲もうよ」

 ピスティが空いていたマスルールの隣を指差し、私は大人しくそこに腰を下ろす。忽ちのうちに目の前に酒と料理がこれでもかという程に回ってきて、思わず面食らった。確かにどれも美味しそうではあるけれども、私は決して大食いではないのである。然り気無く皿をマスルールの方へ押しやると、小さな溜息が聞こえたような気がした。

「私、こんなにたくさんは……」
「まあまあ、そう言わずに!」
「いや、でも」
「そういや、エルハームさんと酒飲んだことなかったよな? 強ェの?」
「え、あー……どうだろう」

 実は酒を飲んだことがないのだと答えれば、皆一様に目を丸くして見せた。

「一度もないの!? なんで!?」
「そういう環境ではなかったから、かな。それに、いざ任務というときに酒の臭いがついていたら困るし」

 情報を得るために、或いは標的の尾行がてらに酒場に出入りしたことはあったけれども、私用で足を運んだことは一度もない。そんなことが許される立場ではなかったし、自由に使える金などもなかったから、至極当然のことではある。
 この前の事件では毒入りの酒を飲まされたけれども、あれはまた別物だろう。そういうわけで、今手元の杯に並々と注がれた果実酒は、私にとって未知の飲み物と言っても良かった。

「じゃあ今日はエルさんのお酒記念日かー」
「……別に記念って程のものでもないと思うけれど」
「まあとりあえず飲もーぜ! 乾杯!」

 シャルルカンの声を合図に杯を掲げる。ピスティに促されるままに杯を傾けると、甘いような酸っぱいような苦いような、一言では形容しがたい味が口のなかに広がった。

「初めてのお酒の感想は?」
「……?」
「これ、飲みやすくてシンドリアの女性には一番人気なのよ」
「飲みやすい……かは、比べられる程酒を知らないからわからないけれど、……おいしい、かな……?」
「なんで疑問形なの」

 上手く言葉に出来なかったためにもう一度煽る。それを何度か繰り返し、あっという間に杯は空になったけれども、すかさず横からたっぷりと注がれて、果たして私はどれ程飲めば良いのだろうと考えながら再び口をつけた。

***

 しばらくすると大抵の者は酔いが回って、宴の光景も様変わりしてきた。すっかり出来上がっている者、机に突っ伏す者、地べたに寝転んでいる者。かと思えば、未だに上機嫌で酒を飲んでいる者や顔色ひとつ変えずに食事を続ける者もいる。私はといえば、後者であった。存外、私の体は酒に強く出来ていたらしい。
 私の目の前では、シャルルカンやヤムライハが大勢と同じようにすっかり出来上がっている。半ば夢の世界に旅立っていた。一方で、ピスティは仄かに頬を赤らめつつも上機嫌で飲み続けているし、マスルールなど顔色ひとつ変わっていないのだった。

「二人とも酒豪なんだね」
「そういうエルさんだって相当だよねー」

 にやりと口の端を吊り上げて杯を傾けるその様は彼女の容姿には本来不釣り合いである筈なのに、不思議とどこか馴染んでいて、違和感を殆ど感じさせない。

「まあ、そうなるのかな」
「だってエルさん、顔色どころか機嫌さえ変わっていないし。ねえ?」

 突然同意を求められたマスルールは、一瞬私の顔をまじまじと見つめ、それからゆっくりと頷いて呟いた。

「シンさんもこれくらい強かったら」

 知らず、私達の視線は一斉に 少し先で女性を侍らすシンドバッドに向かう。いつにも増して上機嫌で、血色も良い。相当酔いが回っていると見えた。

「ごめんね、エルさん。……王様があんなで」
「なんで私に謝るの?」
「嫌じゃない?」
「別に、何とも思わないよ。昔からああいう人だから……。敢えて言うなら、身内としては恥ずかしいからやめてほしいなとは思う」

 昔も、そう思っていたのをよく覚えている。聞いているこちらが恥ずかしくなるような台詞も平然と口にしてしまうものだから、幾度となく私は耳を塞いでやり過ごしたものだ。そして今も、それは変わらないようだった。あの頃と同じような気持ちになって、私はそっと目を反らした。
 尤も、もう、身内とは呼べないのだけれども。

151010 
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