隙間から落ちる幻想


「これはこれは……!」

 駆け寄って来た彼は、私の前で跪くと顔を覗き込んだ。思いがけない勢いの良さに圧倒され、反射的に身を引いてしまったけれども、全く意に介した様子はない。

「正直、貴女はもう助からないのではと思っていたのです……! 気分はどうですか? 目眩や痺れそのほか何かありませんか」
「ええ、と……、そうですね、気怠さと手足の先に軽い痺れがありますが……それくらいでしょうか」
「吐き気などは?」
「いえ、特には」
「本当に……? 信じられません……こんなに回復が早いだなんて」

 それは悪意の無い、純粋な感嘆であった。彼の目に負の感情は見受けられないし、ただただ私の回復に驚いているのみなのだと一目で分かる。それでも私の脳裏にはあの悪党の一言が蘇ってこだました。
 きっと。いっそのこと自分でそれを認めてしまえば、楽になるのだろう。
 私は、バケモノであるのだと。

「────……私は」
「それがエルハームさんがこれまでに勝ち取ってきた強みですよ」

 私を遮ったジャーファル様の言葉は全く思いもしなかったもので、一度つかえた言葉はもう出ては来なかった。かわりに何か別のものがこみ上げてくるような心地がして息が詰まる。
 嗚呼、もう、なんなのだろうこの人は。まるで私の頭の中が見えているかの如く、心臓を揺するような言葉を放ってみせる。もしも本当に見透かされているのだとすれば、私は今後彼に隠し事を出来る気がしない。
 魔導士の彼はほうと嘆息して何度も頷いた。表情は穏やかで、最初に感じた印象通りの人の良い笑みだ。

「そうなのですね。助かって本当に良かったです!」

 良かった、良かった。彼は繰り返し言うと、笑みを少し消して真面目な表情になった。
 曰く、魔法は凄い。怪我を治したり、病の症状を緩和させたりすることが出来る。しかし、だからといって魔法に頼りすぎていたのでは、人の体が本来持っている治癒力が落ちてしまう。今回の私のように毒によって体の中が蝕まれた場合には、生死を分けるのは正にその人間本来の治癒力なのだそうだ。魔法で毒を消したところで、体が殆ど死んでいたら手の施しようがない。いくら凄いといえど、魔法で死を覆すことだけは出来ないのだ。
 そう言いながら、彼は私の顔色や体温など診た。彼は魔導士であるけれども、かのような持論から魔法を使わずに治療する医者でもあるらしい。

「といっても、まだまだ未熟者ですがね。貴女は薬草の知識に富んでいると伺いました。是非ご教授願いたいものです」
「……どれくらいお役に立てるか分かりませんが、私で良ければ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」

 薬と毒は表裏一体、祖母から学びセレンディーネ様から学んだそれだ。その方面に明るい自負はある。目を輝かせる彼は、喜びを抑えきれない子供のようにそわそわと体を揺すった。

「でしたらやはり、一刻も早く元気になって頂かなくては! 治癒魔法で痺れを和らげておきます。あと軽く動かして徐々に感覚を思い出させてあげれば、直に元通り動くようになるでしょう」

 彼が杖を翳すとその先から柔らかい光が零れた。
 私の手足は、元通り、動く。
 声には出さずにゆっくりと言葉を噛み締める。私はまた一人で歩けるようになるのだ。安堵が胸に広がって、自然と頬が緩む。良かった。本当に良かった。ふと目線を上げればジャーファル様と目が合って、緩んだ頬をどうにも出来ずにいれば、彼は「良かったですね」と微笑んだ。その笑みがあまりにも自然なものだから、まるで彼と古くからの友人であったかのような錯覚を覚える。「……はい」そんなことはないのだと自分に言い聞かせながらも、頬が勝手に緩むのはどうしようもなかった。
 魔導士の彼は治療が終わると、朗らかな笑みは消さずに暇乞いをした。そしてまた奥の部屋へ戻っていく。その後ろ姿に二人して礼を述べ、衝立の向こうに消えるのを見送った。

「奥の部屋に、貴女が助けた人々がいます」
「……後遺症はないという話では」
「ええ、その通りですよ。ただ、ひどく衰弱している方が何人かいましてね。命には別状はないようですが、ある程度回復するまで彼らに診てもらっています」
「そう、ですか。……あの人達が味わった恐怖を思えば、無理もないのでしょうね」

 おそらく精神的な衰弱が大きいのだろうと、ジャーファル様の表情から察せられた。恐怖は人を追い詰める。平和に暮らしていた分、突然の出来事に酷くショックを受けただろうことは想像に難くなかった。

「とはいえ、皆さん順調に回復しているようですよ」
「それは良かったです」
「既に十分回復した方々は、貴女との面会を希望しているそうですが……それは貴女の回復を待ってからでしょうね」
「……一人で立てもしない状態では、却って心配させてしまいますしね」
「そうですよ。分かっているようで安心しました」

 私の前に立つジャーファル様を見上げる。彼が憎かったはずの私はどこへ行ったのか、今はしんと息を潜めていた。あるいは、あの瞬間にこれまでの私は死んだのかもしれない。滑稽で、しかし妙な現実味を帯びた考えが浮かぶ。それを否定しようとは思わなかった。どちらにしても証明のしようがないことだからだ。
見上げたジャーファル様の双眸がいつかと違って柔らかく見えるのは、恐らく気のせいではないのだろう。いつかよりもずっと複雑な色を宿しているのも気のせいではなく、ひょっとしたら私のそれも同じような色をしているかもしれなかった。

「──話を蒸し返すようですが。正直、貴女がああも強気に出るとは思いませんでしたよ」

 私がシンドバッドに向かって言ったことについてだということはすぐに分かった。なるほど、強気と言えば確かその通りなのかもしれない。しかし、後悔はなかった。

「私は、あの人の部下になりたいのではありませんでしたからね」
「では、……何になりたかったのです?」
「さあ、何になりたかったんでしょうかね。何にもなりたくなかったのかもしれません」
「誤魔化すんですか」
「誤魔化すというより、私自身にも分かっていないんですよ。ただ一つ言えることは、少しでも昔のような仲でいたくて……利用し利用される仲や主従の関係は、明らかにそれとは違うから、ですね」
「でも貴女は……妹の肩書きは重いと言いましたよね。自ら義兄妹の関係を壊したことになるのでは?」
「だって、仕方ないじゃないですか。血は繋がっていない、生涯片時も離れず生きてきたわけでもない。それでも私が彼の妹だと公言すれば国民は、いえ、世界は、私を覇王シンドバッドの妹として──王族として認識することでしょう」

 シンドバッドの妹。様々な方面の輩が、外向的政治的な利用価値を見出し干渉してこないとも限らない。金属器使いでもない非力な魔導士一人、シンドバッドともあろう男と敵対するだけの力を持つ連中ならばどうとでも出来よう。それに、公的に王の妹と認められれば──考えたくはないことではあるけれども──シンドバッドの身に何かあったときこの王国を背負うことになるのは私である。実質的には八人将が治めるとしても、私が国王の妹とされる以上は、私に王位継承権があることになってしまう。それは、駄目だ。いくら小さな島国だろうと、ちっぽけな私には途方もなく大きすぎて到底抱えきれない。

「私はシンドリアの王女にはなれないし、それだけの責任は背負えない。だから、辞退させて頂いたまでですよ」

 私はその器ではないと、自覚しているから。

141207 
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